松尾山城(岐阜県関ヶ原町松尾)

 松尾山城は合戦のあった関が原の南側にそびえている比高200mほどの山上に展開している。

 国道21号線の「松尾」のバス停付近から南に道を入って行き、北陸自動車道の高架を過ぎた辺りに「松尾城 小早川秀秋陣所」といった案内板が見えてくる。この辺りの道はかなり細いが、これに従って進んでいくと山の登り口付近に駐車場があり、そこに車を留めて置く事ができる。ここから山道を40分ほど歩くと城址に到達できるが、城址は予想以上に奥まったところにあった。

 城は松尾山の山頂を中心に展開している。しかし、この山頂部はそれほど広くないので、周辺に派生する尾根をすべて郭として取り込んでいる。できるだけ郭を広く、多く取ろうとしたのであろう。このことは、この城が多くの兵を駐屯させることを意識していることを伺わせるものである。

 山頂の1郭は20m×40mほどの小規模な郭であるが、周囲を高さ1mほどの土塁が囲んでいる。注目すべきなのは南側の虎口で、こちらには方6mほどの枡形がきちんと形成されている。城の設計の新しさを感じさせる部分である。この虎口から南側に一段降りてさらに少し上がった所に2の郭がある。この郭はヤブがひどいが、やはり土塁が取り巻いている。その南側には虎口があり、その先の尾根は竪堀によって両側を狭められている。その先は緩やかに傾斜した尾根となり、もう1つ斜めに回り込んで入城する虎口があり、こちら側の城域は終わる。

 1郭と2郭との間の東側6mほど下に3の郭がある。やはり尾根を利用したために細長い郭となっており、北側に腰曲輪、南側の2郭との間の下にも扇型の郭がある。この3の郭には土塁が巡らされているが、高さ1m程度の小さなものである。

 1郭の西側下には段々の郭がある。5の郭との間は、割と幅広の谷戸部となっているので、この周囲全体を削平して郭に利用したようである。なお、この谷戸部に井戸もある。なぜかコンクリートで固められ、現在でも水をたたえていた。

 5の郭は東側に切り通しの虎口を持っている。この郭の周囲には微妙な高さの土塁があるが、これを土塁と言い切ってしまっていいのかどうか判断に迷うところである。この郭の北東下には小郭があるが、その部分との間には浅い堀切と土橋がある。また、南側の6の郭方面の下にも浅井堀切と土橋が存在している。

 6の郭は比較的削平が甘く、古墳状の土壇が2つあるが、わりと広いスペースを持った郭である。周囲は切岸となっており、その副産物として腰曲輪が各所に形成されている。また南側には切り通しの虎口があり、その先には西に2本、東に1本の竪堀が掘られ、通路を狭めている。注目すべきなのは5の郭に向かい合う北東部分で、方5mほどで土塁をL字型に巡らせた桝形のようなスペースがある。形態からすると、5郭の側からの防御を意識したもののように思えるが、6の郭の独立性の高さをも感じさせる。

 1郭の北東下には4の郭群がある。やはり尾根を利用した細長い郭であるが、周囲には高さ1mほどの土塁がきちんと巡らされている。この城塁には横矢の折れも見られるのが印象的である。郭は3段ほどに分かれているが、先端の部分は枡形のようにも見える。

 これらが城の主な部分であるが、尾根をはさんでさらに7の部分にも人工的な削平地が見られる。多くの兵站スペースを確保するためにとにかく尾根を削平したという跡がここでも見られるのである。

 松尾山城を概観してみると、中心部はもともとあった山城を改造したものと思われるが、周辺に見境なく削平地を造り出している有様は、まさに兵站基地として意識されていたことの証明でもあろう。なぜこれほどの兵站スペースが必要だったのかといえば、やはりそれは関が原合戦に関係していると考えるべきである。ただし、この城郭は一夜やそこらで造りあげられるものではない。実際に合戦が行われるよりも以前に何者かの手によって構築されていたとみるのがよさそうである。

石田三成の本陣のあった笹尾山から松尾山を望む。右端の中程の山である。比高200mほどあり、麓から1郭まではかなり歩かなければならない。 細尾根を削平して4郭群が築かれている。先端には低い土塁に囲まれた枡形状の地形があり、その先に堀切がある。
4の郭の、折れの利いた城塁。土塁の高さは郭内から50cmほどで、大規模なものではない。 1郭。20m×40mほどの小規模な郭である。周囲には高さ1mほどの土塁が取り巻いている。
1郭から関ヶ原の戦場を見ようとしたが木立に邪魔されてよく見えない。こんな奥に引っ込んだところに布陣していたら、いざ決戦と言う時にも間に合わないのではないかと思われる。 1郭の南側にはきちんとした枡形が形成されている。なかなか技巧的である。
3郭群の土塁。高さは5おcm程度しかないが、しっかりと取り巻いている。脇には腰曲輪もある。 2郭はトイレと藪とで、形状がよく分からない。
2郭下から1郭の城塁を見たところ。 4の郭の切通の虎口。
4の郭の堀切。中央に土橋がある。 4の郭の南側下にある横堀。この先を上がったところが5郭群である。
5郭群の先の土橋。右に一カ所、左に二カ所の竪堀が入っている。 5郭と4郭との間の沢の中に井戸が現在でも残っている。
4郭と1郭との間には土塁を置き、枡形のような地形が形成されている。 3郭の尾根の更に北側にも削平地がある。ここを6の郭としておく。
 永禄の頃、浅井長政は近江と美濃との境目の城として、長亭軒の城に家臣の樋口三郎兵衛を入れたが、この長亭軒とは松尾山のことであるという。(遍照山文庫所蔵文書)。つまり少なくともこの時期までに城が築かれていたのである。その後、この地域は織田軍によって制圧されているので、城も織田方のものとなったと考えられる。

 それからしばらく松尾山城が歴史の舞台に現れることはないが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦において、再び注目を浴びることとなる。慶長5年9月12日の、増田長盛宛石田三成書状には「江濃之境目松尾之城、何れの御番所にも中国衆入被置、御分別尤にて候」とあり、中国衆をここに配置しようとしていたことが伺われる。つまりこの時までに西軍によって何らかの普請が行われていたのであろう。さらに「寛政重修諸家譜」の「稲葉家譜」には「9月14日、正成、諸士と相議し、兵を率いて美濃国におもむき松尾山の新城にいり、その城主伊藤長門守を追払う」とある。稲葉氏は当時、小早川家の付け家老となっていた。つまり小早川軍が、合戦の前日に、城将であった伊藤長門を追い払ってここに入城したというのである。もともと中国衆のために用意していた城郭を小早川軍が合戦前日に奪取したのである。(岐阜県城館報告書より)

 以上のことからこの城に小早川軍が陣取っていたことは間違いないと思われる。通説では小早川軍は洞ヶ峠を決め込み、石田三成の催促にもかかわらず、戦いに参加しようとしなかった。一方、裏切りの約束をしておきながら何の行動もしようとはしない小早川軍に痺れを切らした家康が、松尾山の麓で鉄砲を撃たせ、これに驚いた秀秋が、軍勢をいっせいに西軍に向かってかからせた、というようになっている。

 しかし、松尾山城は、戦場からはかなり奥まったところにあり、麓で鉄砲を撃ったとしてもとうてい城まで聞こえることはないであろうし、いっせいに西軍に襲い掛かるというのも難しいであろう。

 思うに、戦場からかなり遠いこの松尾山城に陣取った時点で、小早川軍はまともに戦おうという気を喪失していたのではないかと思う。そして合戦の最中も物見を決め込んでいたが、家康からのなんらかのアクションがあってしぶしぶ戦場まで降りて行ったのではないだろうか。ただし、城の構造で見てきた通りに、この城はまさに兵站のために造られたというべき形態を示しており、現在の規模を獲得するに当たっては、関ヶ原前後に相応のいきさつがあったことは間違いないと思われる。






















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