滋賀県近江八幡市

*参考資料 『日本城郭体系』

*参考サイト  ザ・登城

近江八幡城(近江八幡市宮内町八幡山)

*鳥瞰図の作成に際しては、現地案内板を参考にした。

 近江八幡城は、比高160mほどの八幡山に築かれていた。八幡山の南側には、ロープウェイがあるので、これを利用すれば3分ほどで山頂の城址まで到達することができる。また、周辺には、車を停める場所がたくさんあるので、適当なところに停めておくことができるのだが、観光客が非常に多いのか、けっこう車がいっぱいなのが印象的だった。人がたくさん歩いていて、車を走らせにくいのであった・・・。

 山麓の豊臣秀次居館跡は、八幡公園に隣接した西側の山麓部にある。こちらには駐車場がないが、山の下にある市立図書館の駐車場を利用することが可能である。

 ロープウェイは小ぶりなもので、15分ごとに出ているので、山頂に行くのは簡単である。しかし、このロープウェイ、往復で800円もする。ちょっと高いのではないかと思ってしまうのであるが、山頂まで楽に行けることを考えれば、非常にありがたい。それに眺めはとてもよい。絶景である!

 ロープウェイの山頂駅が三ノ丸になって変貌してしまっている。山頂駅を出ると、もう目前には石垣が迫って見えてくるのだが、これが二ノ丸の石垣である。石の大きさがばらばらの野面積みであるが、高さは6mほどもあり、けっこう重厚な石垣である。

 進んでいくと、本丸の下に出る。本丸の虎口は小規模ながら枡形構造となっており、かつてここに櫓門が建てられていたのではないかと思われる。現在も寺院の山門が建っているが、これまた城門のようにしっくりとした門なのであった。

 本丸は長軸50mほどの広さがあったと思われるが、ここは瑞龍寺の本堂となっていて、奥の方まで立ち入ることはできなかった。それにしてもこの本堂、高い山の山頂に建っている建造物とは思えないほど立派なものである。訪れるお客さんも多く、たくさんの人が参拝に来ていた。

 ここでいったん本丸を降りて、東側の通路を通りながら北ノ丸に向かう。その途中で本丸の石垣がよく見えるのだが、けっこう雑な積み方に見えてしまう。400年以上もの間、よくぞ崩れずに残っているものである。この通路の右下斜面にもあちこちに石積みが見られた。

 北ノ丸は長軸30mほどの郭であるが、周囲は低い石垣によって囲まれている。北側の尾根続きには堀切があるらしいが、降りていくところが分からず、確認できていない。また、この郭からは、観音寺山城やその先端下にある安土城がよく見えていた。

 ここから西側に向かって進んでいった所が西ノ丸である。この途中の本丸の石垣にはところどころ折れが見られる。こんな所にも横矢を利かせていたのであろうか。
 西ノ丸もまた眺望の良い郭である。琵琶湖がかすみながら遠方まで広がって見えている。

 西ノ丸からさらに尾根を降っていったところには出丸があった。出丸は長軸40mほどの長方形の郭である。この周囲には高さ3mほどの石垣が巡らされている。低いながらも、ここもまた総石垣造りりである。

 このように八幡城は、石垣をふんだんに用いた豊臣期の城郭である。高取城竹田城を訪れた時にも感じたのだが、これだけの石材を、このように高い山頂までいったいどうやって運んだものだろうか。それがとても不思議である。石材を山上まで運ぶような何かのギミックが当時あったのだと思うが、それがどのようなものであったのか、具体的に史料には出てこないのである。

 とはいえ、山上はわりと狭隘なので、それほど大規模な城郭であったわけではない。あくまでも詰めの城、あるいは城下のどこからでも見える象徴的な城といった意味合いのものであり、実際に平素使用していたのは、山麓の部分だけであったと思われる。


 山麓居館は、出丸と三ノ丸との間の下の谷戸部に存在していた。この最上部には大規模な石垣と枡形が残されており、そこそこの威容を誇っている。しかし居館内部はヤブがひどくて、どの程度の広さがあるのかもさっぱり分からない状態である。

 この主郭部を中心として下まで一直線に大手道が延びており、その両脇には数段の平場が造成されている。これらが家臣団屋敷のようなものであったろうか。西側の竹ヤブは「私有地立入禁止」となっているので、内部構造がよく分からない。タケノコ泥棒でもする人がたくさんいるのであろうか。竹ヤブが立ち入り禁止になってしまっているのは残念だ。

八幡神社入口にある八幡堀。昔ながらの街並みがよく残っているようで、いい雰囲気である。 山麓にあるロープウェイの乗り場。正面奥が城址主要部で比高160mほどある。西側に一段低く伸びているところが出丸である。
反対側からロープウェイがやってきた。小型のロープウェイだが、お客さんが多く、けっこう繁盛している。 リープウェイから見た近江八幡市街。とっても眺めが良い!
ロープウェイを降りるとすぐに二ノ丸の石垣が目に入ってくる。野面積みながら、なかなか重厚な石垣である。 本丸の石垣。上は櫓台のようになっている。
本丸の枡形門。 本丸に建つ瑞龍寺本殿。このような山中にあるにしては、非常に立派な建物である。たくさんの人が訪れていた。瑞龍寺は、秀次の母であった瑞龍院が秀次の菩提を弔うために建立したものである。
本丸東側の石垣。北東の張り出し部分である。 北ノ丸からは観音寺山城と安土城がよく遠望できる。
本丸北側の石垣。大小の石をかなり雑に積んでいるように見える。よく400年以上の風雪に耐えて崩れないでいるものだ。たいした技術である。 西ノ丸。きれいに整備されている。
出丸。ここも眺めがいい! 出丸下の石垣。高さ3mほどと、ちょっと小規模である。
山麓にある豊臣秀次の居館跡の石垣。 居館入口の大枡形。
 八幡城は、天正13年(1584)、秀吉の甥(姉の子)であり後に養子となった羽柴秀次によって築かれた。当時は山麓近くまで琵琶湖が来ており、水上交通の拠点となる場所であった。

 同時に建設された城下町には、運河として琵琶湖の水を引き入れた八幡堀が掘られ、町の防御と水上交通とを両立させていた。当時は、大津、堅田と並ぶ琵琶湖の三大港に数えられていたという。

 また、城下町の建造に際しては、安土から住民たちを移住させており、そのため、城下町の各地には安土町と同様の地名が残されているという。
 秀次は楽市楽座を行い、これによって発展した八幡商人たちは、近江商人を代表する商人となり、全国的に商売を展開していくことになる。

 天正18年(1590)、小田原の役後の配置転換で、秀次は尾張・伊勢100万石の大領地を与えられ、尾張清洲城に移っていった。

 代わって2万8千石で京極高次が八幡城主として入部してくる。しかし、文禄4年(1595)、京極高次は大津城に転封となり、八幡城は廃城となることとなった。こうしてみてみると、城が存在していたのはわずか10年ほどの期間に過ぎなかった。





































大竹屋旅館