香川県引田町

*参考資料 『日本城郭体系』 『図説中世城郭事典』

*参考サイト  ちえぞー!城行こまい  サボテンと城と山  四国の城郭探訪  城郭放浪記

引田城(引田町城山)

*鳥瞰図の作成に際しては、『図説中世城郭事典』および現地案内板を参考にした。

 引田城は、引田港に臨む比高90mの山上に築かれている。城域が非常に広大なので、かなり幅広く大きく見える山である。

 登り口は何箇所かにあるようだが、今回は南側山麓の登城道から登ってみた。後で城内の案内板を見たら、登り口の近くに駐車場もあったらしいのだが、よく分からなかった。とりあえず、路肩の広い所に車を停めて登り始める。

 天気予報は夕方から雨となっていた。現在の所、空は多少曇ってはいるが、すぐに降り出しそうな感じではない。そこで、傘を持たずに登って行った。

 登り初めは岩場につけられたジグザグの道になっている。石段が付けられているのだが、これは城に伴うものなのだろうか。

 ジグザグの道が終わると岩場の脇に差しかかる。大岩の脇を通る箇所があるが、その道の脇下にも石垣が積まれていた。積み方がなんだか新しいが、もしかすると遺構なのかもしれない。

 そこから岩場を登っていく感じになる。この岩場に差しかかると、景色がとてもよく見えてくる。なぜかといえば、岩場であるだけに大きな木がほとんど生えておらず、そのため眺望が利いているのである。三方向が海に囲まれており、景色を楽しめる登山ではある。

 やがて道は尾根上を通っていく。尾根上と言っても、地面がほとんど岩場になっているので、かなり荒涼としたイメージである。わりと平坦ではあるが、ここに居住用の建物などを建てることはできないであろう。

 さらに進んでいくといきなり石垣が見えてきた。よく写真などで紹介されている西櫓の石垣である。山上であるが、わりと大きな石を用いているのが印象的であった。山自体が岩の多い山であるので、石材には不自由しなかったといえるかもしれない。

 西櫓を進んでいくと、南櫓と北櫓方面との分岐点に差し掛かる。この辺りから遠くで何かが鳴るような物音が聞こえ始めてきた。遠雷であろうか。いずれにせよ、かなり遠いので、すぐにどうにかなることもないであろう。そう思いながら進んでいく。

 そこから虎口状の部分を通り、山稜のj中央部にある平場を進んでいった。山上とは思えないほど意外に広い平坦地である。山麓から見たとおり、山上にはけっこうな平場が存在している。

 城内は鞍部に差し掛かり、東櫓と北櫓との間の分岐点までやって来た。東櫓の側面部にはわりとまとまった石垣が残っていた。しかし下半分がヤブに埋まっていて、うまく写真に写せない。

 などとやっているうちに、また雷の音が聞こえ始めた。今度はちょっと近くなってきた感じである。

 「これは来る!」と直感的に予感が走った。まだ城内のあちこちを回っていないのだが、ここで戻らなかったら土砂降りに遭ってしまうかもしれない。そう思って、急ぎ足で、登って来た道を反対に引き返し始めた。

 さっきまでそれほどでもなかった空が、いつの間にか一面の黒雲になってきていた。あっという間の変化である。すると、しだいに小雨がパラパラと舞い落ち始めてきた。登城口まではまだかなりある。登るときには「景色がいいなあ」と感嘆しながら歩いてきた岩場であるが、今はそんな余裕もなく、ただひたすら駈けるようにして降りていく、

 雨足が急激に強くなり始めてきた。とにかく登り口を目指す。そうしてやっと最初のジグザグの道まで戻って来た。この辺りは木も生えているので、そんなに濡れないで進むことも可能である。しかし、木がない所に差し掛かると、ざっと濡れてしまう。

 なんとか、車にたどりついた。そしてキーを開け中に乗り込んだ瞬間、ザーッと大雨がやって来た。雷もゴロゴロと鳴っている。稲光まで見えている。この状態で、木もろくに生えていない岩場に立っていたら非常に危険であったに違いない。それにしても我ながらなんというタイミング、車に乗ると同時に大雨になるなんて、こんな絶妙なタイミング、初めてである。城の中央部で、「今すぐ戻らないと危ない」と思った直感はまったく正しかったのである。

 そんなわけで、引田城の全域を探索することはできなかった。だがだいたいのイメージは把握できた。石垣はあちこちにあるが、全体に、鋭さを感じる城ではない。しかし、山上には広い平場が何箇所もあるので、大軍の駐留は可能な山城である。港からも近く、長宗我部に対抗する讃岐衆の拠点とするにはふさわしい城である、といっていいだろう。

引田港から遠望する引田城山。ここからの比高は90mほどある。城域が広大なために、ずいぶん広い山に見える。 港側にある城への登り口と案内板。登り始めた時は、すぐに雨が降りそうな雰囲気ではなかった。
岩場を削ったような道を上がっていくのだが、石段や石積みなどが見られる。これも往時のものなのであろうか。 途中の道の下にも石垣が積まれている部分があった。こちらはさすがにちょっと新しすぎるか・・・・。ハイキングコース整備の際に造られたものかもしれない。
西櫓の南下の郭辺りまで来ると、眺望がとてもよい。というわけは・・・ この辺りの地面は岩場であり、木も生えにくいため、すかすかで景色がよく見えるのである。
城域に入ると最初に目に入ってくる西櫓の石垣。けっこう大きな石を積んだ本格的なものである。といっても高さは2mほどである。 西櫓北側下の平場。かなり広い空間である。
その脇の北櫓に続く斜面にも石がゴロゴロしている。崩落した石垣であろう。 東櫓に築かれている石垣。かなり長く延びている。
 引田城の城主は、大内義興に属していた寒川元家の家臣、四宮右近であったという。

 その後、阿波の三好氏の勢力が拡大してくると、寒川氏は三好氏に敗れ、引田城・虎丸城とともに大内郡を三好氏に引き渡すことになった。その後は三好長治の家臣、矢野駿河守が引田城の城主となった。この矢野駿河守は、天正7年(1579)、阿波岩倉城主、三好式部少輔に謀られて殺害された。

 その後、引田城は十河存保の手に入っていたようである。四国制覇を目指す長宗我部元親は、勝瑞城の籠城戦で、十河存保を屈伏させた。十河存保は引田城に退却し、羽柴秀吉に援軍を求めた。

 ところが、当時の秀吉は、柴田勝家、徳川家康といった敵対勢力を抱えており、全面的に援軍を派遣することはできなかった。そこで仙石秀久に数百人の兵を与え、引田城に入城させた。

 天正11(1583)年4月、十河存保・仙石秀久は、雨滝城主安富肥前守らと共に長宗我部軍と決戦を挑んだが、またもや敗軍してしまう。こうして、讃岐は長宗我部氏に併合され、ついに長宗我部元親は悲願の四国制覇を達成した。

 『南海通記』には、この引田合戦のことが記述されている。ある老父の夜話という形式になっていて、その老父は当時幼少だったので、合戦には参加していないが、人から聞いて戦いのことは知っている、といった書き出しである。

 それによると、引田合戦は天正11年5月、仙石方と土佐方とが激しくぶつかった。最初は仙石方が勝って、土佐方を追い打ちしていたが、何しろ仙石方は人数が少なかったので、十分に勝つ前に土佐方に追い打ちされることになってしまった。

 仙石権兵衛は当時18歳で心はやっており、紅梅鴇毛という馬に乗っていた。権兵衛が引き返そうとしたところに、土佐方の稲吉新蔵人という若武者が追いかけてきて、一騎打ちとなった。両者はもみ合いながら互いに深手を負っていたが、そこに土佐兵がやってきて、ついに権兵衛は討たれてしまった(!?)。そこに墓を築いたのだが、その墓は今も残っている(???)。

 ある時、夜中に僧がその墓の前を通り、「これは何者の墓か?」と言ったところ、墓の中から「仙石権兵衛」と答えて来た(おいおい)。僧は権兵衛の供養を行ったが、その後も、墓の前を武者が通ると、馬が立ち止まって難儀したという。

 仙石秀久(権兵衛)がここで討ち死にしたというのはまったくの誤りである。しかし、墓も実際に残っているというのだから、仙石方の若武者の誰かと勘違いしているのかもしれない。

 そんなわけで、四国制覇が達成されたわけであるが、そんな長宗我部元親の栄華も長くは続かなかった。天正13年(1585)、秀吉による四国征伐が行われ、秀吉に屈服した元親は、再び土佐一国に押し込められてしまう。

 長宗我部氏が撤退した後、讃岐は十河存保や仙石秀久に与えられ、存保は引田城主として返り咲いた。

 だが、天正14年、島津攻めの先鋒となった十河存保や仙石秀久は、無謀な作戦計画により戸次川で島津勢に取り囲まれ、全軍壊滅に近い打撃を受ける。この戦いで十河存保や長宗我部元親の嫡男信親らは討ち死に、仙石秀久は、命からがら都に逃げ帰った。

 そのあまりのふがいなさに(秀久は大口をたたいて無謀な作戦を立てていたのである)、秀吉は秀久を改易とする。(だが、この秀久、愛される資質を持っていたのか、後に、小諸城主として復活することになる。)

 代わって讃岐の大名となったのは尾藤知宣である。知宣は、再度の九州攻めで、全体を指揮する立場にあったが、有能な采配ができなかったために秀吉の怒りを受け、彼もまた改易となってしまう。

 目まぐるしく城主は代わり、次に讃岐に入国してきたのは、生駒親正であった。親正は讃岐17万8千石の居城として、初め引田城に入城したが、後に聖通寺城に本拠を移した(さらにそののち高松城を築いて移る)。その後、元和の一国一条令により、引田城も廃城となった。





































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