徳島県阿南市

*参考資料 『日本城郭体系』

*参考サイト  城郭放浪記

牛岐城(富岡城・阿南市富岡町トノ町24−3牛岐城址公園)

 牛岐城は阿南市役所の南西にあり、現在は牛岐城址公園となっている。城址公園には駐車場もあるので、市街地とはいえ、車でも安心して訪問できる。ただし、周囲は住宅が密集しているので、意外に場所は分かりにくい。城址公園の入口は公園の西側にある。

 牛岐城は、中世からの歴史のある城郭で、蜂須賀氏入国後も改修されて、阿波9城の1つに数えられている。それほどの阿波の有力城郭であり、城址公園にもなっているというのに、実際に訪れてみると肩透かしを食らったような気分になってしまうのが、この城址公園である。

 城址公園の東側には古墳のような規模の高台が1つあり、それが城の中心部であったらしい。ところが登ってみると、近代的なオブジェが散りばめられたしゃれた展望台となっており、城址らしいものはまったくといっていいほどない。面積もたいしてない。これではとても城址と言えないのではないだろうか。

 ところでこの高台には「牛岐城址館」というのが設置され、その内部には発掘された石垣が保存されている。ちなみにこの城址館は普段は施錠されており、内部に入るには下の公園管理事務所に言って開けてもらう必要がある。

 発掘された石垣は2段ほどのささやかなものであるが、石の粒はわりあい大きく立派なものである。積み方は乱積みであり、戦国期のものといってもよさそうなものである。しかし、石垣は高台の中央付近の所にあり、すぐ東側は台地端になってしまう。この位置からすると、現在の高台は東側がかなり削られてしまっているのではないだろうか。

 結局これでは牛岐城の本来の形状はまったく想像もできない。ということで、公園管理事務所の方や、付近にお住いの阿南の歴史に詳しい人などにいろいろと伺って、旧状を想像して描いてみたのが右の鳥瞰図である。

 戦国期までの新開氏の牛岐城は、その規模は大きくなかったようで、1と2の瓢箪型の小さな台地に築かれたものであったらしい。1のピークが城の中心部であり、2の部分には新開氏を祭った神社が建てられている。

 このように2つの台地はかつて接続されていたのだが、大正年間に道路を通すために、中央部を削り取ってしまったのだという。さらにそれぞれの台地も周囲をだいぶ削られてしまっており、現状のような狭隘な地形になってしまっているのらしい。ただし、もともとはもう少し広かったにしても瓢箪型の台地だけでは居住面積を十分に確保できないことから、台地の西側の平野部にも居館を置くスペースがあった可能性が高い。居館跡を西側に設定したのは、台地頭部はかつて沼沢地であったということと、西側に城下集落が形成されていたといったことによる。そして、これらの城郭部分の周囲には水堀が廻らされていたらしい。

 新開氏の居住した戦国期までの牛岐城はその程度の規模のもので、砦といったレベルのものであったらしい。その後、天正13年に蜂須賀氏が入部してくると、牛岐城は阿波9城の1つとして町割りが行われて、整備されていったという。1の高台にあった石垣はどうも蜂須賀氏の時代に築かれたものではなかったかと思われる。

 現地で伺った話によると、近代の築堤工事で、城址にあった石のほとんどが取り払われてしまったのだという。つまり、現在見られる2段の石垣は残欠に過ぎず、実際にはその上に高さ数mの石垣が廻らされていたものと想定できる。となると、この石垣は本丸を形成していたものというよりは天守台に近いものだったのではないだろうか。石の規模や積み方も蜂須賀氏の時代のものとして矛盾はない。蜂須賀氏は主郭の石垣の上には天守に近い形状の象徴的な建造物を設置し、下の平場に陣屋を置いて当地支配の拠点としていたのではないかと推測する。

 ところで、阿南市はLEDの生産で有名な都市なのだという。その関連で市内各地にLEDイルミネーションが設置されているのだという。この城址公園もその1つであり、夜になるとイルミネーションがきらびやかに輝き、「恋人たちの聖地」と呼ばれている、と阿南市のガイドブックに掲載されていた。例の高台にやたらとしゃれたオブジェクトがあり、イルミネーションが豊富に設置されていたのはそういうわけだったのである。

 城址を一通り回り、近所の方に話を伺っていたりするうちに周囲は暗くなってしまい、イルミネーションの点灯が始まっていた。なるほど、城址公園とはとうてい思われないほどのきらびやかな光景が展開していたのだが、恋人たちの聖地というわりには、一組の恋人も見かけることはなかった。

牛岐城址公園の様子。正面の高台が1郭である。 城址公園に建てられた門。
1郭内部に保存されている石垣の名残。 2郭の新開神社。
夜の1郭。LED電球がたくさん点灯し、恋人たちの聖地と呼ばれているという。しかし、誰もいないなあ・・・。
 新開氏はもともとは埼玉県深谷市の豪族である。新開氏は阿波守護細川氏の家臣であり、細川氏による阿波支配のためにこの地に入部してきた。後に主家は細川氏から三好氏に移っていくが、新開氏の阿南支配は続いた。ただし、周囲には敵対勢力も多く、新開氏の阿南支配はかなり不安定なものであったという。

 天正8年、長宗我部氏の侵攻がこの地域にまで進んできた。新開氏は抵抗し切れず、長宗我部氏の軍門に降った。以後は長宗我部の配下として、讃岐など各地に転戦していくことになる。天正10年8月には、長宗我部元親が自ら2万3千の兵を率いて牛岐城に入城し、讃岐の十河氏攻撃のために出陣していったという。

 天正13年に支配者が蜂須賀氏に代わると、牛岐城は、阿波9城の1つとして整備され、細川帯刀(賀島政慶)が城代として入城した。この時に城は富岡城という名称に変更された。

 後に一国一城令が発布されるに至って、牛岐城も廃城となった。 




西方城(長生町西方556)

 西方城は、日亜化学工業の工場の南側にそびえる比高110mの山稜に築かれていた。

 鳥瞰図は『城郭体系』の図を参考にして描いてみたものである。今回城址東側に展開している帯曲輪の多くを探索することができなかったので、この部分はもっぱら『城郭体系』の図に頼ってしまっている。
 
 東側からこの山を目指して進んでいくと、八幡神社の少し手前に「西方山駐車場」という案内がある。場所は上記の工場の駐車場を兼ねているようだが、そこに停めるという指示なので素直にそれに従って車を停めて歩いていく。すると、200mほど歩いたところで、登山道の入口があった。

 登山道には「周辺の道路に車を停めないように」との注意書きが書かれている。この周辺には路肩の広いところがあり、そこに車を停めてもよさそうなものなのだが、それらにもしっかり「駐車禁止」のj札が立てられている。素直に支持された駐車場に停めて置かなければならないことになっているようだ。

 後で分かったことだが、山頂のイルミネーションの関係で、時期によってはここにたくさんの人が訪れるらしい。その際に路肩に車を停められると通行の妨げになることから、上記のような注意書きが設置されるようになったものなのだろう。もっとも、私が訪れた際には、他に誰も人はいなかったのだが。

 登山道はよく整備された遊歩道なのでけっこう歩きやすい。それに要所には「五合目」「八合目」などの案内が立てられていて、後どのくらいで到着できるのか想定でき、なかなか親切である。

 そんな風にして山頂が近づいてくると、テラス状の小郭がいくつか見えてくる。それと同時に、山頂付近の展望台と、何やら細い鉄骨で大きく組まれた構造物が見えてくる。j普通の鉄塔とは違うようだし、これはいったい何なか、その時は分からなかった。

 展望台までは遊歩道は付いていたのだが、そこから先には網が廻らされており、普通では立ち入れないようになっていた。しかし、実際の主郭はその1つ先なのである。どうも、登山道はこの展望台に来るためだけのものであり、城址見学はあまり意識していないようである。展望台から上の柱を渡ってなんとか1郭にアクセスしていく。

 1郭内部はまったく整備されておらず、倒竹のヤブであり、ちょっと歩きにくい。それでも進んでいくと、西側には土塁が盛られており、周囲の腰曲輪なども確認できる。しかし、散策向きの場所ではない。

 城址東側には多数の帯曲輪が展開されており、中腹には土塁で囲まれたわりと広い郭もあるらしい。というわけで降りにはそれらの郭を通過してみたかったのだが、あまりにもヤブがひどそうだったので、今回はあきらめてしまった。鳥瞰図が『城郭体系』に頼ってしまったものになったのはそれゆである。

 そこでいったん降ってから、八幡神社の背後から、途中の郭まで上がって行こうかと思ったのだが、こちらもヤブな上に急峻なので、これまたあきらめてしまった。

 ところで、山上の設備が何のためのものなのかその時には分からなかったのだが、後で牛岐城の公園事務所で話を伺っていた際に、「阿南市はLEDの生産拠点なのであちこちにイルミネーションがある」という話を伺った。そこで「ひょっとして西方城の上にあったのも、それですか?」と聞いてみると、確かにそうだという。西方城の北側山麓にあった日亜化学工業というのが、そのLED工場なのであるらしい。工場が自分の会社の製品をアピールするために、西方山にイルミネーションを設置したのである。なるほど、イルミネーションこそが主眼であり、城址を訪れる人向けの遊歩道ではなかったのはそういうことだったのね。

 「夜になると遠くからでも龍の姿がよく見えますよ」と言われたので、暗くなってから西方城の付近にまで行ってみた。

 確かに山の上に龍の姿が輝いているのがはっきり分かる! そんなわけで写真にも撮ったのであるが、肉眼でははっきりと分かったのに、デジカメ写真ではさっぱり分からないものになってしまったのであった。残念!

下の駐車場から見た西方山。ここからの比高は110mほど。 登山道の登り口。山頂まで遊歩道が付けられている。
八合目の小郭付近。このように「○合目」といった表示があるので、気分的にも歩きやすい。 2郭にある展望台。脇にはLEDの巨大なイルミネーションが設置されている。
1郭西側の土塁。 夜になって点灯した西方山イルミネーション。巨大な龍の姿である。肉眼でははっきり分かったのだが、写真に撮影するのは難しい。
 天正年間、西方城の城主は東条紀伊守であった。天正8年に長宗我部勢が侵攻してきた際、桑野城主であった関之兵衛は、土佐方に寝返り、西方城を攻撃し、西方城を手中に収めたという。




平島館(阿南市那賀川町古津)

 阿波公方資料館のある一帯が平島館の跡であるという。資料館のすぐ脇には塚が1つあり、その上に「平島館跡」の城址標柱が立てられている。また、下には古い墓がいくつもあった。

 しかし、これだけでは館の旧態は分からない。戦後直後の航空写真を見てみたのだが、その時点でもすでに館の形状は失われてしまっていたようである。ただし、現在でも「お屋敷跡」「御門前」「騎者馬場」といった関連地名は残されているのだという。また、館に付設して馬場や花園(薬草園)などもあったという。

 牛岐公園管理人の方に伺った話では、現在城址標柱が立てられている塚は、土塁の名残でも何でもなく、合戦などで出た死者を埋葬した場所であるらしい。それでは実際の館の形状はどのようなものであったかというと、「それは現在では全く分からない」という。ただ、「かなり規模は小さかったのではないか」とのことであった。

 それでも地形図を見ると、北側と南側に水路が通っている。館はこれらを水堀に取り入れた、方100mほどの単郭構造のものであったと想定できるのではないだろうか。相当早い時期に、耕地整理によって破壊されてしまったのであろう。

 ただし文化年間に平島館破壊された際に移築された玄関や書院が、小松島市地蔵寺に残されているという。


 平島館は、阿波公方と呼ばれた足利義維(後の義冬)によって築かれたものであった。義維は足利11代将軍義澄の次男であり、12代将軍足利義晴の弟である。播磨国で生まれ、大永7年(1527)には三好元長・細川晴元の支持を受けて、将軍足利義晴を近江に放逐した。同年7月13日には従五位下・左馬頭に叙任され、次期将軍としての地位を固めつつあったが、天文元年(1532)、三好元長と細川晴元が対立し、元長が自害に追い込まれるに及んで、堺を脱出して阿波に逃れてきた。そして営まれたのが平島館であったという。義維は平島公方と呼ばれるようになる。

 阿波に入国した際にはお供集が300人以上おり、3000貫の所領があったというから、かなりの勢力である。近世でいえば1万石の大名クラスの規模であろうか。

 後に13代将軍義輝が松永弾正に殺害されると、義維の子息義栄が松永・三好氏に擁立されて14代将軍となった。真実の公方になったわけである。しかし、その後、松永氏と三好氏が対立をはk締めたため、義栄はなかなか都に入ることはできなかった。そうこうしているうちに織田信長によって擁立された義昭が15代将軍となり、結局、将軍に叙任されながら、義栄は一度も上洛することなく、阿波に帰って行ったのであった。

 天正10年に阿波を侵略した長宗我部元親は、阿波公方に格段の敬意を払うということはなかったが、所領は維持された。しかし、天正13年に阿波に入国した蜂須賀氏は、阿波公方の所領を一気に100石に削減した。また足利姓を名乗ることも認めず「平島」と呼ばれていたという。平島氏は何度も待遇改善を徳島藩に呼びかけたが、反応は芳しくなく、文化2年、平島義根は阿波を去って紀州に転居していったという。これにより平島館は廃館となった。

館跡の標柱が立てられている塚。 阿波公方資料館。

































大竹屋旅館