膳所城(滋賀県大津市本丸町・丸の内町)

 琵琶湖には著名な水城がいくつもあった。明智光秀の坂本城、羽柴秀吉の長浜城、京極高次の大津城など、いずれもある次期の琵琶湖の城の画期をなしていた城郭であった。膳所城もその系譜を次ぐ水城であった。そして、他の水城と同様、遺構はかなり破壊されており、旧状のほとんどの部分は失われてしまっている。しかし、城址公園となっている分だけまだましであるかもしれない。

 鳥瞰図は正保城絵図を参考にして描いてみたものである。湖水に突き出す半島状の地形を利用して本丸と二の丸が置かれていた。本丸の脇には出丸と呼ばれる付属的な郭もあった。本丸の広さは36m×45m、二の丸が65m×92mほどの大きさで近世城郭としてはささやかな規模である。二の丸の南には馬出しのような郭もあるが、正保年間より以降、ここに三の丸が設けられていたという。

 城域はそれほど広大なものではないが、図を一見して気が付くように、この城には多層の建造物が多く建てられていた。本丸にある天守は珍しい四層構造で、本丸にはその他に三重櫓もあった。また2層櫓も多く建てられているが、なんと言っても目立つのは、虎口周辺の2層構造の多聞櫓の存在であろう。2層の多聞櫓が枡形を形成している様は他の城ではあまり見られないものであり、もしこれが現存していたなら、そうとうに見ごたえのあるものであったと思われる。

 しかし、現状では城址公園にこの威容を偲ぶほどのものは存在していない。石垣すら、ほとんどの部分で取り払われてしまっているために郭の形状そのものも改変されているようである。公園となってはいるが、時すでに遅しといった感じで、城址のほとんどは琵琶湖の波を洗うただの浜辺と化してしまっているのである。


 さて。昔は夏になると必ず、「青春18切符」を使って各地の城を回っていたものであった。あまり金もない時代、1万円(2000円券の5枚つづり)で5日間、各駅停車のみとはいえ、乗り放題で電車を利用できるというこの切符は、重宝なものだったのである。それに当時、関西地方に行くためにとても便利な電車があった。「東京発大垣行き」というその電車に乗ればそのまま朝には大垣まで着くのであった。東京発が11時過ぎ頃で、日付が変わる神奈川辺りまでの切符を買っておけば、あとは丸々青春18切符を使ってどこまでもいけるというわけである。これを利用すれば、京都まで片道2000円で行くことができた。普通に新幹線に乗れば片道1万円はしたわけであるから、安上がりなことこの上ない。しかも大垣に着くのは早朝であるため、城を回るための時間は十分である。夏休みともなると、この大垣行きの列車は、安い旅をしようとする若者たちで、活況を呈していたものであった。

 青春18切符が今でもあるのかどうか知らないが、だいぶ前、この切符で利用できる「大垣行き」の直行便がなくなってしまうことになった。その頃には就職して何年も経っていて金銭的にも余裕ができてきていたので、いまさら大垣行きに乗って旅に出るよりも、新幹線で楽に旅をするほうがよくなっていたから、大垣行きの列車がなくなってもどうということもなかったのであるが、やはり何度も利用していた「あの電車」がなくなってしまうということには一抹のさびしさがあった。そこで、「最後にもう一度大垣粋に乗って城を回ろう」、そう思って私は何年かぶりに青春18切符を買い求めた。そして大垣行きに乗った。1996年の春休みのことで、この電車がなくなってしまう数日前のことであった。大垣で降りた私は、そこからさらに東海道線に乗り換えて、大津まで行った。そして早朝最初に訪れたのが、この膳所城であったのである。

膳所城跡公園に架かる橋。城とは直接関係はないと思うが、なんとなく城らしい雰囲気をかもし出している。琵琶湖が朝もやでかすんでいる。 城址に復元された石垣と多聞櫓。公園内にはあやしい城風の建造物がいくつかある。写真は本丸から二の丸方面を見た所である。
城跡公園の前にあるこの建物が、あやしい城の決定版であろう。なんとなく天守風であるが、これは役所であるらしい。 公園入り口にある城門。膳所城の城門は大津市の神社等に合計9門が移築されている。
 膳所城は関ヶ原後の慶長6年(1601)6月、徳川家康の命によって、天下普請といった形で築城が始められた。この地域を支配するための城としてはすでに大津城が存在していたが、関ヶ原の役の際の西軍による攻撃によって、大津城に防備上不利な要素があることが分かったため、新たに大津城の東南2kmほどのこの地に城を築くことにしたのである。大津の地は京都への入り口を抑える重要な拠点であったため、家康もこの城を重要視していたのであろう。

 関ヶ原後の大津城主は戸田一西3万石であったが、彼は大津城を廃して、膳所城に移ってきた。その後城主は、本多、菅沼、石川、再び本多と交替するが、代々譜代の大名を封ずることにしていたようである。


























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