愛媛県松野町

*参考サイト  ちえぞー!城行こまい  城郭放浪記

河後森(かごのもり)城(松野町河後森)

*鳥瞰図の作成に際しては、『河後森城発掘報告書』および現地案内板を参考にした。

 河後森城は、JR松丸駅の南側にそびえる比高100mほどの城山全体にわたって築かれている。城山は風呂ヶ谷を囲むようにして馬蹄形に長く展開しているため、非常に広大な城域を誇っている。規模はだいぶ違うが全体構造は粕尾城とよく似ている。

 しかし、登り口がよく分からない。松野町には詳細地図がないらしくて、ナビでも城の付近の道は描かれていない。それでも「確か登城口は松野西小学校の東南側で、風呂ヶ谷という谷戸部に入り込んでいったところだったはず」という記憶を頼りにして、小学校の脇をめぐって、谷戸部を目指す。

 すると、谷戸部入口付近に駐車場のようなものが見えてきた。てっきりこれが河後森城の駐車場かと思って、そこに車を置いて脇からの道を上がっていった。ところが山頂に来ても城郭遺構はなく、尾根続きではない向かい側の山に復元建造物のある10郭が遥かに見えている。

 どうも違った山に登ってしまったらしい。そこで10郭に上がっていく登り道はないかと周辺を探してみたのだが、よく分からなかった。実際にはここからさらに奥に進んだ「本当の」風呂ヶ谷内部に駐車場があり、登城道もあったらしいのだが、そこまで行かなかったのである。しかし、実際に城を一回りするには、風呂ヶ谷内部から上がっていくのが一番効率的だと思うので、ここを訪れる人は、とにかく谷戸内部を目指した方がよいと思う。

 結局、風呂ヶ谷からの登り口がよく分からなかったので、松野西小学校のグランド脇の登り口から上がっていくことにした。ここからも郭内には10分ほどで到達できる。駐車場はないが、辺りの道は広いので、路肩に停めておいても問題はなかろう。

 登っていくと道が二股に分かれていた。まずは整備された10郭を見たかったので、道を右手に進み6郭の所に出た。見ると背後の5郭の切岸が垂直に迫ってきている。この城の切岸は本当に垂直に近く、草木も生えていないので、直登は不可能である。6郭の城塁を下に降りることもできない。しかし、よく見れば、6郭の東側の脇から下の郭に続いてく道が付けられている。それを進んでいくと、すぐに10郭が見えてきた。

 10郭は尾根の東側先端部にあり、主郭部からはだいぶ離れているが、先端で目立つ位置にあるせいか、この郭は整備され、復元建造物も建てられている。復元されたのは馬小屋と作業小屋がドッキングされたような建物である。

 この郭は全面の切岸も往時の状態に復元されている。「危険 立入禁止」と書かれたロープが張られているので何だろうかと思って近づいてみると、それは垂直切岸であった。なるほど、この切岸から落ちてしまったら、大けがをしてしまいそうである。

 10郭の北側からも登城道が付いているらしく、9郭との間の虎口に城門が復元されていた(ただし、どこまで下れるのか確認していない)。

 10郭からは正面に新城が、背後の高い所に本城地区がよく見えていた。そこで今度は本庄地区を目指して、先ほどの道を上がっていった。

 途中の3郭と4郭との間には深さ5mほどの堀切が掘られている。この堀切は鋭いだけではなく、堀底部分が非常に狭く削られているのが印象的であった。堀底部分は、幅が30cmくらいしかない。こんなに堀底幅の狭い堀切も初めてお目にかかった。あるいはこの地域の中世城郭の特徴でもあるのだろうか。

 ここから城塁側面を上がっていくと2郭である。その先の堀切越しに1郭が見えている。1郭の手前には城門の跡もあり、そこには虎口の石積みが残されていた。

 1郭には建造物の柱穴が分かるように配置されたコンクリート床が敷き詰められている。これを見ると、1郭には3棟の建造物が存在していたようである。城主の居所であろうか。伝承では、河後森城の天守は宇和島城の月見櫓として移築されたという記事が『不鳴条』や『宇和旧記』といった記録に見えるというが、天守があったのは本丸ではなかったようである。というか、この城に実際に天守建築などが存在していたのであろうか。

 本城地区から降っていくと、古城となる。さらにそこから東南に尾根を回り込んでいくと新城に達する。遠目に見たところ、新城も整備されているようであるが、この日は夕方が迫ってきていたこともあって、ここで引き返すことにした。

 河後森城では登城口を探すのに苦労してしまったが、遺構はなかなかすばらしく、一見の価値がある城郭である。馬蹄状に長く延びた尾根に多数の郭を配置するなど、非常に特徴的な構造をしており、国指定史跡に認定されたのもうなずける。

 この城全体の構造からすると、風呂ヶ谷の内部の谷戸部こそが城の真の中心部であったようにも感じられる。城主居館はここにあったのではないだろうか。

風呂ヶ谷入口辺りの道路から見た10郭の城塁。すぐそこに見えるのだが、登り口がよく分からない。 結局、松野西小学校のグランドの脇にある登城道から登っていくことにした。ここから10分ほどで城内に入れる。
5郭辺りの城塁。この城の切岸はとにかく鋭く、直登はまったく不可能である。 郭群の脇の道を通って10郭を目指す。
10郭を上から見たところ。よく城の本などで紹介されているアングルである。 10郭に復元された建造物。
10郭東側の城塁。まさに垂直切岸であり、落ちたらただではすまないであろう。 10郭虎口に復元された城門。
続いて1郭方面を目指す。写真は3郭と4郭との間の堀切。堀底幅が30cmほどしかないのが珍しい。人一人が立って歩くのにも難儀するほどである。 2郭から1郭方向を見たところ。堀切が見えている。
1郭虎口脇に築かれている石垣。ここにちゃんとした城門があったのであろう。 1郭内部。3棟ほどの建造物があったようである。3棟とも天守ではなかったようだ。
1郭から遠望した10郭。かなり距離がある。 同じく1郭から遠望した新城。10郭のさらに奥にぞびえて見える。
両者を同時に遠望した所。輪を描くようにぐるりと曲輪が配置されているのが独特の構造である。 1郭北側下の城塁。
 河後森城の建造は古く、鎌倉時代の建久7年に、あの有名な渡辺綱から6代目に当たる渡辺源兵部少輔源連という者が河後森城に入城したという記録があるという。だが、これはあまりあてにならない話である。とはいえ、後に渡辺氏の代々の居城となったことは確かである。

 戦国期、渡辺氏は、宇和郡で勢力を誇っていた西園寺氏配下では最大の豪族であり、1万6千石ほどの所領を有していたという。その渡辺越後守政忠には男子がなく、土佐中村城の一条氏から次男を養子に迎えた。これが渡辺教忠である。

 長宗我部氏は一条氏を滅ぼし、さらに伊予へと侵攻してきたが、渡辺教忠は、長宗我部軍との徹底抗戦を主張していた。しかし、そのことで家臣とは意見が対立してしまったようで、後に教忠は家臣に河後森城を追い出されてしまう。天正9年(1581)頃のことである。

 代わって河後森城に入城したのは、芝源三郎であった。芝氏は長宗我部氏と通じて、家の安泰を図ったのである。しかし、後に秀吉の四国攻めに遭い、長宗我部勢力が伊予から駆逐されると、芝氏も河後森城から追放された。以後、河後森城は豊臣系大名の支配下に置かれることとなる。





































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