徳島県海陽町

*参考資料 『日本城郭体系』 『図説中世城郭事典』

*参考サイト  城郭放浪記

海部城(靹城・海陽町奥裏堤ノ外39−5)

*鳥瞰図の作成に際しては『図説中世城郭事典』を参考にした。

 海部城は、海部駅の東400mほどのところにある比高50mほどの山稜に築かれている。三方向を海に囲まれており、まさに海城というべき城であった。また東側の山麓には近世に海部陣屋が置かれていた。

 城山は津波の際の避難所となっているため、途中何箇所にも登り口があり。そこから城にアクセスすることができる。東側山麓にあった、かつての海部陣屋跡は、現在ではびっしりと立ち並んだ住宅街に変貌しているが、その住宅街の奥手の方に入り込んでいくと、城址へと続く石段が見えてくるのですぐに登り口が分かる。ちなみに私はこの位置から登城した。

 この登り口には祠が祭られており、ネットで見てみると、この祠の脇に陣屋跡を示す石碑があったようだが。石段が整備された際にどこかに移転されてしまったようで、現在では、どこにあるのかわからなくなってしまった。

 登り口付近には宅地が密集しているために車を駐車できる場所はないが、その北側の津波避難所施設の周辺には停めておくことが可能であったので、その辺りに車を停めて、城址へ向かった。

 住宅地の中を進んでいくと、山に登っていくかなり立派な階段が見えてくるので「城址公園として整備されているようだ」と思い込んでしまうのだが、それは間違いであった。城山に何箇所からか付けられているこの階段は、津波の際に住民が山に迅速に避難するために設置されたもののようである。まだ新しいものであり、おそらく3.11の東日本大震災の影響を受けて設置されたものなのだと推測される。だから階段は城山の途中、ある程度の高さのところまでしか設置されておらず、そこから先の城内は、ほぼ未整備状態であった。

 先の階段を登っていくと、6の郭の北側部分に出た。主郭はその北側上に当たるので、そこから4郭を目指す。その手前一段下には西側に横堀を伴った小郭があったが、この横堀はどういった意味のものなのであろう。一種の塹壕であろうか。

 4郭の上の段に登っていくと正面には高さ6mほどの切岸が迫って見えてくる。この上がもう1郭であり、城山に登り始めて5分ほどで1郭に到達することができた。

 1郭といっても、それほど広い郭ではなく、長軸で20mあるかどうか、といった程度のものである。その南側部分は、規模から言うと「天守台」と呼んでもよさそうな段になっており、それと接続して土塁が北東側に延びている。注目すべきなのは、この天守台や土塁の周囲は石垣で覆われているということである。海部城は石垣構造を有した城郭なのであった。海部城は阿波9城の1つであるから、この辺りは蜂須賀氏の時代になってから構築されたものであるのかもしれない。

 それにしても城内は整備されておらず、案内板1つ設置されていない。それなりに有名な城址だと思うのだが、現在は地元からも忘れ去られてしまったようなたたずまいである。1郭から北側に降りていくと2郭があるが、こちらはかなりのヤブ状態であった。切られた木がそのまま放置されており、かなり歩きにくい状態になっている。

 2郭からは海の景色がよく見えていた。潮風の匂いがする。南国だけあって、海はとてもきれいである。2郭からは北西側に向かって幅広の尾根が延びて行っており、そこに3郭から続く小郭郡が造成されている。また、その先端には切り通しの通路を隔てて、観音庵跡の平場がある。観音庵跡は出城のような半独立状の区画となっている。現在ここは墓地となっている。

 1郭から今度は南側方向に戻ってみると、4郭から下に尾根が延びているのが目に入ってくる。この下が5の郭である。5郭の南側下には7郭があり、そこから海部東小学校に向かって段々の郭が連続している。

 また、6郭の南側には大規模な切り通しがあり、その先に携帯のアンテナが設置されている8郭がある。8郭は大堀切によって分断されており、ここも出城のような独立した郭となっている。

 このように海部城は、多くの郭を有する山城であるが、それぞれの郭の規模は大きくはなく、郭同士の連携もあまり良いとはいえないし、大規模城郭であるともいえない。しかし、土佐との国境に近い海城であり、海上監視のためにも絶好な位置にある。蜂須賀氏が阿波9城の1つとして重視していたのもうなずけるロケーションにある城郭である。

北側から見た海部城。海に臨んだ比高50mほどの独立山塊である。 中央登り口。立派な石段が付けられているが、これは避難用のものである。
6郭下に残存していた石垣。 1郭南側の城塁。
1郭南側側面部の石垣。 2郭から見た海の景色がとてもきれいであった。
2郭から下の観音庵跡を遠望したところ。 1郭東側の二段積みの石垣。
8郭との間の大堀切。 8郭。下には携帯のアンテナが建てられている。
 海部城が最初に築かれたのは元亀元年(1570)のことであったという。築いたのは三好勢に属していた海部左近将監友光で、長宗我部元親に対する抑えの意味があったと言われる。

 元亀2年、長宗我部元親の末弟であった弥九郎は、わずかな伴を連れて、病気治療のため有馬温泉を目指して船で出立した。ところが、途中で嵐に遭ってしまい、海部の岬に漂着してしまった。それを地元民が「あやしい一団が侵入してきた」と城に通報したものだから、海部城の城兵たちは一行を取り囲んで、ろくに調べもしないままに討ち果たしてしまった。

 これを聞いた元親が怒ったのも無理はない。天正3年、長宗我部元親は土佐に侵攻、海部城を攻め落とした。ここから阿波は長宗我部氏に席巻されていくことになる。

 天正13年、秀吉による四国征伐が行われると、長宗我部軍は上方勢に降伏せざるを得なかった。その後に阿波に入部してきたのは蜂須賀正勝である。蜂須賀氏は海部城を阿波9城の1つとして整備した。中村重友が城代として海部城に入城した。

 その後、一国一城令が発布されると、阿波9城も廃城となり、海部城の東側山麓に代官所が置かれた。代官所は「御陣屋」と呼ばれていたという。




吉田本城(海陽町吉田西沢7−1)

 吉田城は、山麓地階部分にある本城と、そこから尾根伝いに登って行った先にある山城との2つの城郭により構成されている。

 吉田本城は、比高20mほどと低い台地の先端部にあり、城主の平素の居館であったと思われる場所である。城址の1郭真下にには春日神社が祭られているので、城址に行くためにはこの神社を目指せばよい。ところが、この神社の入口がとても分かりにくい。

 参道入り口の石段は民家脇のこの位置にある。よく観察すれば石段が見えているのだが、その先はヤブ状態である。神社の参道だというのにこの荒れようはひどい・・・。今ではこの道を使って参詣する人はいないようである。10mほどヤブを我慢して進んでいけば、後は普通の参道になるのであるが、そこまでがけっこう厳しい。

 この参道のすぐ北側に、吉田本城の側面部を通り、吉田山城の先まで続いている山道があるのだが、こちらの方が歩きやすいかもしれない。

 ちなみに、入り口付近の脇に路肩の広くなったスペースがあったので、車はそこに停めさせていただくこととした。

 今回、登りは北側の山道から入り込み、帰る際にこの参道を利用した。上記の山道を進んでいくと、すぐに1郭の城塁が見えてくる。直登の難しい鋭い斜面である。さらに山道を進んでいくと、やがて北側の横堀の所に出た。1郭の周囲には横堀が廻らされている。ここから、1郭に登って行く道はなかったので、テキトーによじ登って郭内部に進入していった。

 1郭内部は長軸30mほどの規模であった。周囲には高さ2mほどの土塁がしっかりと廻らされており、きちんと普請されているといった印象を受ける。虎口は東側に1か所だけである。この虎口を抜けると、下の春日神社が見えてきた。

 神社のある部分は三段の平場から構成されているが、これもかつての郭であったと見てよいだろう。1郭だけでは手狭であるが、これら三段の郭も合わせれば、城主居館としてはまずまずの広さを確保できている。なお、3郭正面の虎口脇には石垣が積まれていたが、これは後世の神社設置に伴うものと推定する。遺構である可能性もまったくないとは言えないのではあるが。

 先の山道は1郭の西側から、南の横堀の脇を通って、4郭下の堀切に降りていくようになっている。さらにそこから比高で100mほど登って行ったところが、吉田山城の1郭ということになっている。1郭へ向かう途中の中腹辺りから展開する遺構を見ることができる。

東側から遠望する吉田本城。手前の比高20mほどの台地である。中央やや左寄り奥の比高12mの山稜が吉田山城である。 民家脇にある春日神社の参道入口。しかし、途中かなりのヤブなので進入しにくい。
1郭北側下の横堀。城塁が鋭い! 1郭内部。高さ2mほどの土塁がしっかりと廻らされている。
2郭にある春日神社。 1郭の虎口。
1郭南側の横堀。 3郭の虎口には石垣が積まれているが、後世のものだろうか。
 吉田城の城主はそのまんま吉田氏であった。天正3年(1575)、吉田庸俊が吉田城を守っていたが、長宗我部軍に攻撃されて落城した。

 その後は、長宗我部家臣の北村閑斎が城代となって、吉田城の守備に当たった。

 天正13年に長宗我部勢が駆逐され、阿波一国が蜂須賀氏の支配に収まると、蜂須賀氏は海部城をこの地の拠点として整備した。吉田城はその際に廃城となった可能性が高いと推定される。




吉田山城(海陽町吉田槙山)

 吉田山城は城満寺の背後にそびえる比高120mほどの山稜に築かれている。城の遺構と思われるものは中腹から山頂部にかけて各所に展開しており、なかなかの規模を有し、相応に見どころもある山城であった。

 吉田本城の方から山道を進んでいくと、途中のピークの側面部を過ぎたあたりで、道が尾根状になるのだが、その先に両端を竪堀で削った箇所がある。ここからが城域である。

 この部分を抜けると、道は折れながら切り通し状になって続いている。この切り通しの上には、7,8といった郭が造成されており、切通の通路は、郭内部から攻撃できる位置にある。

 この部分を過ぎると道は切り通しではなく普通の山道になっている。またまたピーク部の側面部を通って進んでいくと、尾根が平坦になっているところに到着した。

 その先には尾根が掘り切られており、右側に土橋1本だけが残されている。この先を進んでいくと6の郭に出る。

 6郭からは4郭の城塁が見えている。高さ2mほどだが、しっかりと切岸構造になっている。4郭は城内で最も広い郭であり、多数の人数を籠めておくこともできる。吉田山城は予想以上に相当数の人数が籠城できる山城のようである。

 登城道は6郭脇の切り通しへと続いている。規模は小さいが、先の8郭の部分と同様、登城路を通過する敵を攻撃するためのものなのであろう。登城路は途中、5郭の手前で折れながら、4郭の奥に出るようになっている。

 そこからは道が二手に分かれており、正面から比高20mほど直登すると3郭である。山道はそのまま続いていたので、とりあえず、山道を進んでいくと、やがて北側の山稜との間の堀切状の部分に出た。この先まで山道を進んでしまうと違う山の方に行ってしまいそうだったので、ここから3郭城塁をよじ登って行くことにした。ここから3郭に上がったところも虎口状になっていた。

 3郭内部はシダ類が生い茂っており、形状が把握しづらい。先端近くに窪みがあるのが分かったのだが、井戸跡であるのかどうかはっきりしない。3郭からは正面に1郭の城塁がよく見えており、1郭から続く土塁が、3郭の北側にまで回り込んでいる。

 3郭の左端側面部が土橋状になっており、ここから1郭への通路が付けられていた。そこを上がっていくとすぐに1郭。1郭は長軸40mほどの郭であった。1郭は比較的ヤブが少なくて形状が把握しやすい。北側にのみ、しっかりとした土塁が盛られているが、北側の斜面も急峻であることからすると、防御的必要性によって盛られたものというよりも、山頂部を削平することで削り残されて形成された土塁なのであろう。しかし、一部分は櫓台状に幅広になっており、設計の新しさをも感じさせるものである。

 1郭の南西側にも土塁が盛られており、その脇が虎口となっている。それを抜けていった先が堀切、両端は竪堀となっているが、北側のものは、竪堀の堀底がテラス状の小空間となっていた。

 その先が2郭である。2郭は城域の南西端に当たり、詰の丸のようなものである。規模は小さいが3段に分かれている。

 吉田山城はこのように山頂から中腹部にかけて広域に山稜を加工した山城である。郭面積もけっこうあり、相当数の人数の籠城も可能であり、城主の勢力の大きさを感じさせる。登城路とそこを通過する敵を攻撃するためのシステムもよく考えられている。ただ、これだけの山城であるというのに、案内板も何もなく、ほとんど未整備の状態である。世間からは忘れられつつある城址であるのだろう。ちょっと残念な気がする。

吉田山城に向かっていくと最初にお目にかかるのが、尾根の両端を削ったこの部分である。 8郭脇の切り通し通路。
6郭手前にある堀切。 6郭から見た4郭の城塁。
3郭北側下の堀切。 3郭内部。正面に1郭の城塁が見える。
1郭内部。北側には土塁が盛られ、一部は櫓台状になっている。 1郭南側の堀切の城塁。
2郭内部。 6郭脇の切り通し通路。横堀状になっている。


































大竹屋旅館