小谷城(滋賀県湖北町)

*関連サイト  近江の城郭  埋もれた古城

 小谷城は浅井氏の本城であったことでよく知られている。比高200mほどの山で(大嶽[おおつぶら]はさらに100mほど高い。)どこからでも非常に目立つ山であり、城を築く条件は要害性だけではなく、領域のどこからでも見え、にらみを利かせるということもあったのだなあと想像できる。

 有名な城郭だけあって、国道365号線を走っていると「小谷城入り口」という看板が何箇所かにあるので、場所はすぐに分かるであろう。車で城址の中枢近くまで上がることができる。山上の駐車場から歩き始めるとすぐに、金吾丸と番所との間にある案内板のところに出る。そこから20mほどの高さをあがると、お茶屋、馬屋と続き、図の南端部まで到達する。後は遺構を見ながら山上まで上がることができる。結構たくさんの曲輪があるので、それらの区画が分かるような大きさで図を描いていったら、下の方が図に収まらなくなってしまった。それほど大きな山城なのである。

 馬洗い池は、方5mほどの2つの区画から成っている。周囲は石積みで被われ、区画の畝も石積みによるものである。残念ながら、私が訪れた際には水がほとんどなくなっていたが、この山は岩山なので、山中に湧水点があるのであろう。

 池から上がっていくと桜馬場があり、その上に大広間がある。ここが城内で最大の郭である。35m×90mほどの細長い郭で、ここに城内の主要な施設があったと考えられる。小谷城というとこの郭の写真がよく本などに載っている。

 その突き当りには石垣が見え、一段高い郭がある。ここが本丸であるという。ただし、城にはこの奥にさらにだんだんと高くなっていく郭群が続いているので、構造的に考えて、この位置に本丸があるというのは不思議な観がある。

 本丸は一段高く独立した長軸30mほどの円形の郭で段差によって2段に分けられている。その東下には土塁による区画、西下には食い違いの虎口があり、城の背後の部分との区画を明確にしている。さらの本丸の背後は深さ6m、幅20mほどの大堀切があり、まるで一城別郭であるかのように、城を2つに大きく分断している。

 この大堀切の北側が中の丸である。といってもここは単独の郭ではなく、2m程度の段差によって少なくとも6段に分かれている。一番下の郭の入り口には内ち枡形が形成され、その手前には浅い堀切状の部分もある。この構造から見ると、本丸よりも中の丸の方が上位の郭という形状である。ただし中の丸は段々の単純な構造になっており、まとまりはよくない。

 中の丸群を過ぎるとその上に京極丸がある。この郭は大広間についで2番目に大きな郭で、東側には高さ2mほどのしっかりとした土塁が積まれている。浅井氏の旧主である京極氏を幽閉していたところであるという。

 その上が小丸である。方20mほどの郭が東西に2段になった小区画であるが、浅井長政の父である久政の隠居所であるという。落城の際にも久政はここで自刃したという。

 小丸の上には一段高い郭があり、その上が山王丸となる。この郭にはかつて山王神社が勧請されていたのでこの名前があるといわれる。山王丸は城の中核部では最高所に当たり、2段の郭と詰めの郭の3つの郭で構成されている。この山王丸は本丸から見ると最奥部にあたるが実は最も近代的な構造を持った郭でもある。まず、山王丸の入り口にはかなり大きな石による石垣の跡がある。おそらくもともとは郭全体にこうした石垣が積まれていたのではないかと思われるが、現在ではかなり崩れてしまっている。自然崩落によるということもあるのであろうが、不自然に壊されたような崩れ方をしている面もあり、おそらく破城による破壊の跡と見てよいのではないかと考えられる。つまりこの郭の石垣は最も破城に値する部分、すなわち城の象徴的な部分ではなかったかと思われるのである。

 この石垣のうち、山王丸の東側下の部分が一部旧状のまま残されている。高さ5mほどの高石垣である。山王丸の入り口中央部には石積みによる方5mほどの内枡形が、さらに次の郭の西端にも石積みによる内枡形が形成されており、虎口防備のための思想が明確に見て取れる。さらに詰めの丸との間の土塁にも石積みがしっかりと積まれている。これらの構造から見ると、山王丸が最も上位の郭であるとみてよさそうである。しかし、実際の本丸ははるかに下の方ということになっている。このことには疑問を感じるのであるが、落城時に、城主の浅井長政は本丸の下の赤尾屋敷に入って自刃したというので、事実がこの伝承の通りであるとするなら、やはり「本丸」部分で指揮を取っていたと考えてよさそうである。しかし、実質的に本丸がどこであったのかは、さらに考えてみるべきことであるだろう。

 山王丸の北側からは地勢がだいぶ低くなり、6つの寺院を置いていたという六坊に続いていく。ここからさらに西側の尾根を登っていった先が大嶽(おおつぶら)である。ここは小谷城が最初に築かれた場所であるといわれ、二重の土塁に巡らされた郭があるということである。
 小谷城の構造をざっと見てきたが、割合広い面積をもった郭が何段にも連続しており、高い山の上とはいえ、かなりの居住を持った状であることが分かる。また、全体構造こそは細長い山稜を利用しているために単純になってしまっているが、石垣や内枡形、食い違いの虎口など、かなり先進的な面も見られる。信長によって城が落城する天正元年(1573)まで、最先端の築城技術を取り入れながら、城は発展を続けたのであろう。

 城の構造上の最大の特徴は、前述の通り、大堀切によって2つに分割されることであろう。実際、木下藤吉郎の軍勢は、この中央部分から城を分断して、久政と長政とを各個撃破していったという。

 また、城の南西麓の清水谷には、家臣団の屋敷が立ち並んでいたという。浅井氏の平素の居館も、この清水谷の奥にあったという説もある。

 今回、大嶽に登る時間がなかったので、『滋賀県中世城郭分布調査7』に掲載されている図を基にしたラフを挙げておく。再訪した時にはちゃんとしたものに描き直してみたい。

東南の登城道方面から見た小谷城。中央奥そびえて見えるのが大嶽(おおずく)。 番所入口辺りまで車で行けるようになっているのだが、その脇には本来の登城道がある。斜面を垂直に登るような道で、滑りやすい土なのでかなり登りにくい。
番所と金吾丸との間の堀切。左側が金吾丸。 番所では発掘が行われているらしく青いビニールシートがかぶせてあった。
御茶屋にある岩石。庭石であったものであろうか。 馬屋。周囲をしっかりとした土塁で囲み、広さも直軸40mほどある。脇には竪堀も何本か見られる。
馬屋脇にある池。中央に石垣による障子があり、2つに分けられている。 大広間入口近くにある首据え石。ここの犯罪人の首をさらしたという。ここから右に下りていくと赤尾屋敷がある。
大広間に至る石段。ここに城門もあったであろう。 桜馬場にある浅井家墓所。奥は大広間の土塁で、上には立派な石碑が建っている。
大広間。ここでも発掘が行われたようである。 大広間の先の本丸の石垣。石の大きさは小さいがしっかりと積まれている。この上が本丸で2段構造になっているが、余り広い郭ではない。
本丸の東側下にある堀障子の土塁。 本丸と中の丸との間の大堀切。深さは6mほどだが、幅は20mほどもある。左側が中の丸。
中の丸にある石積みによる内枡形。 中の丸は数段の郭から構成されており、その城塁には所々、石垣が見られる。
京極丸。かつての御屋形様であった京極氏を幽閉していたところであるという。城内では大広間に次いで2番目に広い郭である。右手には幅広のしっかりとした土塁が積まれている。 小丸。浅井久政の隠居地であると言われ、また久政はここで自刃したという。
山王丸の入口。大きな石によって石垣が組まれていたようだ。しかし、破城のためか、現在ではかなり崩れてしまっている。 山王丸。かつて山王神社が置かれていたのでこう呼ばれているという。一番奥の詰めの曲輪の土塁には内側から石垣が積まれている。
山王丸から見た大嶽。山頂には初代浅井亮政が築いたという、2重の土塁を巡らせた郭がある。かなりの岩山のようで、石垣のための石材はここから抽出したのではないかと思われる。 山王丸下の石垣。ここはしっかりと残っている。
赤尾屋敷にある浅井長政自刃の地。 小谷山山麓にある清水谷には多くの屋敷地の跡がある。浅井氏の平素の居館もこの辺りにあったのであろうか。
 小谷城を始めに築いたのは浅井家初代の亮政であり、永正13年(1516)のことであるという。浅井亮政は主君京極家の内紛に付け込んで、主家を乗っ取った。下克上というやつである。最初に城が築かれたのは大嶽の部分であるというが、その後城の主要部分は、現在の城の中心部がある尾根に移っていったものと思われる。

 浅井長政は信長の妹お市を正室に迎えた。政略結婚である。これによって近江北部の勢力の抵抗をなくした信長は永禄11年(1568)、上洛を果たすのである。続いて元亀元年(1570)信長は朝倉攻めを敢行するが、これに反発した浅井長政は、朝倉方に付いてしまう。ここから織田と浅井氏との激しい争いが始まるのである。翌年、姉川の戦いでは、織田徳川連合軍3万と浅井朝倉連合軍2万5千とが激突する。この合戦で勝利を収めたのは信長であり、その後信長は、横山城や虎御前山城などを小谷城の向城として置き、小谷城と対峙する。その後も優勢な織田氏は諜略活動を続け、浅井氏の有力家臣であった磯野氏、阿閉氏、堀氏らが離反して行き、次第に浅井氏は孤立していくこととなる。

 天正元年、小谷城の大嶽にいた朝倉勢は小田軍の攻撃により撤退、織田軍はそれを追ってついに越前まで侵攻。朝倉義景は自刃して朝倉氏は滅んだ。そうして完全に孤立してしまった小谷城は、木下藤吉郎秀吉らの軍勢に攻められついに落城、浅井長政は自刃した。朝倉義景、浅井長政、久政の首は京都に晒された後、小金に染められ、翌年の正月に、酒の肴として饗されることとなる。

 浅井長政の妻お市の方は3人の娘とともに城を脱出した。このお市と娘たちはさらに後日、落城を経験することとなる。

 落城後、この土地を与えられたのは木下藤吉郎秀吉である。しかし、この山城が実用的でないことを確信した秀吉は小谷城を廃し、琵琶湖の湖畔の今浜に新城を築き、長浜城と名付けることとなる。




虎御前山砦(滋賀県湖北町河毛)

小谷山のふもとから見た虎御前山砦。小谷城と数百mほどしか離れていない。こんなとことに向かい城を築かれてしまうっていうのも・・・。 小谷城から見た虎御前山砦。どうみても目障りな位置である。浅井勢は、夜半にゲリラ攻撃を仕掛けて、この砦を焼いてしまったという。
虎御前山とは面白い名前である。想像するに、虎御前という名前の姫をここに置いていたのではないかと思われるが詳しいことは分からない。あるいは「曽我物語」で、曽我十郎の妻であった虎御前と何か因縁があるのかもしれない。




山本山城(滋賀県湖北町山本)

小谷城から見た山本山城。非常に目立つ山なので、かなり遠くからでもそれと知ることができる。
 山本山城は、古くは山本義経の居城で、治承4年(1180)、平知盛、資盛が攻撃したことが、「玉葉」により知られる。

 戦国期には浅井氏の家臣であった阿閉氏の居城となっていた。しかし、阿閉氏は浅井氏から離反し織田氏の家臣となった。だが、本能寺の変に際して、明智光秀についてしまったために、滅ぼされる運命となる。

























大竹屋旅館