犬山城(白帝城・愛知県犬山市)

 この図は正保城絵図に基づいて復元してみたものである。現状と一部違っている感じもするが、現状をきちんと確認する時間もなかったので、だいたい絵図の通りであろうという感覚で描いている。

 犬山城の下の木曽川を日本ラインと呼んでいる。この「ライン」はドイツのライン川にちなんだものという。ライン川の川沿いには多くの古城が立ち並んでいる。木曽川沿いの両岸にも多くの山城が存在していたので、それになぞらえているというわけだ。犬山城は確かに風光明媚ないい城である。しかし、本場のライン川の城郭群と比べたら、やはり比較にはならない。こちらの方がそうとう見劣りしてしまう。というわけで、この「日本ライン」という名称を聞くとちょっと気恥ずかしいような気になってしまう。群馬に行くと「日本ロマンチック街道」というのもあるが、これも同様だ。どうも「日本ハワイ」というのと同じ感覚がしてしまう。日本の城を喩えるのに何も西洋の名所をださなくてもいいのになあ・・・。こういう喩え方というのはどんなものだろうか。犬山城の別名の白帝城というのは三国志で有名な劉備玄徳が没した城の名前である。河に臨む岩山の城ということで、喩えたものだが、こちらの方がまだイメージ的には許せるという感じがある。

 犬山城は木曽川に臨む岸壁の上にある。もともとこの要害を利用して居館が営まれていたものだろう。その後城はしだいに拡張され、尾張徳川家の家老成瀬氏の居城となるに至って近世城郭として整備されていくこととなった。 

 本丸には国宝の天守がある。この天守は美濃の金山城を移築したものだという伝承があり、そのため天文年間に建てられたものというようにかつては言われていた。つまり日本最古の現存天守というわけである。しかし、金山城に本当に天守が存在していたかどうかはっきりしない上に、解体修理の結果、特にそのような移築された形跡がないということもあって、現在では現存最古の天守という称号は丸岡城に譲っている。そうはいっても天守そのものは古風な望楼式のものである。この天守も、もともと現在の形状であったわけではなく、3,4階の望楼部分は後で建て増しされたものと考えられているようだ。

 犬山城と言えば、以前は「日本で唯一の個人所有の城]ということで知られていた。成瀬氏の子孫の個人所有であったのである。しかし、さすがに個人でこの城を維持するのは税金を払う上で相当の負担になっていたようである。04年、城は財団法人白帝文庫の所有となった。したがって、現在はこの法人が管理している。

 本丸から台地基部の方に向かって地勢が傾斜しており、ここに段々に数郭が置かれている。中央部に階段を配置して、その両脇に郭を並べるという形式は寺院に近いものであるが、こういう縄張りそのものが城の古態を示しているのかもしれない。

 この樅の丸に財団法人白帝文庫がある。また、桐の丸は現在は護国神社が祭られている。この桐の丸の下に黒門があり、枡形を形成している。その脇には深さ5mほどの空堀が存在しているが、この堀は中世城郭の面影を残したかのような堀である。この部分までは、だいたい旧状が残されている。

 その下の三の丸は現在はだいぶ破壊されており、ここには駐車場やお土産屋が立ち並んでいる。周囲を囲んでいた水堀も、一部切り通しの道路となっている他は、ほとんど埋められてしまったようだ。

 古図を見ると、三の丸の南側にも、侍屋敷群があり、周囲を堀が取り巻いていた。そして南側の中央部には内枡形を備えた大手門が存在していた。そしてさらにその外側にも外構えとも言うべき堀に取り巻かれていた外郭部が存在していたようだが、この辺りはすっかり宅地化されていて、現在ではその面影はまったくない。現在の犬山城を見ると、城域面積はとてもささやかなものに見えてしまうのであるが、本来は外郭ラインも備えた巨大な城郭であった。





木曽川の断崖に望む天守。川から攻撃することは難しいであろう。 城内には護国神社が祭られている。
本丸に向かう登城道。なんとなく安土城の大手道と似ている。 この登城道の下は枡形になっている。
本丸入口。門は復元されたものである。 本丸内部から見た国宝天守。かつては成瀬家の所有物であったが、現在では財団法人管理となっている。
天守の内部。 天守から北側を望む。向こうの山にも城があった。
天守からは岐阜城のある金華山もよく見える。
大手口の枡形を出たところ。 中世を思わせるような空堀も残っている。
かつての水堀が切通の道路となっていた。 大手門の枡形のあった辺り。
(以前の記述)説明するまでもなく有名な国宝犬山城天守閣である。唯一個人が所有している城(文化財としての)としても有名だ。こんな国宝を個人で持っていると維持費や税金がたいへんなことだろう。この天守はかつて上流の金山城の天守を移築したものと言われ、天文年間に建てられた現存最古の天守と言われていたが、その説は否定され、現在では、天正4年に建てられた丸岡城天守に次ぐ、2番目に古い天守ということになっている。2層目より上の望楼部分は、後で付け足されたものらしい。あちこちで建造される模擬天守の多くが犬山城に似た外観を持っていることからも分かるとおり、望楼式天守の代表的な形態であり、1つの標準ともいえる城だ。

 尾張のもともとの守護は斯波氏であり、犬山城はその家臣であった織田氏によって築かれたものである。信長が織田家を継いだ当時は織田信清が城主であった。信清は、信長の弟を殺害したことで信長に攻撃され、城を退いて逃走した。

 その後、元亀元年には池田恒興が城主となったが、それ以後も、織田、中川、池田、加藤、武田、土方、三輪、石川、松平、平岩など、城主はめまぐるしく交代した。そして元和2年(1616)、尾張徳川家の家老成瀬氏が3万5千石で入城し、明治維新まで続くことと成る。






















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