観音寺城(滋賀県安土町石寺)

 観音寺城は、近江の守護であった佐々木氏(戦国期には六角氏となっていた)が築いたものである。繖(きぬがさ)山と呼ばれる、標高440m(比高330m)もある高い山であるが、高いだけではなく、巨大な山塊でもある。ここは古くから修験道として観音寺が置かれていたところでもあるが、この広大な山全体を取り込んで城は築かれている。今回、主要部をざっと回ったのだが、なにしろ巨大な城郭なので、すべてを把握することはできない。そこで、「中世城郭事典」の縄張り図を参考にして鳥瞰図を描いてみることにした。

 登城口としては観音寺に登る西側からの石段があり、これがもともとの登城道であると言われ、山麓の城主の居館もこの方向にあったという。現在では観音正寺に上がるための車道が北側の繖公園の辺りからつけられており、500円を払えば、山頂近くまで車で行くこともできる。

 観音寺城は総石垣造りの山城として六角氏の権威を示すものとしてもよく知られている。確かに見事な石垣が多く使用されているが、実際訪れてみて、石垣は主要部分に限られることが分かった。城の主要部分は西に派生した尾根に置かれていたようで、本丸、平井丸、池田丸と呼ばれる郭はすべて石垣によって囲繞されている。また、それぞれの郭には石枠を伴った池の跡のようなものもあり、わりと水源も多い山であったことが想像できる。どんなに壮大な城郭を構えようと、水源を持たなくては篭城はできない。そういう意味でも観音寺城は、高い山城の割には居住性も十分であったともいえる。この本丸には石垣による食い違いの虎口もある。

 本丸から尾根を降りていくと平井丸がある。この虎口の石垣は、石の大きさも巨大であり、非常に立派なものである。また手前には石造りの堀切もある。その下の池田丸までが総石垣造りとなっているが、池田丸から本丸下までは石垣の城塁の脇を通るような道がつけられており、その先の石段を通って本丸に上がれるようになっている。これが本来の途上道ではないかとも言われるが、そうするとこの登城道は、たくさんある郭のほとんどを経過せずに登れてしまう。この辺りをどう見るか、一考を要する。

 現在、駐車場のある部分の上には布施丸があるが、この郭も総石垣造りである。またそこから観音寺に向かう道の上の伊庭丸下には、観音寺城で最大の10m近い高石垣もある。その下辺りには道の両脇を石垣でふさいだ虎口もある。こうした構造からすると、この方向からの登城道も、主要な道として意識されていたようである。

 この山のあちこちには岩盤がむき出しになっている。それも巨大な岩があちこちに露出しており、この山自体が石材の産出地であったことが想像できる。石垣に使用されている石の多くは、この山自体から産出されたものであったのであろう。

 さて、この城には非常にたくさんの小郭があるが、これをどうみるべきなのか。一般的は家臣団を居住させるためのスペースではないかといわれており、確かにそう考えるのが合理的であると思われる。すなわち守護大名による、家臣団居住システムのさきがけのような城であるというように、この城を見ることができる。しかし永禄11年(1568)、足利義昭を奉じた織田信長の軍が侵攻してきた際には、六角氏はろくに篭城もできずに敗走してしまっている。これだけの大城郭をもちながら、それを維持することもできなかったのはなぜだろうか。

 1つには城郭が余りに大きくなりすぎていたことが原因ではなかったかと考えられる。城が余りに巨大になりすぎては、城を守るのに多くの人員がなければならない。信長は侵略に際してはできるだけ多くの諜略をもちいる人物である。六角氏の家臣団の中にも信長に通じていた者が多く出てきていたのではないだろうか。観音寺山は、家臣団がそれぞれの郭を守ってこそ、十分な防御を発揮できる巨大な山塊である。六角氏はすべての家臣団をこの城に集結させることができなければ、結局観音寺城を守りきることもできなくなってしまう。結局のところ、城を大きくしたのはいいが、逆に巨大になりすぎてしまって守りきれなくなってしまったというのが、実際のところではなかったであろうか。

安土城大手口から見る観音寺城。比高330mもある広大な山である。 山上の駐車場脇の観音寺入口。
駐車場の真上には布施曲輪がある。方40mほどだが、総石垣造りであり、虎口も二カ所ある。 観音寺本堂。数年前の火事で焼け再建されたと言うことで真新しい。脇の石積みはなかなかすごいが、どういう意味があるのだろう。
観音正寺から池田丸方向を見たところ。この更に先の下に安土城がある。 本丸に至る石段。なんとなく安土城の石段と似ている。
本丸の搦め手口。石垣が食い違いになっている。 本丸下にある井戸の跡。この山には水源が豊富であったらしく、それぞれの郭に井戸の跡らしい石組みの窪みがある。
平井丸にある埋門。高さ1m余り。くぐるのがやっとという狭さである。 平井丸の虎口。石積みが見事である。
平井丸から池田丸に続く石垣。これが大手口ではなかったかと推測されている。 平井丸の虎口脇にある、石垣による堀切。高さは2mほどである。
池田丸の内部。周囲は土塁ならぬ石垣で囲まれている。この先端には深い堀切がある。 大見付の石垣。高さ10mほどあり、この城で最大の高石垣である。三段構成になっている。
大見付辺りには巨大な岩石がいくつもある。石を切り出したような跡もあり、石垣の材料は山中から豊富に切り出せたことが想像できる。 観音寺参道の下にもいくつもの郭があり、そこにも石積みの井戸の跡がある。
 山上の観音寺は古くから砦としても使用されていたところのようで、南北朝期にも佐々木氏が立てこもったことがあると言われる。現状の城郭が構えられたのは戦国期になってからであると思われるが、大永3年(1523)には宗長がこの城を訪れ、あmた天文18年、(1549)、石寺において本国初の楽市が開かれているので、この時期には六角氏の本拠地として整備されていたと考えられる。天文8年(1539)に相国寺の僧が登城した際には、屋形二階に宴席が設けられたといい(鹿苑日録)、この頃には2階建ての屋形が存在していたことも分かる。弘治2年(1556)には、六角氏は御馬屋の石垣を築くための石を徴発しており(馬場文書)、この頃までにも暫時石垣工事が行われていたことがわかる。

 天正4年(1577)、織田信長は観音寺城の北側に派生する尾根に安土城を築いた。その時点で観音寺城はあらたな価値を持つこととなった。それは安土城の詰めの城としての位置づけである。安土城に万一のことがあれば、尾根伝いに観音寺城に逃れることができるのである。また、逆に観音寺城を取られると、安土城は背後から脅かされることとなる。そういう意味で安土城にとって観音寺城は重要なポイントであり、安土城と同時に織田氏によって維持されていたのではないかと想像される。



敏満寺城(滋賀県多賀町敏満寺)

 敏満寺城は、名神自動車道の多賀SA内(上り方向)にある。SA内に取り込まれた城としては全国でも極めて珍しい存在であろう。しかし、SA北のはずれにある1郭は、長軸50mほどの広さであるが、公園化され、その周囲には高さ2mほどのしっかりとした土塁が残っている。また、土塁のそれぞれ隅は、相応のスペースを伴っており、これらは櫓台であったかとも思われる。
 (なお、私は未確認だが、下り方向のSAからも、歩道橋を使えば渡ってくることができるらしい。)

 また、天然の沢を挟んで、南側のSA施設のある部分の一段下には、石垣や井戸が存在していたという。とすると少なくとも2郭はあったということになるが、その部分はSAとなって消滅してしまっているので、全体構造がどのようなものであったのかは、現在ではうかがい知ることはできない。

 この城に関しては、2003年11月16日、「よみがえる敏満寺」講演会・シンポジウム」が多賀町で開催され、「敏満寺城の謎を解く」という冊子も出版されているという。




多賀サービスエリア内に残る敏満寺城の土塁。高さ2mほどで、この上には櫓台といってもよいくらいのスペースがある。 1郭と井戸跡のある郭との間の窪み。天然の沢を利用した堀であったようだ。
敏満寺は天台宗の寺院であったという。つまりこの城は、地元の豪族(六角氏や浅井氏)に対抗するために寺院そのものが要塞化したものであったらしい。永禄5年(1562)には浅井氏に反抗したため、坊舎のほとんどを焼かれ、さらに元気3年(1573)には信長に反抗したために、残りの建物もすべて焼かれてしまったという。寺院のプライドもあってか、たびたび時の支配者に対して自立性を強調していたことが、反抗と見られたのであろう。独自の立場を維持するというのはとても難しいことである。敏満寺はそのために支配者からたびたび攻撃されて、結局は打ち壊されてしまうことになったのであろう。


*関連サイト  近江の城郭  埋もれた古城






























大竹屋旅館