玄蕃尾城(内中尾城・滋賀県余呉町内中尾山・福井県敦賀市刀根)

 玄蕃尾城は内中尾山の山頂にあり、賤ヶ岳の合戦では柴田勝家が本陣を置いたところである。規模はそうたいして大きいものではないが、きわめて技巧的な城郭で、国指定の史跡となっている。余呉町から福井県の敦賀市に向かう県道140号線に柳ヶ瀬トンネルがある。このトンネルは対向車とすれ違えない狭いトンネルである上に長さが1kmほどもあり、できるだけ通りたくない怖いトンネルなのだが、このトンネルを出たすぐ先に、玄蕃尾城の登り口がある。トンネルを出たらすぐ右に曲がる道がある。(本当にすぐ右なので注意!) その山道を入って5分ほど進むと、駐車場のようなスペースで行き止まるので、そこに車を置いて、20分ほど山を登ると城内に到達する。

 近年、行市山から玄蕃尾城にまで続く道が整備されたが、このコースに入る内中尾山の尾根下部分にある峠の切り通しのような所を、かつて刀根越えの街道が通っていたらしい。現在の玄蕃尾城は人里離れた山中にあるが、もともとはこの街道を押さえるための城郭であったのかもしれない。柴田勝家が賤ヶ岳の合戦で陣所として用いるはるか以前に、朝倉氏がこの地に砦を築いていたとも言われる。玄蕃尾城の「玄蕃」は佐久間玄蕃ではなく、朝倉玄蕃ではないかとも言われるのである。

 ただし現在見られる遺構の主要部分は、賤ヶ岳合戦において柴田勝家が構築させたものと見てよいであろう。規模はともかくとして、その構造は織田系の城郭の1つの到達点を示していると考えられる。

 図の1郭は40m四方ほどの郭であるが、この郭には方8mほどの天守台のようなものがあり(実際に建物が建てられていた礎石が出土しているという)、また3つあるすべての虎口に馬出し状の小郭が付属しているので、これを主郭としてみてよいであろう。馬出し1に接続する虎口は土塁が食い違いとなっている。

 馬出し2は長軸10mほど、馬出し1は長軸20mほどの細長い構造、馬出し3は三角形に近い郭であり、馬出し部分はそれぞれ形状を異にしているが、機能的にはすべて馬出しであったと見てよいと思う。

 郭の周囲にはそれぞれ横堀が掘られているが、1郭周辺のものがもっとも深く、最大で6mほどの深さがある。

 1郭から馬出し2の方向には、2の郭、3の郭と郭が連続し、横堀に囲まれた虎口がいくつか置かれている。城の構造からしてこの方向の防備が最も重視されているように見えるが、こちら側は刀根越えの街道に接続している部分なのである。このことも、玄蕃尾城がもともとは峠を押さえるための城郭であったということを示している。

 馬出し1の先には4の郭がある。この郭は城内で最も広い郭であり、長軸60mほどある。周囲には横堀が掘られ、北東方面に虎口が開かれている。この虎口の先の尾根はかなりの平坦地を持っており、この方向にもさらに堀などを入れた方が、防御上有利に思えるのだが、そこまでは加工されていない。その辺りまで手を入れる時間がなかったのであろうか。4の郭と馬出し1の堀の外側には土塁がT字型に組み合わされ、北西からの敵がいきなり馬出し1に取り付けないように工夫されている。

 馬出し3の下には5の腰曲輪がある。この方向は構造的に脆弱な感じがするのであるが、その下が急斜面になっているので、こちら側からの攻撃についてはあまり意識しなくともよかったのかもしれない。

 3の郭は構造的に面白い郭で、郭の西側に切りとおしの道が通っており、その西下には横堀が掘られている。この切り通しの道を敵が通過する際に、3の郭の塁上からの攻撃が行えるように工夫されていたものだと思う。

 8の郭の先には深い沢がある。この部分も堀切のように見えるのであるが、これが自然地形なのか、人の手が入って掘り切られているのかは意見が分かれる所である。しかし、斜面を見ると、多少人の手が入れられているようにも見える。

 玄蕃尾城はざっとこのような構造の城であるが、国指定史跡ということもあってか、下草がきちんと刈られており、真夏でも遺構を十分に見ることができた。探訪するのにお勧めの城であることは間違いない。





入口の郭の堀。深さ3m、幅5mほど。 南の郭の虎口
1郭南馬出の南側の堀。深さ4m、幅6mほど。 1郭南馬出から1郭の虎口を見たところ。虎口の左右には高さ2mほどの土塁がある。
1郭内部、北東に高さ1m、方8mほどの櫓台がある。 1郭北馬出の堀。深さ3m、幅5mほど。
北の郭の堀底の写真を撮るウモレンジャー隊員。しかし、この後悲劇が待ち受けていた・・・・・・・。 北の郭の外側の土塁はT字形に郭に接続している。
1郭東側の城塁。高さは堀底から6mほどあり、最も深い部分である。 南側の郭の城塁には複雑な横矢がかかっている。
城の始まりは明らかではないが、朝倉氏が刀根峠を通過してくる織田軍を押さえるために築いたのが最初ではないかと考えられている。その後天正11年(1583)には、柴田勝家が、羽柴秀吉との対決に備えて、城を大改修して現在のものにしたと思われる。

*関連サイト  近江の城郭  埋もれた古城





















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