滋賀県甲賀市

*参考資料 『日本城郭体系』

*参考サイト  ちえぞー!城行こまい  北の城塞

水口城(甲賀市水口町水口)

*鳥瞰図の作成に際しては、水口城資料館に展示してあった古図などを参考にした。

 水口城は、近江鉄道の水口城南駅の北300mほどの位置にある。城内は、現在水口高校のグランドとなっているが、東側の出枡形の部分が復元されており、二層櫓内部が水口城資料館として公開されている。

 この資料館は木造造りのもので、城の風景にしっとりと溶け込んでいる。周囲には桜の木が植えられており、桜が満開のころは、かなり風光明媚な趣をかもし出してくれそうである。ちなみに、この資料館の入館料は100円であり、内部には城の古図や模型などが展示されている。

 水口城は、寛永11年(1634)に、将軍徳川家光の宿所として築かれたのに始まる。そのためか、近世城郭としてはかなり小振りな印象である。その規模は方120mほどであり、東側に出枡形ともいうべき出丸が付属していた。

 現在は、この出丸に二層櫓や土塀、城門などが復元されており、いかにも城郭らしさを感じさせているのだが、古図を見た限りでは、本来ここには二層櫓などは存在していなかったようである。したがって、この二層櫓、模擬建造物ということになってしまうのだが、城の北西には石垣造りの立派な櫓台が残されており、北西部分にはこのような二層櫓が存在していた可能性は高いと思われる。

 古図を見ると、それ以外の角にも櫓が存在していたようである。残りの三か所のものは単層の櫓であったかと思われる。これらの櫓間を多門櫓で接続するという構造であった。

 東側の出丸は、郭そのものが枡形となっていた。大手の入り口と言ったところであろうか。この枡形も周囲の城塁が石垣造りとなっている。ちなみに、石垣造りとなっているのは、この枡形と北西の櫓台のみであり、他の個所の城塁はみな土手によって構成されている。

 虎口は北側にも存在していた。こちら側は多門櫓によって構成された内枡形になっていたようであるが、内部がグランドとして整備されてしまっているせいか、それらしい痕跡は残されていない。

 城の周囲には現在も水を湛えた幅10mほどの堀が廻らされている。ただし、北東の一部だけは埋め立てられており、ここがグランドの駐車場となっている。

 水口城は、規模そのものは陣屋程度のものであるが、堀や城塁などはよく残されていて、分かりやすい城郭である。

東の出枡形に建てられた二層櫓。なかなかいい雰囲気なのだが、実際にはここに櫓が建てられていたわけではない。 主要部以外の城塁はみな、土手で固められている。
北側の虎口に架かる橋。内部はグランドとなってしまっており、枡形構造は痕跡も残っていない。 北西の櫓台。ここには実際に二層櫓が建っていたものと思われる。
東出枡形の門と木橋。 枡形内部から二層櫓を見たところ。木造で内部は水口城資料館となっている。
 水口城の工事が始まったのは寛永9年(1632)のことであり、廃城となっていた岡山城の石材を用いて築かれたという。そのためか、現在の岡山城の石垣は、部分的なものになってしまっている。

 寛永11年に城が完成した後は、城番が置かれて、城の管理が行われていたが、天和2年(1682)、加藤明友が2万石で封ぜられ、これ以後、水口藩が成立した。

 その後、元禄8年(1695)、加藤明英は下野壬生城に転封となり、水口城には鳥居忠英が入部したが、正徳2年(1711)、加藤氏と鳥居氏との領地入れ替わりが行われ、再び加藤氏の支配となって明治維新まで続いた。




岡山城(甲賀市水口字古城山)

*鳥瞰図の作成に際しては、現地案内板を参考にした。

 岡山城は、近江電鉄水口駅の東南500mほどの所にある、比高90mの古城山に築かれていた。

 岡山城は城址公園として整備されており、登り口は何箇所かあるので、どこからでも登れそうである。地図を見てみると、北側から車道が5の郭辺りまで続いているのが見えており、ナビの地図にもその道が記されている。

 というわけで、この道を車で進んでいったのだが、実際には途中の水道施設の所で道は行き止まってしまっていた。しかし、ここまで来ると、すぐ上に郭の平場が見えている。そこから20mほどの高さを登っていくと、三ノ丸と4の郭との間の堀切の所に出た。

 城は古城山の山稜を直線連郭式に郭を配置するといった構造のものである。この古城山、町のどこからでも見える、目立った独立山である。確かに象徴的な山であり、領主の居城を築くにはふさわしい場所であるといえる。

 比高90mの最高所に本丸がある。といっても細長い郭であり、特に南側は切岸加工もされていないような状況で、自然地形のままの部分も多い。本丸内部には2個所の窪みが見られたが、これは井戸か何かの跡であろうか。

 本丸の東端には天守が建てられていたという。といっても、それほど広い面積はなく、かなり小振りなものだったのではないだろうか。本丸の西側の端にも櫓が置かれていたらしいが、天守があった場所はこちら側であるという説もあるようだ。いずれにしても、石垣造りの天守台があるわけでもないので、どちらにもそれらしい痕跡が見られないのである。

 本丸の虎口は、西側、北側、東側の三か所にある。いずれも小規模なもので、豊臣時代の城郭のような豪壮さは感じられない。まあ、面積も限られた山城であるので、その辺は仕方のないところであったのだろうか。

 本丸の東側には堀切があり、その東側に二ノ丸、三ノ丸が続いている。二ノ丸、三ノ丸は、もともと平場面積の多い部分を利用しているのか、本丸よりもかなり平坦で広い印象がある。三ノ丸の先は15mほどの高さの切岸となり、その下に4の郭がある。

 鳥瞰図では反対側になってしまっているので描かれていないのであるが、北側の城塁には石垣があちこちに見られる。もともとは石垣を多用した城であったのではないかと思われる。ただし、水口城のところで述べているように、水口城の築城に際して、石材がここから運ばれ転用されているということなので、かなりの部分の石垣が失われてしまっているのではないだろうか。本来は山麓からでも石垣の威容を見ることができたのかもしれない。

 岡山城は中世の山城としては、かなりの規模のものであり、公園化されていて歩きやすく、遺構もそこそこ見どころも多いものである。ただし、関ヶ原役まで大名の居城として存続していた城としては、かなり質素な気がする。城主の長束正家は、五奉行の一人として、豊臣政権下でかなり多忙な日々を送っていたようであるから、居城に手を入れるほどの余裕がなかったのかもしれない。

南側の野洲川に架かる橋から見た古城山。かなり大きく目立つ山である。山麓からの比高は90mほどある。 北側の車道を上がっていくと、水道施設のところで通行止めになっていた。そこに車を置いてあがっていくと、すぐに4の郭に出る。4の郭から三ノ丸の城塁を見たところ。
三ノ丸内部y。城内いたるところに、写真のような冠木門風の案内が建てられている。 三ノ丸(右)と二ノ丸(左)との間の堀切。深さ5mほどである。
二ノ丸南側の虎口。それほど明瞭なものではない。 二ノ丸(右)と本丸(左)との間の堀。両端が土橋状につながっている。また堀の上に犬走りのような部分がある。
本丸北側下の城塁と帯曲輪。あちこちに石垣が見られる。 帯曲輪下の石垣である。けっこうきちんと積まれている。一番よく残っている部分であろう。
本丸北側の枡形虎口。といっても、小規模なものである。 本丸と5郭との間の堀切。中央に土橋がある。
本丸南側の天守台跡。しかし、天守が建っていたような痕跡は見られない。 本丸北側下にある食い違い虎口。
 天正13年(1585)、秀吉によって甲賀武士の多くが改易となった。代わって当地の支配者として入部してきたのは中村一氏であり、中村氏が居城として新たに築いたのが、岡山城である。中村氏はもともと、甲賀の出身であったといわれる。中村氏の所領は6万石であった。

 天正18年(1590)、中村一氏は14万2千石で、駿府城に入城した。代わって増田長盛が岡山城に入城するが、その期間は短期間であり、文禄4年(1595)に、長束正家が5万石で入城した。

 長束正家はもともとは丹羽長秀の家臣であったが、算術能力の高さを買われて、豊臣家の官僚となり、豊臣家の財政管理を一手に担っていたといわれる。

 関ヶ原の役の際、正家は石田三成に加担し、西軍に属して転戦した。関ヶ原での陣所は毛利秀元のいた南宮山の山麓であった。もともと経済官僚であったため、戦意は高くなかったかと思われるが、背後の毛利勢がまったく動かなかったこともあり、実際の戦闘にはほとんど参加していない。

 西軍の敗軍後、甲賀に退却し、岡山城に入城するが、東軍がすぐに城外に押し寄せてきた。「おとなしく開城すれば本領安堵する」という言葉に従って城を明け渡したが、実際には捕縛されて、切腹させられることになってしまう。その後、首は京都三条橋にさらされた。

 これ以後、岡山城は廃城となったと思われる。




黒川氏城(甲賀市土山町鮎河字城山)

 黒川氏城は、県道9号線と507号線とが合流する交差点の東南200mほどの所にあった。比高50mほどの山稜を利用して築かれた城である。

 黒川氏城をざっと描いてみたが、何しろ夕方になってしまったこともあり、現地で図を描く時間が30分ほどしかなかった。かなり構造が複雑な城なので、すべてをきちんと把握できているわけではない、鳥瞰図はあくまでも、30分でざっと描いた範囲のものである。

 ところで、この城の「黒川氏城」という名称には非常に違和感を感じる。黒川氏の居城であれば、通常は黒川城とすべきであり、実際『日本城郭体系』には黒川城として掲載されている。現地案内板や城址碑から、このページでも黒川氏城として紹介しておくが、本来は黒川城とすべきものではないかと思う。それとも、甲賀の城は「○○氏城」といった名称で当時から呼称されていたといったような習慣があったものなのであろうか。だとすれば、この地域独特の呼称の仕方ということになる。

 城の入口がよく分からなかったのだが、県道507号線を北上していくと、城の西端下辺りのカーブの付近で、城の案内板が立っているのが目に付いた。「案内板があるのだから、ここから上がれるのだろう」と思って、車を路上駐車して、その辺から城内に入っていくことにした。道はないが、ヤブもないのでわりと歩きやすい。テキトーに登って行くうちに、Cの虎口の部分に出た。この辺りからやや城らしくなってくる。

 さらに自然地形の尾根を進んでいくと、土壇のようなものが見えてくる。これを越えると、Bの小郭の城塁が見えてきた。Bの城塁には石垣が積まれている。黒川氏城は、各所に石垣を用いた城郭であったらしい。

 その虎口を進んでいくと、1郭の城塁が見えてくる。城塁の下には堀が横堀となって南側に延び、そこに巨大な堀切があった。なかなか重厚な構造であり、威圧感を感じさせる。

 Aの小郭には石段が付けられ、脇には石垣の跡も見られる。本来は石垣造りの虎口であったものだろう。さらに1郭の西側の虎口周辺には崩れた石がごろごろと転がっていた。ここも本来は総石垣造りであったものと思われる。
 こうしてみると、Aは馬出しであったようである。さらにはその下のBも馬出しのような構成であり、二重馬出しのような構造を取っていたのではないかと考えられる。
 ちなみに、このAの馬出しの上の城塁の途中に「黒川氏城址」の石碑が建っていたが、どうしてこんな半端な位置に城址碑を建てたのかが不思議だ。

 1郭の内部は長軸40mほどの台形の区画となっている。周囲には土塁がめぐらされているが、その内側に石積みが見られるのが特徴的である。城塁の外側だけではなく、内部にも石を積んでいるのである。また、東側の土塁には、外側に犬走りのような細長い部分が付属している。このような土塁を主郭周囲にめぐらすのは、甲賀の城の特徴であるらしい。

 虎口は北側にもあった。この虎口を出ると、やはり馬出し状の小区画があり、そこから斜面を東側に降って、虎口をカーブして下の横堀の所に出るようになっている。

 これだけでも、なかなか見どころの多い城なのであるが、ここから北側にかけて、土塁と堀とによって区画された平場がいくつか造成されているが、歩いているとかなり複雑な構造だといった印象を受ける。2郭の西側の土塁に囲まれた竪堀のようなものは、行き止まり虎口のようなものであったろうか。

 これらの郭の造成されているさらに北側は一段高くなっているが、この辺は平場造成されておらず、自然地形のままである。ただし、この周囲の斜面は天然切岸のようで、非常に急峻な地形となっている。滑り落ちたら、ただでは済まないであろう。

 全体の地形が4郭と5郭との間で、擂鉢状に集中している。すべての虎口はここに集まる、といった印象である。この通路が入城のポイントとなるところなのであろう。ここから5方向に通路が延びている。城の守備の際の最大のポイントとなる区画である。

 黒川氏城をざっと見てきたが、実際にはここに描かれていない郭も多数存在していると思われる。地元の豪族の居城としては、かなり広大で、技巧的な城であるといえる。お勧めできる一城といっていいだろう。

城址の西側を通る県道507号線。写真中央辺りに案内板があり、その辺から取り付いて登って行くと、図のCの虎口辺りに出る。 Bの馬出しの城塁にある石垣。
Bの馬出しにある石列。「虎口」という案内がある。門の礎石か何かであろうか。 1郭北側の堀切。深さ8mほどもある見事なものである。堀底は横堀となって1郭周囲をめぐっている。
1郭馬出しに続く石段。だいぶ埋まってしまっているが、本来はけっこう立派な構造物であったものだろう。 その上の虎口跡と思われるところにある城址碑。普通城址碑は主郭内部にあるものだが、どうしてこのような半端な位置に建てられたものであろうか。
1郭内部。長軸40mほどある。周囲には土塁が巡らされている。 土塁の内側にはこのように石垣が積まれている。けっこうちゃんとしたものだ。
3の郭と4の郭との間に延びる堀と土塁。こうした堀や土塁によって区画された郭がいくつかある。 5の郭の虎口を上から見たところ。虎口内部には石垣が積まれている。この部分の下にすべての虎口が集まっている。
 黒川城の城主の黒川氏は、六角氏に属した武将であった。応仁・文明年間(1467〜87)、黒川与四郎は、蒲生郡馬渕(近江八幡市)下司職と土山課役を領分として給されることになった。

 さらに、長享〜明応の頃(1487〜1501)には各地で戦功を立てた。長享の乱(1487)において戦功を挙げた黒川久内は、黒川・黒滝地区を領有し、支配権を確立することとなる。さらに永禄年間になって、黒川玄蕃が居城として築いたのが、黒川氏城であったという。

 永禄11年(1568)、織田信長の上洛戦において六角義賢は敗れて居城から脱出した。黒川氏は甲賀に亡命した義賢を保護し、武田信玄との連絡を取り、反織田の立場を取った。

 しかし、反織田勢力が次々と滅亡していく中で、甲賀の武士団もやがて織田氏に従うほかなくなってくる。天正10年(1582)の本能寺の変の頃、当地域は滝川一益の支配下に置かれていたが、本能寺後の勢力争いに伴う秀吉の伊勢攻めなどの後は、秀吉の支配下に置かれるようになったものと考えられる。

 天正13年(1584)、黒川氏は、紀伊川堤防修築工事を命じられていたが、その不手際を問われ、黒川地域以外のほとんどの所領を没収されたが、これは甲賀武士を改易しようとする秀吉の「甲賀破儀」の一環であったと思われる。これによって黒川城も廃城となった。

 黒川氏は所領巻き返しを図り、大坂冬の陣に参戦したが、結局は、その責任を問われて、すべての領地を失ってしまうことになる。

 黒川氏の娘は、後に紀州藩主徳川頼宣の側室となり、綱教を生んだ。これによって黒川氏は復権し、再び黒川村を領有するにいたった。奇跡の復活劇というべきであろう。




土山城(甲賀市土山町北土山)

*鳥瞰図の作成に際しては、現地案内板、『近畿中世城郭事典』『近江の山城ベスト50を歩く』を参考にした。

 土山城は甲賀市土山支所の北東400mほどの所にあった。比高20mほどの低い台地上で、その両側を吉川と来見川という2本の川が流れている。城址の入口はその南西側にあり、下の写真のような灯篭と城址碑とが建てられている。

 車で来るとちょっと困ってしまうのは、この周辺の道が狭くて、車を停めておくスペースがないことである。しかし、城址入口から少し南側に入ったところに集会所があったので、そこの駐車場に停めさせていただいた。

 城址碑のところから奥に入っていくと、両側に低い尾根のある谷戸部に侵入していくようになっている。両側の尾根上はすでに郭であるようだが、主要部に比べると整形が甘くなっている。また、谷戸部には通路に沿って土塁状のものが見られる。谷戸内部にも居館のような施設が存在した可能性もあるであろうか。

 そこからさらに進んでいくと4の郭に進入するようになっている。4は周囲を土塁で囲まれ、南端部には堀切と土橋がある。一見して、馬出しのような郭である。

 ここから北側に向かったところが3郭である。3郭の東側はえぐられたように削れているが、これは後世の改変なのであろう。

 その先が2郭となっているのであるが、これは明らかに馬出しといえる郭である。後述するが、甲賀の城の中で馬出しのような技巧的なものを持つものは珍しく、それはこの城の成り立ちと関係しているのではないかと考えられる。馬出しは10m×15mほどの規模である。

 その奥が1郭である。城内で最も整備された郭であり、内部は長軸50mほどしかないものの、周囲には高い土塁がめぐらされ、その外側は深い切岸となっている。切岸のかなり下の方に横堀が廻らされていて、底までの深さは、北側などでは10mに達する。かなりの規模である。斜面には草もほとんど生えていないため、鋭い切岸の様子がよく分かる!

 虎口は、馬出しに接する南側に加え、北側にも開いている。北側の斜面を降った所に小郭が1つあるが、こちらが搦め手といったところであろうか。

 もう1つ、東側にも小規模な虎口が開口している。これは城塁を通って、東側の横堀の方に降りていく小規模な通路に接続しているが、南北の虎口に比べると防御力に格段の差がある。こちらは後世の改変である可能性もあろう。

 2の馬出しの西側には土塁が長く延び、5の郭の土塁に続いていく。ただし、5の郭の土塁との間には切り通しが2箇所あって、1郭周囲の横堀と合わせて二重堀のような構造を成している。5の郭は外側には土塁が配置されているが、内側からの進入は容易な郭である。5はすでに外郭部のようなものであったのだろう。

 土山城は大規模ではないが、城の遺構がよく残っている上に、草刈がされているのか藪が少なくて見通しが非常によい。歩いていて気持ちのいい城跡である。

 また、比高も20mほどしかないため、すぐに充実した遺構のある部分まで到達することができる。お気軽に技巧的な城が見られるお勧めスポットである。

土山城の入口。灯篭と城址碑が建っているのが目印である。 登城道を進んでいくとすぐに4の郭南側尾根の城塁が目に入ってくる。
4の郭。周囲が土塁で囲まれ、馬出し形状の郭である。 2の馬出し曲輪とその奥の1郭を遠望した所。ヤブが少ないので見通しがよく気持ちがよい。
1郭周囲の堀。 1郭内部。周囲にはしっかりとした土塁が廻らされている。虎口は南、北、東側の三箇所に開口している。
1郭北側の城塁。10mほど下に横堀が見えている。 1郭東側の城塁。こちらもかなり高く鋭い。
1郭の堀が西側に回りこんでいく部分。 5郭の土塁の切れ目部分。
 『甲賀郡誌』によると、土山城は、文明年間に頼宮利盛の次男であった土山鹿之助盛忠によって築かれたものだという。その後土山氏が居城としていたが、天正10年(1582)、土山左近太夫盛綱の時代に、滝川一益によって攻撃されて滅ぼされてしまった。

 ところが、現在見られる技巧的な以降は、むしろそれ以降に改変されたものであろうということが『近江の山城ベスト50を歩く』に記述されている。

 天正13年の小牧・長久手の合戦の際、秀吉は、蒲生氏郷や甲賀衆に命じて、甲賀から伊勢にかけて3箇所の築城と道路整備を命じている。その3箇所の城というのがどの城であるのか、史料の上では明確には出てこない。しかし、合戦終盤になって秀吉が「土山に着陣」していたことが史料から伺える。秀吉が着陣していたということは、そこに彼が入城するだけの城が築かれていた可能性があるということである。

 したがって、土山城に現在見られる馬出しなどの技巧的な要素は、その際に築かれたものではなかったかと推測される。つまり小牧長久手合戦に伴う陣城であったということである。秀吉が陣取るには規模が小さすぎる気がしなくもないが、急造されたものだとすれば、この程度の規模の陣城ということもありえそうである。

 この合戦の後は必要性がなくなり、廃城となったのではないかと推測される。




























大竹屋旅館