松山城(愛媛県松山市丸ノ内)

 *現在の松山城天守は三層であるが、加藤嘉明の築城当時の五層天守をイメージして鳥瞰図を描いてみました。

 松山城は私にとって思い出深い城である。06年12月28日、実に久しぶりにこの城を訪れることができた。思えば20数年前、その時は私と結婚前の嫁さんと二人で松山城にやってきた。そして今回は、当時はもちろんまだ生まれていなかった娘の運転する車でここにやってきた。20年前には生まれてもいなかった子供が車の運転をすることもできるようになって私をここに連れてきてくれた。松山城そのものは今も昔も変わってはいないが、私自身はずいぶん変わってしまったようだ。このように子供を物差しにして考えてみるにつけ、時の経つのは実に早いものだとひしひしと感じてしまうのであった。

 松山城を訪れるルートはいくつかあって、多くの人は、城址のある山の北東部分にあるリフトかロープウェイに乗ってやってくるのだと思う。しかし、城山そのものは比高100m程度のものであり、山麓から歩いても10分ほどで山上部分に到達することができる。今回は整備が進んでいる二の丸庭園の脇辺りから登っていったのだが、これが本来の登城道であり、二の丸庭園の下には無料駐車場もあることから、このコースから登るのがお勧めである、といっておく。

 城は山上の部分と、山麓の部分の2つから成っている。平地にそびえる独立峰を城内に取り込むといった形式は、徳島城、丸亀城などと共通しているが、あるいはそれは四国という地形的な共通性によるものであるのかもしれない。松山城の場合は、山上の部分全体が本丸、山麓の居館部が二の丸、さらに政庁や侍屋敷などが置かれていた広大な平場の部分を三の丸と呼んでいる。実に大雑把な区分の仕方であり、山上の複雑に組み合わされた郭がすべてで「本丸」というのも、なんともざっくばらんな印象である。

 山上の本丸部分にはかなり多くの建造物があり、枡形の構造、何重にも登城道が折れ、いくつもの門を通り抜けないと到達できない天守など、山城とはいえいかにも近世城郭らしく、技巧を凝らした構造によって形成されている。しかし御殿のような居住用の建造物は存在していなかった。その代わりといってはなんだが、他の現存天守とは異なり、天守内部には天井板を各階にきちんと設け、床の間などもあり、居住もできるように意識して造られている。場合によっては山上に住むことを城主は考えていたのかもしれない。もっとも、山上の部分が平時に使用されることは実際にはほとんどなかったのではないかと思われるが。

 山麓の二の丸が城主の居館であり、ここに御殿や庭園が営まれていた。二の丸は山麓部分とはいえ、高さ10mの高石垣と水堀によって囲まれており、防衛上かなり堅固な場所であった。

 二の丸は現在、二の丸庭園として整備されている。ここを散策していて一番目立つのが、大井戸の跡である。井戸といっても、長軸20m近くもある長方形の巨大なもので、深さも9mほどある。井戸というよりも巨大な貯水池といったイメージが合っているようだが、このようなでかい井戸はなかなか見ることができない。よほど水を蓄えておく必要性があったのだろうか。それとも火事がそれほど心配だったものだろうか。

 山上の本丸とこの二の丸との間が、きちんと石垣による城塁で結ばれているのもこの城の特徴である。これによって山の斜面部分までも城内に取り込んで、山中を歩いて城内に侵入されることのないように気を遣っている。このような平山城において、ありそうで意外とない構造物である。

 二の丸のさらに下が三の丸、さらに堀によって囲まれた広大な城域が堀と土塁によって形成されている。山上の本丸、山麓の二の丸だけでは城の広さはたいしてないのだが、この三の丸部分を含めると城域は非常に広大なものとなる。平和な江戸時代には、この山麓部分が城の機能の中心であったと思われる。

 とまあ見てくると、城の実質的な中心部分は山麓にあったようだが、それでも山上の遺構はとても見ごたえがある。これだけの現存建造物を有しているということでは、姫路城に次ぐ城といってもいいだろう。なかなか見ごたえのある城である。

昔来た時の写真。城は変わっていないが、こちらはずいぶん変わってしまった。 外郭の堀。石垣は使っていないが幅は30mほどもあり、とても広い。
三の丸から見た二の丸の石垣と山上の櫓群。松山の町のどこからでも、山上の建造物を見ることができ、城下町だということをいやがうえでも印象付けられる。 二の丸の高石垣。この下が無料駐車場になっている。ちなみに駐車場になっているのは図の水堀部分である。
二の丸他門櫓越しに見た天守櫓群。山の上までは比高100mほどである。 二の丸御殿はこのような配置になっていたらしい。藩主の平素の邸宅はここであった。
二の丸の現状。 二の丸に残る大井戸跡。これはまたでかい! こんなでかいのは、他には石垣山の一夜城くらいでしか見たことがない。火災時のために貯水槽であったという。
二の丸から山上に向かう道の入り口。これが本来の登城道であったという。 10分ほどで山上の郭までやってきた。大手門辺りから太鼓櫓を見たところ。登城道は何度も向きを変えながら進入するような構造になっている。
太鼓櫓の下のUターンしてこの門をくぐらなければならない。 その先が筒井門である。この門の右側には隠れ門がある。どうして門が2つ並んでいるか。1つは不浄門のようなものであったのだろうか。
筒井門をくぐると、やっと太鼓櫓の真下に出る。 太鼓門と巽櫓。
太鼓門を上がって天守櫓群を見たところ。この日、台風のような風が吹いていたので、山上は砂埃がひどいし、油断していると吹き飛ばされそうになってしまう。 山上の本丸から瀬戸内海方向を見たところ。景色はすこぶるよい。
天守曲輪への入り口。いくつもの門をくぐらないと天守には到達できないようになっている。 まず1つ目の門。
1の門をくぐって左に曲がると二の門がある。 さらに三の門をくぐってやっと天守群の内側に入り込める。そして鉄扉をくぐるとついに天守地下蔵に到着する。
天守群内部から見た大天守。築城当時は5層天守がそびえていた。 天守群から西側下の乾櫓門を見たところ。
天守渡り廊下内部。 小天守から見た野原櫓。
小天守から見おろす二の丸と三の丸。中央やや左側が二の丸、グランドや役所になっているのが三の丸である。 天守最上層から、本丸内部を見たところ。
天守最上層。 乾櫓門から西側の小天守を見たところ。
乾櫓。 乾櫓門を下から見たところ。
(以前の記述)松山城は関ヶ原後に加藤嘉明によって築城された。当初の天守は五層あったと言うが、その後二度建て替えられ、現在の天守は、幕末の安政5年(1853)に完成したものだ。本丸には、ロープウェイで行こう。現在は2の丸等の復元工事が行われている。2の丸の堀周りは散歩するのにいいところだが、蓑虫がやたらと多いので、嫌いな人は注意。




湯築城(湯月城・松山市道後公園)

*鳥瞰図の作成に際しては、現地のパンフレットを参考にした。

 日本最古の温泉として知られている道後温泉の入り口に道後公園があるが、これが湯築城の跡である。松山市といえば、なんといっても松山城が著名であり、整備も進んでいるのだが、同じ市内にあるこの城も復元整備が行われ、資料館が置かれしかも無料で開放されている。観光に有意義な松山城だけでなく、中世城郭の湯築城までもこのように整備・公開しようという姿勢には非常に好感が持てる。

 ところで、日本城郭協会選定の「日本名城100選」には愛媛の城が5城と突出して多く選定されており、その中にはこの湯築城も入っている。どうして湯築城が100名城に選定されているのか?と疑問に思っていたのだが、国指定史跡に指定されたことに加え、このように復元整備事業が地道に行われていることが評価されたのであろう。

 城の構造は非常にシンプルで、おそらく原型は、比高20mの城山の上のいくつかの削平地によって形成された山城であったのだろう。その後、内堀が掘られ、さらに戦国末期になって外堀が掘られ武士の居住区が整備されて、現在見られるような城の形態が完成したのだと思われる。

 城の北側や東側は公園化などによってだいぶ改変されているが、南側部分が復元区域として整備されている。この区域の南北には外堀と内堀の土塁が巡らされている。この土塁、高さ3m、基部の幅が7mほどもある実に重厚なもので、まさに戦国末期の城のもの、といった印象を受ける。この区域は特に防御上重要であったらしく、内堀に面した部分にも土塁がしっかりと築かれているのが特徴である。そういう意味では、山城の部分からみても独立性の高い区画であったということが分かる。

 西の搦め手(市電の道後温泉駅側)から公園内に入るとすぐに無料の資料館があり、そこで展示物を見、パンフレットをもらうことができる。資料館の中には大量のカワラケが、発掘された当時の状況てそのまま展示されていたりする。なるほど、このように出土するのか、と妙に納得するのであった。

 資料館に隣接してすぐに家臣団の屋敷が再現されている。掘っ立ての土間+一間だけの実に質素な建物だが、戦国末期でも、地方豪族の居館というのは、この程度のものだったのかもしれない。

 それを抜けさらに東に進むと庭園の跡があり、その先が上級武士の居住区となっている。しかし、建物の規模は家臣団のものとたいして変わらないといた印象を受ける。

 面白いのは、この辺りの南側に土塁内部を削って中から土塁の構造を見ることのできる展示があることである。こうして内部から見ると、土塁の幅がいかに大きいかを実感を伴ってみることができる。

 話は変わるが、資料館で案内図をもらうと、その裏には5つのスタンプを押すスペースがついている。復元区域には5つの展示コーナーがあって、そのそれぞれにおいてあるスタンプをすべて押すと完成するという趣向である。5つのスタンプの色はすべて異なっているので、全部押すと見た目もよく、達成感があったりする。

 以前松山に来たとき、一番最初にこの湯築城に訪れた。「中世城郭にしてはなかなかいいじゃん!」と思って感動したのだが、その後松山城に訪れてしまうと「湯築城とは比較にならないなあ」と感じてしまったことを思い出した。今回は最初に松山城を訪ねてからここに来たので、同行した娘は「松山城と比べると小さいねえ〜」と言っていた。しかし、そんな比較をすること自体が無理な話で、単独で訪れたら、ここはそれなりに見所のある城なのである。

市電の道後温泉駅。観光地らしく瀟洒な建物である。このすぐ手前に城址がある。 北西側の外堀。きちんと循環させているのか、きれいな水である。
復元された家臣団屋敷の中では河野一族の会談が行われていた。 これが家臣団屋敷の外観。土間を合わせても二間しかない素朴な建物である。
築地を隔てて、別の建物を見た様子。 復元区域の北側の内堀。堀の外側にもしっかりとした土塁が積まれているのが特徴的である。
土塁の内部を見ることのできる展示室。なかなか面白い試みで、土塁が何層にも固められている様子を見ることができる。 復元区域内にあった土坑の跡。土坑の目的がなんであったのか、いろいろな説があるが、ここでは「ゴミ捨て穴」と明確に示してあった。なるほど、やはりゴミ捨て穴を見るのが、一番それらしいのかなあ。
城山の南端部はこのように岩盤むき出しになっていた。ここも実は岩山だったのである。それにしても、この天然の岩が、庭園の素材となって、風景に妙にマッチしている。 東側の外堀の様子。おそらく最も旧状に近い部分であると思われる。なかなか見事な水堀である。土塁も高い。
城山の1郭にある展望台から松山城を見てみた。あちらの方がスケールがでかいのはいたし方がないところである。 城山にはこのような石垣もあったのだが、これは後世のものであろうか。
 源平合戦で現時に味方したことによって、この地にその勢力を確立したのが河野氏であり、その河野氏の居城として湯築城は築かれたものである。河野氏は確実に勢力を扶植していき、戦国末期には、守護大名に準じるほどの規模となり、伊予最大の勢力となっていた。戦国期の河野氏は村上水軍や大内氏、毛利氏、大友氏らと同盟を結び、天文年間頃には河野通直によって湯築城の外堀が築かれ、城も整備されていった。

 その河野氏が没落したのは、一族の内紛による。通直には実子がなく、村上水軍から養子を得たが、それに反発する一族が反乱を起こした。さらにそこを長宗我部氏につけこまれて自滅、四国は長宗我部氏によって統一される。

 さらにその直後、秀吉による四国征討が行われることに成った。河野氏は降伏し、伊予は小早川隆景によって支配されるようになった。隆景の時代も、支配の拠点は湯築城であったと思われるが、隆景は上方に在住し、伊予に居住しないままに筑前に転封となった。

 その後、関ヶ原合戦によって伊予を得た加藤嘉明が湯築城に入場する。嘉明は松山城を築いて移り、湯築城はその長い歴史に幕を閉じることとなる。




海山城(今治市波方町郷字海山)

 海山城は旧波方町の中心部にそびえる標高155mの海山と呼ばれる山にある。この城も町のどこから見ても目立つ城なのだが、ご多分にもれず模擬天守、というか展望台である。

 ところで、この展望台、町のどこからでも見える割には登り口が分かりづらい。実際、あちこち車で走り回ってみたのだが、どこから登ればいいのかなかなか分からなかった。ナビにも登る道は載っていない。そこで地元の人に聞いてやっと分かったのだが、西の運動公園の方からではなく(こちらから道がついているように遠目には見えるのであるが、これは車が上がれる道ではなかった。歩いて登るのならこちら側からでもいいのだが))、北東側の住宅街の辺りから上がれるのである。住宅街といえば、城址の東山麓には「海山城ハイツ」というまぎらわしい名前の住宅街があるので気をつけよう。「海山城」というのだから、この住宅街の奥から上がれるのかと思って探し回ったのだが、この住宅街の方からは登れない。国土地理院の地形図を見ると、北東側から登る道がちゃんとついているので、車の人はここから行くのがよいであろう。展望台のすぐ下の駐車場まで上がることができる。

 さて、山頂に上がってみると、そこに城郭風の展望台があった。遠くからはかなりちゃんとした天守風に見えたのだが、実際は思ったよりも小さなもので、しかもなんだか重力に押しつぶされたような平べったい形をしている。とはいえ、山そのものが高い場所にあるので、展望台に登るまでもなく、ここから見える景色は絶景である。

 この山から瀬戸内方面を見ると、そこは村上水軍の根拠地となった島や城がひしめいているのが分かる。来島城、能島城、や伯方島など、遠くには因島もなんとなく見える。それらが青い海に浮かんでいるさまは、まさに絶景の名にふさわしい。さらに、それらの島々を縫うようにして近代的な来島大橋が架かっている。この橋も風景に違和感なく溶け込んでいるのである。まさに遠見をするための山であるといえる。

 ところで、この山は現在は海山というがかつては遠見山(おみやま)といっていたという。これは遠見番所が存在していたことに由来する地名であるという。大宝律令の時代から、この山には番所が置かれ、時によっては烽火が上げられていたのだということである。

 中世初頭には在地勢力が養老地区の「別台」というところに館を構え、遠見山は詰めの城として意識されていたという。やがて村上水軍の1方の勢力であった来島氏が勢いを増してくると、この城も来島氏の支配下に置かれることとなった。その時代も「遠見番所」として活用されていたとのことである。

 関ヶ原合戦の後、来島氏が当地を去ると、海山城は廃城となったという。以上は現地案内板を参考にして書いたものだが、そこには現在、遺構としては犬走りが見られるだけだという。実際、削平地はあれども、城らしい遺構はほとんど見ることができない。急峻な山の上、つまり天然の要害の地にあるのだから、それほど人工的な造作を必要としなかったということであろうか。それでも、展望台のある所が1郭、その下の公園が2郭、駐車場になっている部分が3郭というように認識できるから、どうしてどうして、それなりの規模の山城といっていいものであった。

西側のスポーツ公園から見上げた海山城。すぐそこに見えるのだが、比高150ほどはある。 1郭に建つ展望台。ぺちゃっとつぶれたようなデザインが特徴的である。
下の2郭を見下ろしたところ。 遠く瀬戸内の島々を一望することもできる。それをつなぐようにして来島大橋が見える。この後、あの橋を通って本州に渡っていった。景色はいいのだが、それにしても寒い! 身体が芯まで凍えてしまいそうである。




木浦城(今治市伯方町木浦字島ノ神)

 木浦(きのうら)城は、伯方島にある古城である。伯方島にはこの他にもいくつかの古城があるが、ここは現在「ふるさと歴史公園」となっていて、古城の雰囲気を残した建造物がいくつも建てられている。城址にある模擬天守というのは枚挙にいとまがないが、ここの建造物は模擬とはいえ、無骨でなかなかいい雰囲気を出している。こういうのはけっこう好きで、いつか訪れてみたいと思っていた。

 木浦城の模擬天守はけっこう目立ちそうな建物なので、伯方ICで降りたらすぐに目に入ってくるのかと思ったのだが、実際はなかなか見えてこない。旧伯方町役場付近まで来てやっと正面の奥に見えてきた。けっこう奥まった位置にあるので、西側からだとなかなか見えてこないのであった。しかし、東側の海上からならばかなり遠くからでも見えるはずである。

 城のあるのは、比高70mほどの「島ノ神」と呼ばれる山である。「島ノ神」というくらいだから、古来、島の人たちに信仰されてきた山なのであろう。さっそく車での登り口を探したのだが、ここもまた海山城同様に、登り口が分かりにくかった。しかし、国土地理院の地形図に載っているごとく、北東側から車で上がれる道がついているので、それを探せばよい。登り道を探している途中で、漁村の中に入り込んでしまったのだが、道が狭くてけっこうややこしかった。

 城はそれほど大規模なものではなく(とはいえ、「城郭体系」によると島嶼の島では最大級であるとあるから、この辺りの城の中では大きなものなのかもしれない)、歴史館の建つ1郭と、駐車場になっている2郭、それにその下の腰曲輪、それだけである。しかし、この狭い区画に、所狭しとばかりに復元建造物が建っている。もちろんすべて模擬ということであろうが、ここの建造物はそれっぽい雰囲気を出しているところがいいのである。駐車場から1郭に入るところにある櫓門や、物見のための櫓など、まさに中世城郭の雰囲気を伝えているといっていい。模擬天守こそは、いかにも模擬風なもので、実際にこれほど立派なものはなかったのではないかと思われるものなのだが、全体を下見板張りで覆った無骨なデザインは、かなり個性的なものである。模擬天守といえばだいたいどの城にいっても似たようなものばかりが多いのであるが、この城と同じデザインのものはよそでは見たことがない。誰がデザインを担当したのかは知らないが、なかなかいいセンスだと思う。

 この城もとても眺望がよい。伯方島は、今治から尾道に向かう諸島の中でもちょうど中くらいの位置にあるので、どの方向を向いても瀬戸内の諸島が見えるのである。特にすぐ南には島自体が城砦であった能島城なども見えている。

 木浦城のあったところは、古くから高地性の集落が営まれていたところであったらしく、城の南端部には岩ヶ嶺古墳の跡がある。「跡」といったのは、すっかり盗掘されてしまい、現在では石棺がむき出しになってしまっているからである。

 木浦城の城主は紀氏であったという。とはいえ紀氏は承久の変の際に後鳥羽上皇側に立って出陣し、幕府軍に敗れて滅亡してしまったというから、その後は、村上水軍のいずれかの一族がこの城に寄っていたものであろう。

伯方の町の中心部から見える城山。比高70mほどの独立山である。 駐車場に車を留め景色を見てみた。非常に眺めのよい城である。
これが資料館。模擬天守ということになる。 入り口にある櫓門。このようなものは、実際に中世城郭にあったのではないだろうか。
物見櫓。こういうのも中世城郭にあったのではないかと思われるが、こちらは鉄骨で汲まれているのがちょっと興ざめである。貯水槽をそれらしくみせようとしているのだろう。 岩ヶ嶺古墳。こんな山城の上にも古墳があるものなのだ。すでに盗掘されて石棺がむき出しになっている。




























大竹屋旅館