滋賀県高島市

*参考資料 『日本城郭体系』  『近江の山城ベスト50を歩く』 現地パンフレット

*参考サイト 城と古戦場  タクジローの日本全国お城めぐり  ちえぞー城行こまい  城跡巡り備忘録

大溝城(高島市)

 大溝城は、高島総合病院のすぐ東側にある。琵琶湖に近く、すぐ南に乙女が池と呼ばれる池がある。この池がかつて大溝城の外堀であったというから、琵琶湖に浮かぶ水城のようなものであったのだろう。

 大溝城は地図にも掲載されているということもあり、場所も分かりやすく簡単にアクセスできるのだろうと思っていたのだが、これが大間違いであった(xx)。

 大溝城に向かうため、北方から高島バイパスを通ってきたのだが、この道、高速のように流れはいいのだが、城のかなり手前で曲がらないと、道路から降りられないのである。
 城が近くなってから、この道路を降りて城に向かおうと思っていたのだが・・・・降りるところがない! あれよあれよという間に、城址のある場所を通り過ぎてしまい、先に進んでしまった。結局、だいぶ進んでから、車を適当なところでターンさせて、また同じ道を戻って城址を目指したのだが、この道、交通量も多い上に、みんなかなりの速度を出している。車をターンさせるのも必死である。道路状況の分からない慣れていない道だと、こんなことも起こってしまうのである。

 そんなわけで、引き返してやっと城址に近づいてきたのだが、今度はどうしたら城のあるところまで行けるのかが分からない。さんざん迷った挙句、高島総合病院の駐車場に入ってみたのだが、そうすると目の前に天守台が見えてきた。
 どうも、ここの駐車場に入らないと城址に接近するのは難しそうな様子であった。そういうわけで、病院の駐車場に停めさせて頂いたのだが、この駐車場入口も、あちこち一方通行になっていて、慣れないと、よく分からないのであった。本当に道を知っていないとアクセスするのが意外に難しい城なのであった。

 城とは関係ないが、駅のすぐ前にガリバーの大きな像が建っていたのが印象的であった。この土地とガリバーと何かの関係があるのであろうか。

 さて、大溝城で残されている遺構は天守台だけである。10m四方ほどの規模の天守台で、北側に付け櫓の台のようなものが付属している。これしか残っていないのだが、その周囲は低地の草むらとなっていて、これがかつての水堀の跡のように見られる。

 天守台しか残っていない所を見ると、本格的に石垣を使っていたのは天守台だけであったのだろうか。それとも付近が市街地化する際に、城の象徴であった天守台だけを残そうという話になったものであろうか。いずれにしても、天正7年(1579)段階で築かれた天守台としては、かなり立派なものであると言ってよさそうだ。石垣の組み方は伊勢の神戸城のそれとよく似ている。天然石の野面積みである。

 そういえば、この翌日に訪れた周山城にも天守台と思われる痕跡があった。周山城も天正7年の築城であり、この当時の織田家中の主要な城には、天守が築かれるというのがすでに当たり前のことになっていたのだろう。

 大溝城は、琵琶湖に浮かぶ水城であった。琵琶湖周辺には、坂本城長浜城大津城膳所城など多くの水城が存在したが、天守台がこれほどしっかりと残っているのは大溝城だけである。

大溝城天守台の前に建つ案内板と城址碑。 天守台の石垣。神戸城のものとよく似ている。周囲の低地は水堀の名残であろう。
 大溝城は織田信澄によって築かれた城であった。織田信澄という人物はそれほど有名ではないが、ちょっと悲劇的な人物である。
 
 彼の父は織田信行である(一般に信行という名前で知られているが、実際の史料では信勝などとして現われる)。信行は、信長と同じ土田御前の子供であり、同腹の兄弟である。素行がバンカラな兄の信長とは異なり、品行方正な人物であったとして知られている。

 特に有名なのは、兄弟の父、織田信秀の葬式のシーンである。
 父親の争議を行っているというのに、どこへ行ったのか、嫡男の信長はなかなか姿を現さない。やっと出てきたかと思うと、平素の荒くれた恰好のままで、つかつかと仏前に歩み寄り、香を掴むと「くわっ!」といって仏前に投げつけたものだから、参列していた人々はみな「あれは何だ!」と眉をひそめたという。
 その後に信行が折り目正しい恰好で焼香をしたので、人々はいよいよ「信長は大うつけ」であると感じたという。
 以上は『信長公記』にある話であるが、そんな状況では、家臣が信長を主君とするのに不安を感じたのも無理はない。

 そうしたことが重なって、信行は、柴田勝家、林佐渡、林美作らに担がれて、信長に叛旗を翻した、しかし、意外に信長は戦上手であり、稲尾合戦で敗れた信行らは、信長に降参することになる(ただし林美作は討ち取られた)。

 この時は実母の土田御前のとりなしもあり、信行の命は助けられたのだが、信長にやり込められてしまったのが不満だったのか、もともと反骨精神に富む人物だったのか、その翌年も信行は謀反を企てることになるのだが、それが発覚して、結局信長に殺されてしまうことになる。

 息子の信澄はこの時わずか2歳であった。その時、信澄も殺されかけたのであるが、土田御前が懇願して命は助けられることになった。その後の信澄は柴田勝家に預けられることとなる。織田姓を名乗るのは遠慮したのか、津田氏を名乗っている(したがって津田信澄と呼ぶ方が正しい)。

 しかし、成長すると信澄は英傑果断な人物となっていたようで、信長にも気に入られていたという。織田家中での序列もけっこう高い所にいたという(織田家中で5番目であったというが、これが何を根拠としたものかはよく分からない)。

 後に高島郡を支配していた磯野員昌の養子となり、員昌が遁世すると、高島郡の領主となって、新城を築くに至った。これが大溝城である。琵琶湖に面する海城で、天守をも備えた立派な城であった。

 琵琶湖の南岸を支配していたのは坂本城主であった明智光秀である。信澄は明智光秀の娘を嫁に取り、明智家との関係も深めていった。光秀は織田家においては出世株であったから、光秀との婚姻は、信澄にとっても有利なものであったはずである。ところが、後にそれが裏目に出てしまうこととなった。

 天正10年(1582)、織田家による四国遠征が企てられていた。総大将は信長の三男信孝であり、副将として丹羽長秀、織田信澄が付けられていた。ところが、その遠征準備をしているさなか、本能寺の変が起こった。明智光秀の謀反によって独裁者信長はあっけなくこの世から消滅してしまった。

 「信澄は明智光秀の婿であり、この謀反に加担しているに違いない」という信孝の主張で、丹羽長秀の信孝の両者に詰め寄られ、大阪城で信澄は詰め腹を切らされてしまう。享年28歳であったという。存命していればひとかどの武将となったであろう人物であったが、こうして非業の死を遂げてしまったというわけである。

 実際には光秀の謀反は突発的要素の強い事件であり、事前に信澄が共謀していたなどということはなく、信澄にとっては寝耳に水のような出来事だったのであろう。しかし、乱の最中のごたごたに巻き込まれて悲運な目に遭ってしまったのである。これもまた運命というべきか。

 これについては次のような説もある。信長の死後、跡目相続を目論んでいた信孝が、ともすると有力なライバルになるかもしれない信澄を、謀反にこと寄せて、まんまと謀殺してしまったのではないかということ。実際そうであったのかどうか不明だが、ありえない話ではないと思う。

 信澄の後、大溝城は解体され、建築部材は水口岡山城に遷されたといわれる。岡山城本丸跡からは大溝城と同時期に築城された安土城と同形の瓦が発掘され、大溝城との関連が指摘されているということである。

 大溝の領主は度々と代わったが、江戸時代に入った元和5年(1619)、伊勢上野から分部光信が2万石で入部し、以後代々分部氏が城主となって明治維新を迎えるに至った。




清水山城(高島市新旭町熊野本)

*鳥瞰図の作成に際しては、現地案内板、『近畿中世城郭事典』『近江の山城ベスト50を歩く』を参考にした。

 清水山城は、大宝寺山の北東にそびえる比高100mほどの山に展開していた。国指定史跡の城跡であり、城址はよく整備されていて訪れやすい。

 近くまで行くと「清水山城←」といった案内が出ているので、それにしたがって進んでいく。ただ、道なりに進んでいったら、途中で左手に曲がって井ノ口館の案内のあるところまで出てしまった。

 実際の城址は鉄塔のあるところのさらに北側の先の山なので、井ノ口館の手前の所まで戻り、ちょっと道が心細くなっていくが、そこから北側の山の方に向かって直進していく。

 すると、鉄塔の所を過ぎ(この鉄塔の直前の道の坂がかなり急である)、いったん降って、道も舗装路ではなくなる。そこからさらに進んでいくと、車で1郭の下までいけるということであったのだが・・・・今回乗っていったのが大きなワゴン車だったこともあってか、12郭の先(案内板の手前辺り)の未舗装の坂道で車がスリップしてしまい、先に進むことができなくなってしまった。仕方がないので、車はその辺の路肩に駐車して、そこから歩いてくことにした。

 歩き始めてすぐに城の図面を描いた案内板の所に来た。すでに城域内に入っているので、途中、道の右手に郭や堀切を見ながら進んで行く。道路もこの辺りでは平坦で歩きやすい。先ほどの坂道だけが関門であったようで、そこを乗り越えられれば、車で1郭下まで普通に行くことができる道なのであった。

 国指定史跡でもある清水山城は、かなり整備されているようで、あちこちに「清水山城館跡」と書かれた幟が多数立てられている。

 1郭下辺りまで来ると、8郭の展望台のようなものが見えてきた。木組みの2階建てであるが、柱がけっこう細くていかにも心もとない。それでも登ってみようとすると、ロープが張ってあって立ち入りできないようになっている。危険なので人が入れないようにしたのであろうか。
 これって、一応、復元建造物というべきものなのだろうか。ちょっと気になる展望台であった。

 その脇に1郭がそびえている。1郭の高さはここから20mほどある。その斜面には4本の竪堀が並んでいるのがよく見える。ただし、規模はそれほど大きくなく、これでどれだけ横移動を阻止できたのか疑問ではある。とはいえ、敵が竪堀の底を一列縦隊で進んできたら、上の郭からの攻撃はかなりたやすいものであったろう。1郭への登城路は、この畝状竪堀群の脇に付けられている。

 鉄塔の建つ小郭を経て1郭に上がってみると、南側に虎口があった。これが本来のものなのであろう。虎口の外側には小郭がある。未発達の出枡形のような空間である。

 1郭は長軸60mほどと山頂部にしてはわりと広い空間となっている。目を引くのはそこに礎石が残されているということである。珍しいことに山城であるにもかかわらず、この1郭には礎石建造物が建っていたことが検証されている。ここに城主が住むような御殿がきちんと形成されていたのである。それがはっきりしているという一点を取ってみても、ここが貴重な山城であることが分かる。

 1郭の北側下には切り通しの道路があり、その北側の尾根に北曲輪群が存在している。そちらに行くために、1郭の北側斜面を降りていったのだが、これがまた鋭い斜面で、降りていくのもやっとであった。この城の切岸はとても鋭く、かつてはかなりの防御力を発揮していたに違いない。

 切り通しの脇を通って北曲輪群に行く道が付いていたので、そこを進む。すると土塁で囲まれた5の郭が見えてきた。5の郭の西側には6,7の郭が段々に形成されており、それぞれに土塁が廻らされている。これらの郭の周囲、特に北側は急斜面となっているが、5の郭の北側下には横堀が造成されている。構造からして北側への防御を強く意識していたようである。
 この横堀の脇を通って北側の鞍部に降りていく事ができる道が付けられている。降りてみると、そこには畝状の竪堀が存在していた。下草がなく見やすい竪堀である。
 この鞍部のさらに北側にも堀切があり、城域を区画している。

 1郭の南西側には、2,3、4といった郭が形成され、それぞれの間には深い堀切が存在している。この城の遺構はどれも鋭く、見事である。

 このように清水山城は、それほど高い山の上に築かれているわけではないとはいえ、それぞれの郭の周囲には堅固な城郭構造が見られ、充実した遺構を残す山城である。郭の数も多く、相当の人数を籠城させることができる城である。主殿建造物があったことからすると、平素からある程度の居住が意識されていた城だったのであろう。

 また、あちこちに案内板も設置され、散策のための道も整備されているので、遺構を見ながら歩いていくのがとても楽しい。一見の価値ある山城と言っていいだろう。

12の郭の外側にある横堀。この郭から上に進む坂道が急で、今回乗っていった車では上がることができなかった。 道を進んでいくと、脇には郭群が並んでいる。写真は11の郭北側の堀切。
さらに進んで9の郭の辺り。この城には「清水山城館跡」の幟がたくさん立てられている。「清水山城」ではなく「清水山城館」となっている理由がよく分からないのだが、あるいは1郭で御殿建造物が発見されていることにちなんでいるのであろうか。 その先の8の郭にあった物見台のようなもの。崩壊の危険があるのか、登れないようになっていた。
1郭南側の斜面。2本の竪堀が見えているのが分かるであろうか。肉眼だとはっきり分かるのだが、写真では見にくいなあ。 1郭内部。礎石が検出されており、礎石の上に御殿建造物があったこと確認されている。
1郭北側の城塁。非常に急峻で、登りにくい。 1郭北側斜面にある竪堀。二本あるのが見えるだろうか。
北曲輪群との間の切り通し。 北曲輪群5の郭。周囲には土塁が廻らされている。
6の郭周囲の土塁。北側からの防御を意識していたようである。 5の郭北側下にある横堀。
北曲輪群の北側にある畝状竪堀の西側部分。 同じく畝状竪堀の東側部分。
 鎌倉時代の承久の乱以降、佐々木氏が近江の守護となり、その一族は近江各地を支配するようになっていく。大原、高島、六角、京極などの一族である。さらに高島地域の佐々木一族は、田中、朽木、永田、越中、能登、横山らの各氏に分かれていく。

 室町中期以降、このうちの朽木氏、越中氏、田中氏が高島地域の有力者となっていく。この越中氏の居城が清水山城である。六角氏と足利将軍との対立が深まると、朽木氏が足利将軍を庇護したのに対し、田中氏、越中氏は六角氏に加担して対立していたという。

 観音寺騒動で六角氏の勢力が減退すると、新興勢力であった浅井氏に加担するようになったという。浅井氏の滅亡と共に、越中氏も没落していったものと思われる。




井ノ口館(高島市)

*鳥瞰図の作成に際しては、現地案内板の図を参考にした。

井ノ口館は、清水山城の南西麓(というか大宝寺山の南麓)にある大荒比古神社の西側一帯にあった。広大な平城である。

 また住宅地をはさんでそのさらに東南の県道沿いにも城館遺構があり、これを井ノ口館2とした。井ノ口館2の南側の道路沿いに案内板が設置されている。

 館跡を訪れるには、大荒比古神社を目指していくのが分かりやすいと思う。神社の東側には溝のような小川が流れている谷戸部があり、その東側に城塁のようなものが見えている。

 当初、単郭方形のような比較的単純な館であったのかと想像していたのだが、実際には違っていた。谷戸部から東側の城内に入って歩いていくと、あちこちに土塁や堀の残欠のようなものを見ることができる。しかも館内部にも幽邃点があるのか水が流れている。

 歩いていくにつれ、次から次へと遺構が現われてくるので、「いったいどこまで城域が続いているのだろう?」と不可思議な気分になる。おそらくそれは、この館を「単純な居館」と思っていたがゆえのことであり、実際には「館」というよりも、「かなりの郭数を備えた技巧的な平城」というべきものなのであった。

 かなり構造が複雑なのであるが、しいて主要部を求めるとするなら、二重の堀に囲まれた1の部分が主郭、その東側に併設された郭が2郭といったところであろうか。多数の郭を有しているのは、この中にある程度の家臣団の集住を意識していたのかもしれない。

 井ノ口館と右の図にある井ノ口館2との間には宅地が入り込んでおり、間の部分の遺構が失われてしまっている。したがって、本来の形状は、館2の部分も、館主要部と続いていた可能性もあるのだが、現状の館2の形状を見る限りでは、独立性の高い区画のように思われる。こちらは一種の出城のようなものであったのかもしれない。

 館2の周囲には「大宝寺」という地名が残されている。ということは、かつてこの地に大宝寺という名前の寺院が存在していたということである。

 といったことから、館2の部分は、城館というよりも寺院跡ではないのかという意見もあるようだ。確かにそうであった可能性は高いと思われるのだが、寺院であったとしても、土塁や堀をめぐらし、防御構造を備えたものである。いわゆる武装寺院とでも言うべきものであり、城郭構造物であったことには間違いない。

 武装寺院であり、なおかつ井ノ口館の出城のようなものであった、と見るのがよいのかもしれない。











3の郭南側の切り通し部分。 1の郭南側の土橋。
1の郭と2の郭との間の堀。両側が土塁となっている。 1の郭北側堀にかかる土橋。
1の郭北側の堀。 1の郭西側の土塁。
館Uの東側の堀跡。 その東側の台地縁部には土塁状の地形が残る。
 井ノ口館は、清水山城主であった越中氏(高島氏)の平素の居館であったと思われる。




岩神館(高島市朽木岩瀬)

 岩神館は、興聖寺のある比高10mほどの台地縁部に存在していた。地図に「旧秀隣寺庭園」と記されているので、これを目印にしていけば良い。

 この庭園、地図にもしっかり記載されているほどのものなので、ちょっとした名勝のようである。この近辺のどこの城址へ行ってみても、人に会うことはなかったのであるが、この寺院にはたくさんの人が訪れていた。よほど有名な観光地なのであろう。

 山麓に駐車場があるので、そこに車を置いて歩いていく。現在の参道は、南側の急斜面を斜めに上がっていくようになっているが、おそらくこれは後世のものではないだろうか。東側から上がりこんでいく道こそが本来のものであるように思われる。

 興聖寺の前まで来ると、石垣が2段になっているのが見えてくる。それほど高い石垣ではなく、防御機能の点から見ると、堅固なものとはいえないが、かなり長く築かれているので、威信物としての効果はあったのではないかと思われる。

 この寺院の南西部に「旧秀隣寺庭園」がある。この庭園は、享禄元年(1528)、都より逃れた将軍足利義晴のために、当地の館主であった朽木植綱が建造した庭園であるという。そういえば、室町時代後期、近江は足利将軍たちの避難所のようになっていたのであった。

 小学校の頃、子供向けの歴史書を読んでいた時、京都を追われた将軍足利義晴が、子供たち(義輝や義昭であろうか)と近江に隠棲している場面が描かれていて、それが妙に印象に残っている。

 田舎の館住まいをしながら、空を見上げて「自分の名前のように、晴れた気分で都に戻れる日はいつ来るのであろうか」などと歎いている義晴の姿が描かれていたのが、子供心にも哀愁を感じさせる場面であった。今になって、それがここであったのかあなどと思うと、妙に感慨深いものである。

 ちなみに朽木資料館の方は「地元では朽木幕府なんて言っているんですよ〜」などとおっしゃっていた。

 この庭園の北側に墓地があるのだが、その北側が妙に高くなっている。これが館の土塁である。内部からでも高さは6m以上あり、館の土塁としてはびっくりするほどの巨大な構造物である。

 その外側が空堀になっている。とはいっても、土塁の巨大さに比べ、堀の規模はそこそこであり、それほどのものではない。堀は西側に向かって折れており、南端近くになると消滅してしまっている。
 この堀にはフェンスが立てられており、堀内部に入り込めないようになっている。ちょっと興覚めであるが、いたしかたのないところである。

興聖寺南側の土手。かつての城塁の名残であろう。垂直切岸のような地形になっている。 興聖寺南側の石垣。かつての館の石垣として構築されたものだと思われる。
秀隣寺庭園。将軍足利義晴をもてなすために造園したものと言われる。 館跡背後の堀切。柵があって、堀底に降りられないようになっている。あるいは獣よけであろうか。
 岩神館は朽木氏の古い居館である。鎌倉時代に近江守護となった佐々木氏は近江各地に一族を配置したが、この地を領したのが朽木氏である。

 朽木氏は室町時時代後期の争乱では常に足利将軍を支持し、享禄元年(1528)秋には、京の騒乱から逃れてきた足利義晴を、朽木稙綱がここに庇護し、館を造営し、庭園を作事した。庭園の作庭に当たったのは、管領細川高国であったといわれる。

 この館には義晴のみならず、その息子であった義輝、義昭などもその幼少期の一時期をこの館で過ごしている。また、義輝自身も、三好氏との抗争を避け、この地に逃れてくることになる。

 その辺の話は昭和48年のNHKの大河ドラマ『国取り物語』でも描かれていたなあ(懐かしい・・・・)。

 道三の死後、美濃を追われて各地を武者修行で放浪していた明智光秀(近藤正臣)は、地元の人から、夜な夜な寺院の灯篭の油を盗みにくる妖怪が出るとの話を聞き、その妖怪退治を引き受けることとなった。物陰に潜んで待ち受ける光秀。ところが妖怪と思っていたのは実は人であった。貧窮のため油代にも苦労していた足利義輝の側近の武士がその正体であった。

 油を求めてくるように将軍に言われた側近が、こっそりと寺院の灯篭の油を盗んでいたのである。その側近というのは細川藤孝(伊吹剛)であり、それをきっかけに、二人は友情を深めていく、といった話であった。

 。『国盗り物語』は、私が歴史に目覚めるきっかけを作ってくれた作品であり、今でも細かい部分までけっこう覚えている。ところがこの当時、NHKは使用したビデオを使いまわしていたために、大河ドラマですら、総集編以外のビデオはまったく残っていない。

 上記のエピソードは、総集編には収録されていないので、今や完全に幻のものとなってしまっている。まったく残念無念なことである。




朽木陣屋(高島市朽木野尻)

*鳥瞰図の作成に際しては、現地案内板を参考にした。

 朽木陣屋は、国道367合繊と県道23号線とが合流する地点の北東側の微高地上にあった。安曇川と北川とが合流する地点といってもいい。

 現在ここには朽木資料館があるので、これを目印にしていくのがよいであろう。県道沿いには水堀が残されている部分があり、その脇に案内板が立っている。

 なお、この陣屋跡の背後には比高150mほどの西山がそびえており、そこには詰めの城というべき西山城がある。

 現在の村民グランドや資料館の建つ所が陣屋の中心部であったと思われる。案内図を見ると、陣屋の周囲には堀がめぐらされていたようであるが、現在の地形ではグランドの背後が高い地勢になっており、そこに住宅が建てられている。その点が、案内図の形状とは合っていない部分で、ちょっと気になるところだ。

 資料館は無料で、しかも館員の方が親切に解説してくださるので、なかなかお勧めである。陣屋や周辺の歴史に関してのパンフなども何種類か置いてあって、自由に持ち帰ることができるのがありがたい。
 館員はとても気さくな方であった。

 私が鈴を腰につけているのを見つけ、
「おっ、これは熊対策ですか?」とおっしゃる。
「こちらには熊が出るといううわさを聞いたものですから、一応用心のために付けています。やっぱり、熊、出ますか?」 すると、
「そりゃもう、あそこでもここでも、どこにでも出てきますよ」とのこと。「今年は猛暑の影響でどんぐりが不作になってしまったので、民家の庭先の柿などを狙って熊がよく降りてくるんです」ということであった。熊も冬眠準備のために必死なのであろう。

 その他、朽木氏や周囲の城館などについて、いろいろとお話を伺うことができた。本当に親切な資料館である。千葉県から来たというと驚いていた。確かに千葉辺りからこの辺まで来る人はそう多くないに違いない。

 この資料館の東側下に広場があり、そこには井戸が残されている。図の御殿脇の井戸であろうか。その脇には古民家があるが、これは陣屋遺構ではなく、後から古民家を移築してきたものだという。

 その上の土手に見られる石垣は、なんでも「鎌倉時代からの石垣」であるのだそうだ。

県道沿いに一部残る水堀の跡。この脇に案内板が立っている。 グランド下の石垣。これもかつての遺構であろう。
資料館背後の土手にある石垣も旧来のものであるという。 陣屋跡の井戸と、民家。民家は後で移築されたもので、陣屋とは関係がないものである。
 朽木氏は六角氏と対立し足利将軍を庇護していたいうこともあって、足利義昭を擁して上洛を目指し六角氏と敵対した織田信長と結びつくようになる。これは朽木氏にとっては幸いなことであったろう。

 元亀元年、突然の越前朝倉攻めを敢行した信長であったが、背後で浅井長政の裏切りの知らせを受けて、にっちもさっちもいかない状況になった。越前での戦果をさっと放棄した信長は、浅井氏の領内ではなく、湖西の朽木谷を通って京都まで逃げ帰った。この時、信長の逃走の先導をしたのが朽木氏であった。こうしたことにより、朽木氏は信長の信用を得るようになっていった。

 信長の死後は、秀吉に仕えた朽木氏であるが、秀吉の死後に、最大の危機を迎えることになる。関ヶ原合戦において、石田三成に誘われた朽木元綱は西軍に加担することとなった。

 関ヶ原で朽木元綱は、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保らと共に、大谷吉継に属し、松尾山山麓に陣取っていた。松尾山に陣取っていたのは、西軍でも最大級の部隊を有する小早川秀秋であった。

 戦いの最中、小早川秀秋は、東軍に寝返り、西軍の陣地に打って出る。山麓に陣取っていた4大名は、それに従う他なかった。4氏は小早川氏と共に東軍に寝返って、西軍を攻撃していく。この寝返りが、東軍に決定的な勝利をもたらすことになる。

 だが、この寝返りに関しては、朽木元綱は事前に藤堂高虎に申し出ていたらしい。脇坂安治も同様であり、戦後、改易となった赤座、小川両氏に対して、両者は本領安堵されている。

 朽木元綱は9203石の本領を安堵され、朽木陣屋を築いて、地元支配を続けた。それにしても9203石というのは微妙な石高である。もう少し高かったら、大名であり、城主格となっていたところであるが、ぎりぎりの所で城主となれなかったわけである。
 
 そういうわけで、幕末まで陣屋支配を続けるに至るのだが、小さいとはいえ、鎌倉時代から幕末まで一貫として地元支配を続けていた豪族というのも珍しいのではないだろうか。地元の人が朽木氏の遺跡を大事にしているのもうなずける。





























大竹屋旅館