高知県高知市

*参考資料 『日本城郭体系』 『図説中世城郭事典』

*参考サイト  ちえぞー!城行こまい  サボテンと城と山  

朝倉城(高知市朝倉城山)

*鳥瞰図の作成に際しては、『図説中世城郭事典』および現地案内板を参考にした。

 朝倉城はとにかくすごい城であった! おそらく四国内の中世城郭ではトップクラスの規模と技巧とをそなえた城であるといってもいいのではないだろうか。これに匹敵できる城として思いつくのは、栃木の多気山城といったクラスの大城郭である。
 
 朝倉城は朝倉駅の南西500mほどの所にある比高100mの城山に築かれている。この山の南側に西登城道があり、今回はそこから登城した。

 朝倉城のある山の中腹から山麓にかけては集落があり、あちこちに民家が点在している。そのため複雑に道路が入り組んでいるのだが、車で行く際に困ってしまうのは、この道路がとにかく狭いことである。狭いうえに、片側が土手で片側には溝、といった箇所も少なくない。これでは路上駐車など思いもよらない。

 ネット上で仕入れた情報によると、この集落の奥に近い所に「北城公民館」があり、そこにかろうじて車を一台停めておけるスペースがあるということであった。そこには城の鳥瞰図もあり、城内へもすぐ歩いて行けるという。

 そこでナビに「北城公民館」の位置をインプットして、朝倉までやってきた。ところが、公民館付近の道路はとても狭くなっているため、ナビは導入路を的確に案内できず、実際の道よりも南側の入口を指示してしまっていた。それに気がつかず、その位置から集落内部を通って公民館の方を目指そうとしたところ、とにかく道が狭くて運転に気を使ってしまう羽目に・・・。普段乗っている軽自動車ならばどうということもない道だったのだが、今回乗って来たワゴン車では、カーブで車を切り返すだけでも大変な目に遭うことになった。

 そんなことをしてなんとか進んでいるうちに、車は「西登城口」の所まで来てしまった。ここから公民館に降りる道は細くて、とてもこの車では行けそうもない。ここまで来た道を引き返して行くのもいやだ、と途方に暮れてしまったのだが、近くの農業技術センターに駐車スペースがあるのを見つけ、ダメ元でセンターの方に「車を置かせてもらえないか」頼んでみることにした。幸い了承を得られたので、車をそこに置いて、西登城口を目指す。車を置いたところから西登城口までは水平移動だけですむ。おかげでだいぶ比高差を稼ぐことができた。

 西登城口に行って写真を撮ろうとすると、ちょうどそこでおばあちゃんが、猫と犬に餌をあげているところであった。仕方がないのでおばあちゃんごと写真を撮らせてもらう。この登城口から主郭まで、比高差は40mといったところである。

 登り始めてすぐに段々の平場が見えてきた。この辺りから遺構が展開しているとなると、そうとう巨大な城郭であったということになる。期待に胸が膨らんでくる。

 登っていくと切り通しの通路のようなものがあり、そこを入った先に横堀のようなものが見えている。これをちゃんと見ようと思って近くまで接近してみてびっくり! Aの下の部分にその横堀が存在しているのであるが、横堀には土橋が続いていて、その先にももう1本の横堀があった。この二重横堀の間の土橋は、両脇を削ったもので、その幅は50cm程度しかない。それが高さ5mほどで長く続いているのである。こんな二重横堀は見たことがない! まさに驚きの二重横堀である。このようなものがよく400年も崩れずに残っているものだと感心しきり。

 そこから切り通し状の通路を通って、主要部を目指していく。Bの辺りで、横堀の様子を見ようと、横堀内に入ってみた。この部分の横堀はそれほど深くはなく、どちらかというと腰曲輪と呼んだ方が適当なものである。しかし、その外側には深さ6mほどのしっかりとした横堀が廻らされていた。また、この腰曲輪には何箇所かに虎口が設けられて、下の段と接続している。その下の腰曲輪群には、形状が不明瞭な点がある。おそらく後世の耕作化などで改変されているのだと思うが、もともとは何段もの横堀群になっていたのかもしれない。堀底内を左右に移動させて、やっと上の段の虎口に到達するという構造で、その間に塁上から敵を狙い撃ちすることを意図している構造であろう。これでは城内に進入した敵は、迷路のようにあちこち翻弄されてしまうことになるに違いない。

 図面を見ると、この腰曲輪の北側部分にはかなり複雑な迷路状の造作が見られるようである。ただ雨上がりで濡れていて、そこから先がヤブ化していることもあって、残念ながら今回は訪れなかった。図面を見る限りでは、かなり複雑で面白い構造になっているはずである。

 Bまで戻って案内表示にしたがって詰ノ段を目指す。岡豊城の項目でも書いたが、この地域では、「本丸」のことを「詰ノ段」と呼んでいるようである。
 虎口を抜けて進んでいくと、通路の脇には石垣がしっかりと築かれていた。朝倉城は城の各所に石垣をも用いた城郭なのであった。

 詰ノ段に上がってみると、そこには小さな神社が祭られており、複数の城址碑や案内板などが設置されていた。山頂部を削平した空間であるが、長軸60mほどもあり、けっこうな広さである。このけっこう広い詰ノ段が、上の鳥瞰図ではこんなに小さく描かれているのだから、この城全体の広大さが伺いしれよう。

 詰ノ段の北側の土塁には小さな虎口が開けられている。城の構造物はどこも大造作であるのに、この虎口は本当に小さなものである、ここを降りていくと北側下の腰曲輪に出た。ここからそのさらに下の横堀群を見たかったのだが、濡れたヤブのために断念。
 しかし、そこまま腰曲輪を西に進んでいくと、そこに井戸を発見した。この井戸、周囲を石組にした本格的なものなのだが、驚くべきなのは、そこに水が満々と湛えられているということである。この井戸は今でも現役として使用できそうなものだ。そこから脇にかけて築かれている石垣もすばらしい。横堀などの構造物だけではなく、井戸といい、石垣といい、本当に見どころ満載の城郭である。

 そこから詰ノ段と西ノ段との間の堀底を通って、南側の腰曲輪下まで再び降りていった。西ノ段の南側下の腰曲輪のさらに下の横堀部分が通路となっているのだが、この横堀内部は二段構造となっている。また、上の腰曲輪の城塁にはあちこちに石積みが見られる。周辺には崩れた石もゴロゴロしており、本来は総石垣造りであった可能性もある。

 これを進んでいくと大規模な竪堀が見えてきた。いや、竪堀というよりも自然の谷としか思えないような巨大なものである。しかし、地形状、これが自然地形の谷であるとも考えにくいので、やはりこのほとんどの部分は人の手によって掘りこんだものなのであろう。本当に気の遠くなるような土木量である。この城を築くために、いったいどれほどの大人数が導入されたのであろうか。本山氏の勢力の巨大さを感じさせるに余りある。

 さらに進んでいくとCの池跡の脇を通って、Dとの間の堀切の所に出た。しかし、ここから先は道も整備されていないようであり、この後の訪城予定も詰まっていたので、今回はここまでで引き返すことにした。しかし、この先の茶臼ヶ森の辺りまで城郭遺構は続いているようである。

 朝倉城、それは予想以上に巨大かつ技巧的な城郭であった。高知平野の支配をもくろんだ本山氏の意気込みが強く感じられる城であり、最初に述べたように四国の中世城郭において最大級の城である。一度は訪れてみるべき城である。

 なお、ネット上での情報では、この山はマムシの大量生息地であるという。しかし、それほど湿地帯があるわけでもなく、全体に竹藪の多い山で、マムシがそんなに生息しているような山であるとは思えなかった。とはいえ、マムシの出てきそうなシーズンには用心しておいた方がよさそうだ。

農業技術センターの脇辺りから見た朝倉城山。山麓からの比高は100mほどある。城域が広大なため、山稜はなだらかに広がっているように見える。 まっすぐ進んだ所にある西登り口。北城公民館から上がってきてもここに出ると思う。ここからの比高は40mほど。おばあちゃんがここでネコと犬にエサをあげていた。
Aの下辺りの横堀。幅50cmほどに土橋を削り残して、その両脇に深さ6mほどの横堀が並んでいる。ちょっと考えられないくらいの壮大な構えである。こんなの見たことない! Bの横堀入口の辺り。脇に土塁には石垣が見られる。
Bの横堀下の横堀。横堀が何段にもなっているのが特徴である。多気山城多気山城小幡城などを彷彿とさせる。 詰の段に続く通路脇の石垣。この城にはとにかく石垣が多く、これも見どころの1つである。
詰の段の城塁。見た眼よりも急峻である。 詰の段内部。ここに小さな神社が祭られており、城址碑や案内板なども設置されている。前の日に降った雪がうっすらと残っている。
詰の段の北側下に残されている井戸。現在でも水を満々と讃え、まさに現役の井戸である。 井戸の脇に続いている石垣。
次に西の段下からさらに西側を目指す。途中の城塁にはあちこちに石垣が積まれている。それ以上に、崩れてしまった石も無数に転がっている。 西の段南側の竪堀。自然の谷かと思われるほど巨大なものである。しかし自然地形にしては不自然な形状なので、やはり掘ったんだろうなあ・・・途方もない土木量である。
Dの下辺りに築かれた石垣。この辺りはけっこう新しいもののように見える。畑作などに伴うものであろうか。 Bから西途城口まで続いている切り通しの通路。
 本山氏はもともと山間部の本山城を本拠としていたが、天文年間の本山梅慶の時、高知平野への進出を意図し、軍勢を率いてこの地に訪れ、朝倉城を築いてその拠点とした。

 天文9年(1540)、梅慶は吉良城主の吉良氏を滅ぼしてその所領を合わせ、さらに高岡郡の蓮池城をも攻略し、着々とその勢力を拡大させていた。

 天文24年(1555)、朝倉城中ではたびたび怪異な現象が起きていた。それが気になった梅慶は、近くの円行寺で大法会を行った。そこで住持が読経している最中、ネズミが現れた。このネズミは灯篭の油に身をこすりつけて油まみれになって火を誘い、その日が棟木に燃え移って、ついに寺院が消失してしまったという。その後まもなく、梅慶は病死した。・・・・・となんだかよく分からないエピソードなのであるが、つまり梅慶が亡くなる前にはさまざまな怪奇現象が起きていた、ということを言いたいのであろう。

 梅慶の跡は子の茂辰が継いだ。しかし、武将としての力量の大きかった梅慶の死は、長宗我部氏の勢力拡大には大きな幸運であった。

 永禄3年(1560)、茂辰の家来が、長宗我部氏の兵糧船を襲うという事件が勃発する。『元親記』によれば、これは長宗我部氏の言いがかりで、実際本山氏は、そのことを知らなかったらしい。長宗我部氏にしてみれば、なんでもいいから戦を始める口実がほしかったのだろう。これをきっかけに長宗我部氏と本山氏との抗争は本格化し、両者の戦いは続いていく。

 着々と勢力を回復してきた長宗我部国親に加え、跡取りとなった元親らの活躍によって、長浜の戦い(高知市)で勝利を収めた長宗我部氏は、さらに本山氏の本拠であった朝倉城を囲んで圧力をかけることになる。

 これについても、面白い話が『元親記』には掲載されている。長浜には非常に腕の良い大工がおり、その者が築城の際の差配をしていた。この者を長宗我部氏が取りこんで、長浜城の鍵の合鍵を作らせた。これによって城の鍵を簡単に開けることができたものだから、長浜城は落城し、大窪美作守は落ちていったという。永禄3年5月25日のことであったという。

 それを聞いた本山茂時は、急遽2000の兵を集め、木津賀まで出てきた。そこへ押し寄せてきた長宗我部国親・元親の軍勢は数千。巳(午前10時)の刻から午の下刻(午後1時)までさんざんに戦ったがなかなか勝敗が着かない所へ、元親が50騎の兵を率いて、敵の旗本に攻め込み、切り崩していった。「姫若」と呼ばれバカにされていたこともあった元親が汚名返上をした瞬間だった。こうして元親は初陣を勝利で飾ることができたのである。 

 ついに国親はかつての恨み(幼少期に本山梅慶に領土を奪われ、命からがら家臣に負ぶわれ中村へと脱出したことがある)を果たすことができるかと思った。ところがこの陣中で、国親は急にわずらい出し、死んでしまうことになる。

 「元親の振る舞い、武者使いは十分なものだ。これからわしは死して軍神となって元親を守る」

 そういって、国親はみまかった。

 国親の死を知って、本山勢では「今こそ反撃すべき時」というものもいたが、すでに長宗我部氏との勢力関係は逆転しており、評定もなかなか定まらない。周辺の支城はみな落とされてしまい、家臣も次々と離反していくありさまであった。本山氏はとうとう朝倉城1城に押し込められ、それでも籠城を続けていたが、この状況でいつまでも籠城jはできないと判断した本山氏は、2年後の永禄5年9月(1562)、ついに朝倉城に火を掛けて、本山城へと撤退していった。これによって高知平野は長宗我部氏による一元支配下におさまることになった。




吉良城(高知市春野町大谷)

*鳥瞰図の作成に際してはウモ殿の図を参考にした。

 吉良城は天一神社の北側にそびえる比高110mの山稜に築かれていた。吉良ヶ峰から南東に延びている尾根の先端近くである。

 登城道は春野弘岡上保育園から少し北側に入り込んでいったところにある。この地点に案内が出ているので、それに従って進んでいけばよい。進んでいくと急峻な登り口らしきものがあり、案内板も立てられているのだが、そこに「登りやすい登山道は100m先にあり」と表示されているので、素直に登りやすい道の方を選択することにした。

 確かに100mほど進んでいったところに登り口があったので、それを進んでいった。山道の道幅が狭いうえに落ち葉がたまっているので、少し注意は必要だが、わりと傾斜は緩やかなので歩きやすい道である。道はずっと南側に回り込んでいて途中で2つに分かれている。このうち手前側に登って行けば、畝状竪堀群の脇を通って3郭に到達するし、まっすぐ進んでいけば、2郭南端下の腰曲輪の所に出る。どちらを進んでいってもよいのだが、とりあえずまっすぐ進んでいった。

 すると2郭の所に出た。2郭は南北に細長く30mほどの郭で、南端部に祠が祭られていた。この南端部は下の集落に臨む先端部分に当たるため、眺望が非常に利いている。城下集落を見下ろすには絶好の場所である。

 2郭の北側には方5mほどの大きな穴があった。これが遺構だとしたら、水を貯めて置くための施設であったのではないかと想像されるが、近代の作事かもしれず、なんとも言えないところである。

 ここから北側に降っていくと、2段のテラス状の郭を抜けて3郭の所に出る。ちなみに3郭から西側に降っていくと、数段の郭があり、その先に畝状竪堀群が見られる。

 3郭の先には深さ6mほどの大きな堀切がある。これを昇り降りするのは大変なのだが、ありがたいことに、ここに竹束で作られた橋が設置されており、そのまま通っていけるようになっている。ただし、竹はやや古くなっていた。あまりに古くなると、人の重さを支えきれなくなって折れる可能性もあるので、ちょっと注意が必要である。

 堀切を渡ると正面には1郭の城塁が見えてくる。右手に回り込んだところから登ってみる。すると縁部に石積みがあるのに気が付いた。この城には土留のための石積みがあちこちに設置されている。

 上がったところが1郭である。長軸30mほどの郭で、何棟もの建造物を建てられるだけのスペースがある。といっても、城内で主な郭は、1,2,3くらいなので、城全体としての規模はあまり大きなものではない。1郭の南側には土塁が盛られており、南側からの防御を重視していることが分かる。

 1郭から降りて行ったところには巨大な堀切がある。一見、谷のように見えるほどのもので、尾根筋を分断するためにかなり大規模な工事を行ったことが分かる。その先にはさらに3本の堀切があって、後は天然の尾根となる。

 吉良城は、それほど規模の大きな城郭ではないが、1つ1つの遺構が鋭く、要害性の高い城郭であったと言える。

南側から遠望する吉良城。ここからの比高は140mほど。 保育園の脇の道を進んでいくと、城址への案内板がある。
山道を登って行くと最初に到達する2郭南側下の腰曲輪。 2郭先端部には祠が祭られている。
2郭の西側にある大きな穴。井戸関連のものであろうか。 3郭から1郭方向に向かう途中の堀切には竹で作られた橋が架けられている。
側面部から堀切を見たところ。 1郭側面部の石垣。
1郭内部。南側の土塁。 同じく1郭内部。
北側の尾根続きには4重の堀切がある。1重目jは非常にでかい。 後は深さ5mほどのものが3本続いている。
3郭から西側の段郭に降りていくと、その先に畝状竪堀を見ることができる。
 吉良城は、吉良氏の居城であった。吉良氏と言えば、足利氏族の三河吉良氏を想像してしまうのだが、こちらの吉良氏は、源希義を祖先とする一族だというので、同じ源氏ながらも出自は違っている。

 それにしても源希義とはなんとマイナーな・・・・。源義朝の子供と言えば、悪源太義平を始め、次郎朝長、三郎頼朝、六郎範頼、七郎阿野全成(今若)、八郎義円(乙若)、九郎義経(牛若)など著名人が多いのだが、五郎希義は、四郎義門と並んで、もっとも知られていない人物であろう。

 希義は、平治の乱の際に捕らえられて、どういうわけか、土佐に配流となった。その後は土佐の冠者と呼ばれるようになった。治承4年、兄源頼朝が関東で反乱を起こした際に、彼もそれに同調しようとしたのであろうか、警戒された平氏に追討令を出されて、殺害されてしまうことになる。まったく活躍する場を持たなかったゆえに、歴史上無名の人物になってしまったのである。もし生きていれば義経とともにある程度の活躍ができたのかもしれないが、平氏の勢力に近い西国に配流されていたことが運命の分かれ道となってしまったようだ。

 吉良氏が本当に希義の子孫であるのかどうかはっきりとしないが、かつて土佐に流された名族の血を引いていると称することが、地域での勢力拡大に役立っていたのかもしれない。

 吉良氏はこの地域で勢力を伸ばして、戦国期には土佐七守護の1人に数えられるほどの勢力となっていた。

 天文9年(1540)、この地域での勢力拡大のため朝倉城を築いた本山氏は、次第に吉良氏を圧迫し、奇襲を行って吉良氏を滅亡させた。それ以後は本山氏の持ち城となる。

 その後、永禄年間になって長宗我部元親が勢力を延ばしてくると、本山氏と長宗我部氏との対立が激しくなる。永禄6年(1563)、長浜の戦いで本山氏を破った長宗我部軍が侵攻し、本山氏はこの地域から撤退する。吉良城も長宗我部氏の勢力下におかれた。

 長宗我部元親は、弟の親貞に吉良氏の跡を継がせ、吉良城に入城させた。ところが、その子の親実は、元親の怒りを買い、切腹させられることになり吉良氏は再び滅びた。

 その後の吉良城は長宗我部盛親に与えられたともいうが、ほどなく廃城となったものだろう。


































大竹屋旅館