津和野城(三本松城・島根県津和野町後田)


 05年12月28日(水)、萩から長躯、レンタカーに乗って津和野までやって来た。途中の道は整備されており、すいていて走りやすいのだが、津和野に近づいていくにつれてしだいに、雪が増えてきた。今年は大雪なのでこの辺りもけっこう降ったようである。山口で借りたレンタカーはノーマルタイヤだったため、不安に思ってレンタカー会社の担当者に「津和野辺りは凍結しているかもしれないので、スタッドレスになりませんか?」と頼んでみた。しかし、「すみませんね、ありません。その代わりチェーンが付いていますから」とあっさり言われてしまう。そのため今回の旅行はノーマルタイヤで走りきる事になってしまったのだが、予想通り、津和野に近づくにつれて次第に雪が多くなってくるので不安でいっぱい。道こそは凍結していないものの、周囲の風景はすっかり雪国である。それでもなんとか無事に津和野城が見えるところまでやって来た。

 「津和野城は山城だから、歩いて登るのは大変だけど、リフトがあるので上まで楽に行けるよ」と子供たちに説明していたので、子供たちも「リフトに乗ったら、景色がいいよね!」と喜んでいた。そうやって楽に登れるはずだったのだが・・・・。リフト乗り場についてみると、リフトが動いていない・・・!

  どうしたのかと思って、そこにいた係の人に訪ねてみると、「すいませんねえ、今日はリフトは休みです」というつれない返事。そんなあ!観光ガイドブックには「無休」と書いてあったというのに・・・。「千葉県からわざわざ来たんですけど」とも言ってみたが、「ご苦労さまです」の一言で片付けられてしまう。しかたがないので「他に登る方法はないんですか?」と聞くと、「遊歩道はあるんだけど、この雪で、雪かきもしていないから、まあやめた方がいいですよ」と言われてしまう。せっかく津和野城に登るのを楽しみにはるばる無理な日程で車を走らせてきたというのに、これではあんまりだ・・・・。いったいどうしよう・・・。途方にくれてしまったのであった。

 しかし、そこはヤブレンジャー魂だ、やめた方がいいといわれていても、こうなったらやる事は決まっている。子供を下の神社で遊ばせておいて、一人で上まで歩いて登ってくる事にした。というわけで、ここで思わぬ登山をすることになってしまったのであった。

 とりあえず、雪の中を歩き始めたのだが、けっこう人が歩いているのか、足跡はついている。それに比較的傾斜が緩やかなので、それほど厳しいルートではなかった。「これなら時間はかかるけど楽勝かも」と思いつつずんずん進んでいく。途中で、リフトのそばを通ったが、下を見るとけっこう高い。「本当はこれで一気に上れたのになあ」と思うと、なんだか恨めしい気分になってしまう。それでもめげずにとにかく歩いてなんとか織部出丸の方までやってきた。そうとう急いだのでかなり息が上がってきた。

 そこからいったん尾根を下り、本丸方向にさらに登らなくてはならないのだが、ここに至って、足跡はまったく途絶えてしまっていた。雪の中、なんとか歩いてきた先達たちも、本丸の雪の多さに、ここで諦めてしまったものとみえる。しかし、ここまできて引き返す事はできない。膝近くまで埋まる雪の中を、ズボッズボッとはまり込みながら、一歩一歩進んでいく。

 歩く速度が急に落ちてしまい、なかなか前の方まで進めない。まるで牛歩戦術である。しかもこの城、番所から二の丸を通って太鼓丸に上がるルートが、立ち入り禁止になっている。どうも崩落があったようで、一部通れなくなっているのだ。仕方がないので三の丸の方に回って、天守台の脇を通りながら歩いていくしかない。(もっとも、二の丸からのルートが通れたとした所で、結局は全部歩いてみたと思うけど) 

 しかし、そうしてたどり着いた最高所の三十間台は、非常に眺望がよかった。ここから臨み見た、津和野の町の雪景色は生涯忘れまい。この寒さと苦労とともに・・・・。振り返ってみると、郭内はどこも一面雪で真っ白になっており、そこについている足跡といえば、私のものと、うさぎのものだけであった。私にとって津和野城は「雪に埋もれた城」として生涯記憶に残ることであろう。それでも山上の遺構は見事で、登ってきてみてよかったと思ったのであった。これを見ないで引き返していたら、きっとひどく後悔したにちがいない。何はともあれ、城に来たら、ちゃんと遺構を見ないといけません。

 鳥瞰図は、正保城絵図を参考にして描いてみたものである。正保城絵図って、きちんと現状の遺構に対応しているものが多いのだが(つまり正確だという事)、どういうわけか、津和野城の場合は、ほとんど、現状の地形と合っていない。なんだかよく分からないので、テキトーに現状とあわせてみたので、かなり想像が入った図になってしまったが、まあこんなイメージだったのではないかと思う。津和野城に関しては廃城直前の明治4年に描かれた絵図も残っているのだが、これまた正保城絵図とはだいぶ違う。どうも途中で改築が行われているのではないだろうか。正保城絵図には描かれている三重の天守も、明治の絵図では、「天守台」としか描かれていなかった。

 ところで、この天守台、本丸(三十間台)の一段下に置かれているという変わった配置になっている。しかも城下町と反対方向の下なので、これではまったく象徴的な意味合いがないという感じである。幕府に配慮してわざと天守を目立たない所に配置したのか、それとも山上は風が強いので、吹き飛ばされないように本丸下に配置したのかは定かではないが、ちょっと珍しい配置であるといえるだろう。

東側の台地から見た津和野城。中央が主郭部。右側が織部出丸。 主郭部を拡大してみた所。雪の上に石垣がそびえている。
山麓近くにある太鼓谷稲荷。この鳥居の先に登り道がある。 遊歩道には雪がだいぶ積もっていた。この辺りはまだ楽勝だ。
途中から下のリフト駅を見たところ。本当ならリフトで上がるはずだったのに・・・・。本当に恨めしいぞ・・・・。 本丸の入口を上がっていった所。この辺りまではまだなんとか雪に埋もれずに歩けたが・・・。
天守台の下から北西側の虎口石垣を見たところ。もう誰の足跡もない。一歩進むたびに、膝近くまで雪に埋もれてしまう。長靴を履いていないので大変だ。 三の丸先端の虎口。ここには櫓門があったのであろう。
三の丸から見た人質曲輪の石垣。とにかく高く積んである。「人質曲輪」とあるが、実際には人質櫓といった櫓台があったところであろう。 三十間台の石垣。よく見ると、崩れないようにワイヤー網をかぶせているのが分かる。
太鼓丸への登り口。雪が積もっていて、どうなっているのか構造がよく分からない。 最高所の三十間台。雪の表面上には、うさぎの足跡と私の足跡しかない。
三十間台と側面の石垣。眺めがいいぞ! 三十間台から見た城下町。津和野は雪の中・・・である。景色は美しいのだが、ここまでくるのがきつすぎる!
三十間台の虎口。ここも雪のため、どういう構造になっているのかよく分からない。 下の腰曲輪から太鼓丸方向を見たところ。この辺り立ち入り禁止になっている。
織部出丸の石垣。こちらには、それほど雪が積もっていなかった。 織部出丸の虎口。
殿町通り。よくガイドブックなどにある、鯉のいる側溝である。 侍屋敷の門。
 津和野城を最初に築いたのは吉見氏であり、鎌倉時代のことであったといわれる。2度にわたる元寇により、海防の必要性を感じた鎌倉幕府は、吉見頼行に石見海岸の防備を命じた。その頼行が、石見での本拠として築いたのが三本松城であったというのである。ただ、ちょっと不思議なのは、この地は海岸地帯からはかなり離れた内陸部であり、海防を命ぜられながら、津和野辺りに本拠を置いているということである。要するに元が攻めてきたら海岸防御どころではなく、内陸部に引き込んで山城で迎え撃つしかないと思っていたのかもしれない。何しろ元の脅威は身に染みて知っていただけに、まともに戦うのは愚の骨頂だと思っていた可能性もある。

 ともあれ、吉見氏はそれ以来当地の豪族となり、13代320年にも渡って津和野の領主であった。戦国期には毛利氏に属しており、その関係で、関が原合戦でも西軍に属してしまったため、吉見氏の長い支配も終焉を告げることになる。

 関ヶ原後、入部してきたのは、坂崎出羽守直盛である。坂崎氏はもともとは宇喜多氏の一族であり、備前、備中美作三ヶ国を領した戦国大名、宇喜多直家の弟、忠盛の息子であった。しかし、直家の息子秀家とは折り合いが悪く、しょっちゅう対立していたらしい。関ヶ原直前の会津攻めには、秀家の名代として、東軍に従って関東に進軍した。その後、本家の宇喜多秀家は西軍に属し、その有力な戦力となったが、秀家嫌いの直盛は、そのまま東軍に属して戦った。そのため、所領没収となった本家とは対照的に、直盛は、家康から津和野三万石を拝領する事になる。その際に宇喜多の姓を改め坂崎氏にしたというわけである。津和野城も、この坂崎氏の時代にかなり手を入れられたようで、現在見られる遺構の多くは坂崎氏の手による所が多いのではないかと思われる。

 しかし、坂崎氏の支配はそう長く続かなかった。元和二年(1616)、坂崎氏は突如として改易になる。その理由としては、大坂落城後に、千姫を貰い受ける事を希望していたが、それが叶えられなかったために、幕府に対して反抗的な態度を取ったためだと、一般的には言われている。しかし、それは多分に伝承的なものに過ぎず、実際には他の理由があった可能性もある。とはいえ、坂崎氏が取り潰されたのは事実であり、その後は因幡から亀井政矩が4万3千石で入部してきた。その後は亀井氏が代々続いて明治維新を迎えることになる。観光化している城下町の風景は、亀井氏の時代に整備されたものだといわれる。




中荒城(津和野町鷲原)

 中荒城は津和野城の尾根続きの南西1kmほどの所にある。比高150mほどの山上である。西側の中腹部には鷲原八幡宮が祭られている。

*広島のAさんからの依頼で、Aさんからいただいた図面をもとに作成した鳥瞰図。というわけで、まだこの城には訪れていない。

 中荒城は、永仁3年(1295)、吉見氏初代の頼行によって築かれた城である。これは、2度の元寇によって危機感を抱いた鎌倉幕府が、西石見の防備を命じたことによるものであるという。

 中世三本松城が機能していた時代には、三本松城の出城として用いられていたものであろう。


































大竹屋旅館