滋賀県大津市

大津城(大津市浜大津)

 大津城は、現在のJR大津駅一帯にあった。しかし、遺構はすべて埋め立てられてしまっており、現在では城を思わせるようなものは残っていない。そこで、、『16世紀末全国城郭縄張図集成』掲載の図を基にして、想像復元図を描いてみた。といっても、分かるのは縄張くらいであり、御殿はおろか、櫓・門などの建造物の配置もいまひとつ把握しにくい。多分に想像を働かせた図である。

 琵琶湖には似たような形態の水城がいくつも存在していた。秀吉の長浜城、光秀の坂本城などである。しかし、この2つの城もその後の改変がひどく、その形態はいまひとつよく分からないのだが、基本構造は同じようなものであったと思われる。

 本能寺の変で坂本城が攻め落とされると、坂本城はもはや使用に耐えず(反逆者の城をそのまま使用することに対するためらいがあったのかもしれない)、琵琶湖の水運監視のために新たに築き上げられたのが、この大津城である。築城に当たっては浅野長政が指揮を執った。

 後に関が原役で大津城が攻撃されると、この大津城も使用に耐えなくなってしまい、この合戦の後に、城は廃されて、膳所城が近くに築かれることとなる。大津城の構造は、この膳所城とよく似ていたようである。もっとも、共に琵琶湖に突き出すように形成された水城であるのだから、似たような縄張になるのは当然なのかもしれない。

 城は湖に突き出した先端部を本丸としている。その内側に二之丸があるが、大津城の場合、二之丸の内部に、奥二之丸というのもあった。構造的にはこの郭が、最も重深に位置しており、詰めの郭のようなものであったとも見られる。

 この中心部を囲むようにして、水堀によって防御された三之丸がめぐらされている。三之丸の北西部に、堀が入り込んでいる部分があるが、これは船を入れるための水路として利用されたものであろう。

 このように何重もの水堀によって囲まれた大津城ではあるが、本来が水運監視のための番城のようなものであったので、大軍に包囲されながらの籠城戦に向いた城ではなかったという。

 慶長5年(1600)年、当時の城主は京極高次(6万石)であった。高次は東軍に属したため、その居城大津城は西軍の攻撃を受けることとなる。

 9月7日、毛利元康・立花宗茂らの率いる西軍1万5千は、関ヶ原に向う途中、大津城を包囲、攻撃した。京極高次は、城下を焼き払い、城に籠城したが、包囲軍の攻撃はすさまじく、亀のように引っ込んで城を支えるのがやっとであった。それでも大津城は7日間ほどはなんとか持ちこたえていた。

 しかし、近くの山から大砲が城内に撃ち込まれ、城の建造物が次々と破壊されるに及んで、これ以上の籠城は不可能であると悟った高次は、降伏して城を開城することになる。9月14日のことである。これは関ヶ原で合戦が行われる前日のことであった。あと一日持ちこたえていたなら、降伏せずともすんだわけであるが、それは結果論であり、高次としては、すでに限界に達したと思ったのであろう。

 しかし、高次のこの大津籠城戦は戦局に大きな影響をもたらしたといえる。何しろ、好戦的な立花宗茂らの1万5千もの大軍を大津城にひきつけておき、決戦に参加させなかったのである。もし、この1万5千の軍勢が、関ヶ原で奮戦していたならば、あるいは西軍が勝っていたかもしれないし、その可能性は十分にあったであろう。そういう意味では、この籠城戦がもたらした意味は非常に大きなものであったといえる。高次の功績、大とすべきである。

 だが、合戦が実際に行われる直前に降伏してしまったことは、高次の評価を少し下げてしまったようだ。関ヶ原の役後、東軍に味方した諸将の多くは、旧領の倍以上の封土をその功績として得ている。高次も、本来ならば旧領の倍に加増されても良かったはずである。しかし、戦後、高次が得たのは越前小浜8万石であり、2万石を加増されたに過ぎなかった。

 自分の居城をぼろぼろにされるほどの苦労をしたのに、2万石の加増に過ぎないとは、ちょっと少ないような気がする。山内一豊などは、「自分の居城を家康に差し出す」と宣言した功績で、旧領の4倍の土佐24万石となっているのである。「もし、あと一日、我慢して籠城を続けていたならば・・・・」そう思うと、高次はそうとう悔しい思いをしたのではないかと思われる。




坂本城(大津市坂本)

*坂本城の遺構はほぼ湮滅しているが、wikipediaの推定城郭図を参考にして復元鳥瞰図を作成して見た。本丸の中心部分は、現在、琵琶湖に水没しているというので、このように湖に突き出した地形になっていたものだろう。

 坂本城は琵琶湖の西岸に面した部分に存在していた。大津城膳所城などと同様、琵琶湖に面した水城であった。現在は石垣の一部を残しているだけであるが、本来は、本丸、二ノ丸、三ノ丸と三郭構造の城郭であったという。

公園の北側を流れる川は二ノ丸北側の堀の痕跡であろうか。 公園内に建つ明智光秀像。しかし、顔の造詣が・・・・なんともいまいちである。
琵琶湖近くに残る石垣。かつての二ノ丸の石垣であろうか。本丸は琵琶湖に沈んでしまっているらしい。 公園南側の小川も、かつての堀の名残のように思われる。
 織田信長による比叡山焼き討ちの後の元亀2年(1571)、明智光秀に近江国滋賀郡が与えられ、光秀は初めて居城を築き、城持ち大名となった。その光秀が、琵琶湖の水運を押さえる城として築いたのが坂本城である。

 後に訪れたルイス・フロイスの『日本史』には、「安土城に次ぐ名城である」と記載されているということで、当時は名城といわれるだけの城であった。

 天正10年(1582)、本能寺の変で織田信長を自害させた明智光秀であるが、中国から急きょ大返しをしてきた羽柴秀吉の軍勢に敗れ、落ちて行く途中に土民に殺害されてしまう。

 その後、明智氏の滅亡と共に坂本城も落城し、以後は廃城となった。


































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