佐和山城(彦根市佐和山)

 佐和山城は石田三成の居城としてよく知られている。そして、そうであるがゆえに徹底的に破壊されてしまった城でもある。有名な城であるにもかかわらず、あまり訪れる人もいなければ、たいして整備されてもいない。しかしその方がこの城としてはふさわしいのかもしれない。

 佐和山城は彦根城のある金亀山のわずか1kmほど東側にあった。国道8号線を米原方面に走ると、佐和山トンネルのすぐ手前に、北の山側に入っていく道が見える。佐和山遊園の真向かい辺りである。この辺に車を止めておけば、本丸までの山道に入ることができる。

 この道を進んだ所は土が削り取られている。そこをさらに進んでいくと、法華丸の城塁下を通って、石田屋敷の上から尾根を通り、太鼓丸との分岐点に出る。この先の尾根は竪堀によってさらに狭められている。

 ここから登っていったところが本丸ということになる。本丸は30m×80mほどの規模があり、そこそこの広さであるが、郭内は平坦ではなく、土塁などもない。しかし、これは郭の上層部分をそっくり削り取られたことによるものなのかもしれない。本丸には城址碑が立ち、またここまではちゃんとした道が付いており、下草も刈られているので、真夏でも散策することができる。ここに五層の天守がそびえていたといわれるが、その形状がどのようなものであったかは現状から想像することもできない。

 本丸の南側の下には千貫井戸がある。この井戸は現在でも水をたたえており現役状態である。また、本丸下の城塁には、本当に一部分だが、石垣が残っている所がある。しかし、崩れやすそうなところに存在しており、いずれは実際に崩れ去ってしまいそうな運命にある。それにしても、一部分にしても石垣が残っているということは、もともとは石垣がきちんと城塁を取り巻いていたことの証であるのかもしれない。彦根城を築くために石垣の石をことごとく持ち去ったという伝承は当たっているのであろうか。

 この辺りまでは、道がきちんとしているが、その他の部分はかなり藪の中である。太鼓丸やその下の千畳敷は本丸に次ぐ広い郭であり、割としっかりした土塁なども残っているのだが、ヤブのみならず倒木がかなりひどくて、その形状をきちんと把握できなかった。千畳敷の先端には内枡形があるというので、これを探しに藪を掻き分けて行ったのだが、城塁のくぼんだ部分は複数発見したが、自然崩落によるものにも見え、どれをもって内枡形としているのかはよく分からなかった。

 城の大手口は東側の山麓にあったという。この大手口には現在でも土塁が残されている。また大手口までには複数の郭が展開しているようである。しかし、時間不足ですべてを確認することはできなかった。

 その他の尾根にも要所要所に郭は展開していたらしい。しかしあくまでも山城であるので、山上にはそれほど大きな郭はなく、それぞれの郭も尾根尾根に派生しているために求心性にかけている。こうした構造からしてみると、佐和山城はあくまでも中世の山城が発展しただけのものとしか思えない。「三成に過ぎたる城」といえるゆえんはどこにあったのであろうか。

 1つ想像するとしたら、大手口の内側の谷戸部分に壮大な施設があったのではないかというように考えられるのではないか。石田三成ほどの大名が居館や役所を置くのに、このような山城の山上の郭を利用するとは思えない。石田三成は豊臣秀吉の信奉者であり、秀吉が山城の小谷城を捨てて、長浜城を築いたことも知っているし、信長が岐阜城の山上を利用せずに、山麓に壮大な居館を構えたことも知っていたはずである。そんな三成が、いまさら山城を整備しようなどと思うであろうか。

 とにかく、佐和山城の山上の遺構は、中世城郭の域を出ていないと思う。三成が入城して整備した部分は山麓にこそ求めるべきなのではないだろうかと想像するのである。

法華丸の下の城塁。この奥に石田三成の屋敷地跡と呼ばれているところがある。 太鼓丸の入口。尾根上に竪堀を入れて土橋を形成している。ここから左に進むと本丸。右に行けば太鼓丸だが、太鼓丸から先は藪がひどい。
本丸下にある千貫井戸。 本丸。長軸80mほどあるが、石田三成の城の本丸としては狭い感じがする。
本丸東下にあった石積み。 本丸西下にある、近年発見されたという石垣。だいぶ崩落してしまっている。
落城の際、城内にいた女たちが飛び降りて死んだという女郎谷。しかし、この手の伝承は眉唾ものであろう。 千畳敷の先端から見た本丸。
法華郭の削り残しの土塁。 佐和山城の麓のトンネル脇にあるあやしい佐和山城。彦根城に似ているところがなんともせつない。個人的にはこういうものが大好きなのである。
佐和山城の大手口。東側の山麓下にある。ということはこの谷戸部も郭内であり、ここに主要な施設が置かれていた可能性もあるということである。正面奥が本丸のある山頂。 彦根城の南側にある宗安寺の赤門は、かつて佐和山城の大手門であったという。ということは左の写真の大手口のところにこの門があったということになるが、ちょっと想像がつかない。
 佐和山城の創建はかなり古いもので、建久年間ころの文書にはすでに登場してくるという。その後、領主が六角氏、浅井氏と変わるにつれて、佐和山城の城主も変遷して行った。戦国期には浅野氏の家臣であった礒野員昌が城主であった。磯野氏は始めは織田氏と対立していたが、浅井氏の劣勢が目に見えてくると、木下藤吉郎の勧告に従って、織田家に投降した。これ以降、佐和山城は織田系の城郭となる。

 その後も城主はめまぐるしく変わっている。本能寺の変後の天正11年(1583)には堀秀政が5万石で、天正13年には堀尾吉晴が入城した。そして天正18年、秀吉の奉行衆であった石田三成が南近江20万石の領主として入城した。この石田三成の時代に城はいっそう整備されたようで、佐和山城は石田三成の城として一般には知られている。「甲陽軍鑑」には「三成に過ぎたるものが2つあり。島の左近に佐和山の城」と当時言われたとある。これが真実であったのかどうか明らかではないが、三成の時代にかなり壮大な構えの城になったということは間違いないのであろう。しかし上記の解説の通り、基本的には中世山城のような形態を残している城址である。

 関ヶ原合戦で石田三成が敗れると、徳川軍に包囲され、佐和山城は落城することとなる。城内にいた石田三成の父や兄も自刃し、女たちは「女郎谷」と現在呼ばれているところに身を投げたという。ただし、この落城伝説はどこにでもある話なので、そのまま真実としてみることもできまい。

 その後、当地の領主となったのは徳川家臣の井伊直政であった。彼は石田時代を消滅させるかのように、佐和山城を徹底的に破壊し、一部その資材を用いて彦根城を築いて移って行った。西軍の実質的な指導者であった石田三成の居城は、見せしめとして、徹底的に破壊する必要があったのであろう。今回、彦根城を訪れた後に佐和山城に登城したのであるが、大勢の観光客でにぎわっていた彦根城とは対照的に、敗者の城である佐和山城は、その多くの部分を藪の中に埋もれさせ、人気もなくひっそりとしていたのが印象的であった。

*関連サイト  近江の城郭  

嶋左近屋敷(彦根市佐和山)

井伊直正の供養塔があるという清涼寺が、嶋左近の屋敷の跡であるという。背後にそびえて見えるのが佐和山城の本丸である。 嶋左近屋敷の石垣も残っているという話であったがどこのことなのかよく分からない。しかし穴太積みと思われる石垣はあちこちにある。





















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