東野山砦(佐祢山砦・滋賀県余呉町東野)

 東野山砦は、賤ヶ岳の合戦で堀秀政が陣所としていたところである。余呉町役場の北東の比高240mほどのかなり奥まった山の中にある。

 城址に到達できる道は2つある。1つは麓の東野地区体育館から上がっていく林道であるが、この道は急な上にかなり荒れてしまっている。この道ならば10分ほど登ればすぐに城址の脇に着くことができるのであるが、4駆の自動車でないと登るのはかなり難しいであろう。私たちも降りるときにはこの道を利用したのであるが、オートマで4駆でないワゴン車では降りるだけでもかなり怖い道であった。登るのは到底無理であったろう。

 もう1つは、小谷地区の八幡神社の脇の林道を上がっていくコースである。舗装された山道を5分ほど登ると、山の峠近くで道が右側に分岐しているところがある。そこを右手に入っていくと未舗装だが、わりときちんとした林道が続いている。そこを進んでいくのである。この道は、東野山砦の脇に着く、前述の道とつながっているのだが、こちらはそれほど荒れてもいないし急坂でもない。しかし山中をかなり迂回して進んでいくので、急峻な尾根上を相当長く走っていくことになる。実際走りながら「もうぜんぜん違うところまで進んでいっているのではないか」「砦まで行けないのではないか」と思うほど遠かったので、砦の案内板を見つけたときには感動してしまったものである。

 砦には馬出しなど技巧的な面もあるが、基本的には規模は小さく、まさに陣城という感じである。しかし、もともとは地元の豪族であった東野氏の居城が置かれていたところであったという。それを急いで改修して現在見られるような城郭としたものであろう。

 城は基本的には土塁や堀によって3つの部分に区画されるが、郭内には複雑な段差がいくつもあって、郭内がどのように利用されていたのか、今ひとつわかりにくい。城郭としてみれば、かなり未完成な部分が強いと思われる。たくさんの軍勢を終結させるほどのスペースもないし、堀秀政軍は、この砦だけではなく、山麓周辺に軍勢を展開していたのであろう。

 なお、地元の人に「東野山砦はどこですか」と訪ねても知らないといわれてしまった。この砦には佐祢山砦という別称もあるようであり、そちらの名称で尋ねる方が通りがよいのかもしれない。





余呉町側から見た東野山砦のある山。比高240mほどの急峻な山上にある。 林道脇にある東野山砦の案内板。ここまで来るのがなかなか大変である。
1郭北側の堀。といっても城塁の高さは2mほどで小規模なものである。城塁が削ったようになっているのが特徴である。 1郭内部。郭内には1mほどの段差や、土塁による仕切などがある。
1郭と2郭との間の堀切。やはり深さは2mほど。この堀底は2郭外側の横堀に接続している。 1郭から東側に延びる竪堀とそのさきに作られた林道。
 賤ヶ岳合戦で、佐久間軍が賤ヶ岳砦、大岩山砦、岩崎山砦などを奪取すると、東野山砦は、柴田軍の中に取り残されたような形になってしまった。しかし、実はそのことが賤ヶ岳合戦における趨勢に大きな影響を与えているのではないかと思うのである。

 賤ヶ岳合戦で勝敗の行方を決めたのは、速攻で駆け戻ってきた羽柴軍に対して佐久間軍がすぐに兵を引き上げてしまったことにある。大垣から長躯してきた羽柴軍は疲労の極に達しており、戦闘的には不利であったはずだが、簡単に佐久間軍に打ち勝つことができたのは、佐久間軍がすでに撤退の意思を見せていたからである。退却する敵を攻撃することはたやすいのである。退却途中を攻撃された佐久間軍は混乱しながら柴田本軍になだれ込み、新発田軍の陣営は収集不可能な状況に陥った。そこを攻撃されたのではさしもの柴田勝家にもなす術がなかったのであろう。

 それにしても、佐久間盛政はなぜこう簡単に撤退しようとしてしまったのであろうか。賤ヶ岳の山稜を奪取し陣を引けば、羽柴軍に対してかなり優勢であり、そこに柴田軍が加わってくればかなり有利な戦いをすることもできたはずである。

 ここでクローズアップされるのが東野山砦の位置である。この砦は柴田軍と先行した佐久間軍とを分断するような位置にあるのである。佐久間軍がすぐに撤退の意志を固めたのは、背後に東野山の堀軍がおり、退路を絶たれ前面の羽柴軍とにはさみうちに遭うことを恐れたからではないだろうか。そうでもなければ、こう簡単に不利な退却戦を行う必要はなかったはずである。

 佐久間軍が簡単に退却に移ってしまったことこそが勝敗の行方を決めてしまったのであるから、その要因となった東野山砦の持っていた意味は非常に大きなものであったはずである。



賤ヶ岳砦(滋賀県余呉町川並)

 賤ヶ岳砦は、賤ヶ岳の合戦の中心となったところである。北陸自動車道の木之本ICの西1kmほどの所に、山上に登れる近江鉄道経営のリフトがあるので、これを利用すればすぐに山に上がることができる。比高300mほどの山である。

 山上に至ると余呉湖をよく見ることができる。余呉は私の先祖の出身地であるので、これはなかなか感慨深いことであった。また反対側には琵琶湖も見えて、絶景の場所である。と同時に、それだけの要衝であったとも言えるかもしれない。

 砦の北東部の尾根は中川瀬兵衛の大岩山砦、高山右近の岩崎山砦を経由して余呉駅の辺りに下りていくハイキングコースがつけられている。またリフト乗り場から南西に7kmほど歩くと阿閉氏の居城であった山本山城に到達するハイキングコースもある。また北西方向の尾根を進むと佐久間盛政の陣が置かれていた行市山に到達することができる。

 賤ヶ岳砦は、砦といっても、それほど明確な遺構は多くない。あくまでも陣所といった程度のものである。これは大岩山、岩崎山などにも言えることであるが、羽柴軍には防御力を伴った陣城を築くだけの時間がなかったのであろう。

 山頂は20m×50mほどのスペースで一段下には腰曲輪があった。また西側には土塁と城塁が明確に残っている。東側にも堀切が残っているが、半分までしか掘り切られていない。このような構造から見ると、砦は未完成のものであったといえるかもしれない。この状態で佐久間軍に攻撃を受けたのであるから、十分に守りきることができなかったのであろう。砦の守将らはすぐに敗走してしまう。佐久間らは、その勢いを駆って、北東の尾根の大岩山をも攻め取り、中川瀬兵衛を討ち取ってしまうのである。しかし、この敵陣の動きに着け込んで、大垣から速攻引き返してきた羽柴軍によって攻撃されることになる。これが賤ヶ岳の合戦である。













余呉湖畔から賤ヶ岳方向を見る。この東側の尾根を通って佐久間玄蕃が攻撃を仕掛けてきた。 賤ヶ岳の山頂から余呉湖を望む。中央奥左手の山上に、玄蕃尾城のある内中尾山がある。
賤ヶ岳砦の城塁。この部分だけ見るといかにも城らしく見える。 賤ヶ岳から佐久間玄蕃のいた行市山方向を見たところ。この尾根伝いに7kmほど進むと山本山城にも行くことができる。
賤ヶ岳砦の守将は桑山重晴、浅野弥兵衛、羽田正親らであったという。しかし、行市山方向から佐久間盛政、柴田勝政らの軍隊が攻め寄せてくると、守りきれずに敗走した。佐久間らはさらに北東の尾根続きの大岩山砦をも攻撃して中川瀬兵衛を討ち取る。しかしその夜半には戦場に到着した羽柴軍によって撃退されることとなる。

それにしても羽柴軍は、大垣からの40kmを駆け続けた上、さらに比高300mのこの山を登って佐久間軍を撃退したということに
なる。昔の人ってそんなに体力があったものなのだろうか。



岩崎山砦(滋賀県余呉町川並)



*現地案内図に基づいて作成した鳥瞰図。岩崎山砦の位置はここ
余呉湖畔からハイキングコースを登り始めるとすぐに小規模な堀切が見えてくる。 山道を登りきったこの辺りが高山右近のいた岩崎山砦であると思われるが、明確な遺構はあまり見られない。
 賤ヶ岳合戦で岩崎山には高山右近が陣取っていた。比高50mほどの尾根上がその陣所にあたる。佐久間軍の大岩山攻撃で高山軍はあっという間に引き上げてしまったので、高山右近の武略に問題があると見るむきもあるようだが、岩崎山のさらに高い尾根続きの先に大岩山砦はあり、この大岩山を占拠されては、岩崎山の軍勢は撤退するしか方法はなかったであろう。高山右近は無意味な戦いを避けたのである。



大岩山砦(滋賀県余呉町坂口)

*現地案内図に基づいて作成した鳥瞰図。大岩山砦の位置はここ




岩崎山から更にハイキングコースを500mほど進んでいくと、中川瀬兵衛清秀が守り、そして討ち死にを遂げた大岩山砦の跡がある。削平地とわずかな土塁とで構成された単純な陣場である。ここには中川瀬兵衛の供養塔が建っている。 下の林道から砦を見たところ。柵が一部復元されている。
 大岩山砦は、岩崎山砦からさらに500mほど尾根道を上がっていったところにある。余呉湖の湖畔から岩崎山砦、大岩山砦を経由して賤ヶ岳砦まで歩けるハイキングコースが整備されているので、時間があればぜひ歩いて見たいところである。大岩山へは北東下の国道365号線辺りから上がっていく林道もあり、車で砦下まで来ることもできるであろう。(ただし未舗装の道である) 

 上記の通り、この砦は削平地とわずかな土塁を伴っただけの簡素なものであり、佐久間軍の攻撃を受けては、守りきれなかったのは致し方がないところである。中川瀬兵衛が撤退したとしても、無理のないところであろうが、彼はここで意地を見せて戦った。そのことが彼の戦死につながっていくのである。








*関連サイト  近江の城郭 
























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