徳島県美馬市

*参考資料 『日本城郭体系』

*参考サイト  城郭放浪記

脇城(虎伏城・美馬市脇町大字脇町1826)

*鳥瞰図の作成に際しては『図説中世城郭事典』を参考にした。

 脇城は秋葉神社の背後にそびえる比高60mほどの台地先端部に築かれていた。この台地は東側は台地続きになっているが、特に南側は鋭い急斜面となっている要害地形である。

 地図を見ると、城址にアクセスするには秋葉神社から道を登って行くのが一番手っ取り早く見えるのだが、ネットでの情報によると、この道は車ではあまり通りたくないような道であるらしい。

 そういう言うわけで、車で城址まで到達するには、徳島自動車道の方から来る道を進んできた方が無難である。こちらからの通であったら、運転していて特に不安を感じることもない。山麓から城址への道をレンタカーのナビに入れたら、ちゃんとその道を案内してくれた。そのルートでの台地への入口はこの辺りであった。

 高速と台地の縁を進んでいくと、やがて、3郭入口の堀跡の所に出る。ここから道は2つに分かれており。まっすぐ進むと3郭にある民家の所に出る。台地南側に方に進んでいくと、2郭との間の堀切の所に出る。どちらを進んで行っても2郭手前の堀切に出るのは変わりないのだが、上の民家の方からアクセスする道はちょっと不安なものであった。台地を南回りに進んでいく道の方がしっかりとしている。

 この道で2郭の堀切の所まで行くと、そこに脇城入口を示す案内が設置されていた。その辺りの路肩脇に車を停めて置けそうなスペースがあったので、車はそこに置いて、後は歩いて1郭方向を目指していく。

 2郭南側の切り遠いになった部分を抜けると、やがて土橋が見えてくる。その脇が1郭との間の堀切であるが、この堀切を見て、その規模が大きいのにびっくり! 深さ6mほどだが、幅は10mほどもあるだろうか。徳島の中世城郭でこれだけの規模の堀切を有している城は初めてである。ただし、堀切内部は竹ヤブになっているので、その構造は把握しにくい。

 土橋を越えたところが枡形状の構造になっていた。ここを抜けると1郭内部である。1郭の北側には横堀状の部分があるらしいので、それを見ようと思って郭内部を北側に進んでいくと、いきなり目の前に深い穴が現れた。

 井戸である。見ると石組みのかなりしっかりとしたものである。直径は2mほどもあろうか。それがヤブの合間にポツンと開口しているのである。井戸の周囲にはロープも柵もなく、これは危ない。うっかり進んで行ったら落ちてしまいかねない。そしていったん落ちてしまったら、自力で這い上がることはまず不可能であろう。

 それを抜けると、確かに城塁の下に横堀状になっている部分があった。しかし、横堀のように見えるのは長さ8mほどだけであり、本当に横堀なのかはっきりしない。あるいは虎口の一種かもしれない。

 虎口と言えば、1郭先端部分も手持ちの図面では枡形形状に描かれている。これが実際に枡形であるのかどうか確認しようとして進んでみたのだが、あまりのヤブのひどさにあきらめて引き返さざるを得なかった。

 このように構造的に見てみると、1郭は2か所、あるいは3カ所に枡形構造を有している。設計は新しく技巧的な城郭と言っていいだろう。規模も1郭だけで方形居館ほどはある。2郭3郭も広大であり、脇城はかなり多数の軍勢の集結を意識した城郭である。徳島県の中世城郭では最大級のものである。どうしてこれほど規模が大きいのが奇異な気がしたのだが、この城は阿波9錠の1つとして蜂須賀氏によって改修されているようである。近世城郭として手を入れられたので規模が大きくなり、技巧的にもなったのであろう。おそらく中世段階では、1郭だけの小規模な城郭だったのではないだろうか。

山麓から見た脇城。下からの比高は60mほどもある。 入口に案内表示のあるこの部分が2郭東側の堀切となる。この辺りまで車で来ることができる。
1郭の堀切。深さ6m、幅8mほどもある大規模な堀切なのだが、ヤブがひどくて形状を把握しにくい。 1郭内部にある井戸。石組みの大規模なものであるが、周囲にロープも何も張られておらず、ぼんやり歩いていると危険である。
井戸の先の下にあった横堀。 3郭堀切跡と想定されている辺りの部分。
 戦国時代初期の頃、脇権守という人物が居館を構えたのが、脇城の始まりであるという。

 天文2年(1533)、三好長慶が脇城を改修し、ここに三河守兼則を入れて守らせた。現在の脇町新町、岩倉清末などは、この時に建設された町であるらしい。

 弘治2年(1556)三好長慶は京都で武田信玄の異母弟信顕と会い、その後信顕は阿波に来て脇城主となったという。意外な人物が意外なところに出てくるのに驚いてしまう。こんなところに武田氏の城主がいたとは驚きである。

 天正7年、長宗我部勢がこの地域に侵攻してくる。長宗我部勢は重清城を攻め落とし、その勢いで脇城・岩倉城にも攻め寄せてきた。長宗我部勢の攻撃はすさまじく、両城は長宗我部勢に降伏することになる。しかし武田信顕は勝瑞城にひそかに書状を送り、「われらは今心ならずも土佐勢に従っているが、土佐勢は明朝、本国に引き返すので、その際に供に追撃して土佐勢を破りたい」と告げた。しかし、これは土佐勢による謀略であった。

 翌朝、阿波勢は矢野駿河守・森飛騨守らを大将にして進軍してきたが、岩倉城の下に来たところで、脇城、岩倉城に潜んでいた土佐勢によって挟み撃ちに遭い、多数の死傷者を出して敗退した。これが俗に「岩倉合戦」と呼ばれている合戦である。この敗北によって阿波勢は一揆にその勢力を失ってしまうこととなった。

 天正10年、織田軍による四国入りが行われることになり、三好勢の誘いによって、脇城・岩倉城は土佐勢を裏切って、再び阿波勢への帰属を決めた。これで計画通り四国入りが行われたなら、四国は織田軍によって席巻されることとなったであろうが、6月2日、突然起こった本能寺の変によって信長は自害、織田軍の四国入りは沙汰やみとなってしまう。

 そこで、再度勢いを取り戻した土佐勢は、裏切った脇城・岩倉城の攻撃にかかった。両城は激しく抵抗したが、8月22日、脇城は落城してしまった。

 武田信顕は城を脱出して讃岐へと逃亡したが、土佐勢の追撃によって讃岐国大川で討ち死にした。また子供の信定も捉えられて自害した。

 完全に長宗我部氏に制圧された脇城に、今度は長宗我部親吉が城主として入城した。

 天正13年、秀吉による四国征伐が行われると、かなわないと見た親吉は城を捨てて土佐へ戻ろうとしたが、途中で土豪南源六父子の襲撃に遭い、全滅してしまった。

 その後蜂須賀氏が阿波の領主として入部すると、脇城には稲田植元が1万石で入城。阿波9城の1つとして整備されるに至った。、




岩倉城(美馬市脇町田上684−2)

 岩倉城は脇城の西方1kmほどの所にある。徳島自動車道を挟んで、真楽寺の南側にある比高30mほどの台地上である。したがって城址にアクセスするためにはまずは真楽寺を目指すのがよい。

 真楽寺方向に北上していくと「←岩倉城」といった案内が出ている。案内は要所要所に出ているので、迷うことはない。案内に従って徳島自動車道下のトンネルを抜けると「←岩倉城 ここから徒歩で」と書かれた最後の案内がある。そこでその辺の路肩に車を停めて、後は徒歩で南側の台地に上がっていく。

 途中、4,3,2といった削平地が見られるが、いずれも小規模なものである。これらの郭の側面部に腰曲輪があり、そこを経由して1郭を目指していくことになる。すると1郭との間の堀切が見えてきた。深さ4m、幅6mほどの堀切である。さほど大規模なものではないが、この城ではこれが唯一の堀切である。

 その先を進んでいくと、腰曲輪から1郭に登って行く坂虎口が見えてきた。もっとも、この通路は後世開削されたもののように思われる。1郭にはコンクリート製の作業小屋のようなものがあり、これを建設する際に付けられたものなのであろう。

 このコンクリート小屋の背後には記念碑が建てられており、また前面には城主の墓と呼ばれる墓石がある。この辺りが1郭なのであるが、主郭であるというのに規模も小さく、あまり平坦でもない郭である。

 これだけである。もっと周辺部を歩けばさらに腰曲輪などがあるのかもしれないが、主要部にはそれだけしかなく、小規模な城郭であるに過ぎない。三好勢と長宗我部勢との攻防戦に登場する有力城郭であるにしては、その規模の小ささには驚かされてしまうほどである。しかし、中世の阿波の城郭なんていうのは、しょせん、この程度のものであったのかもしれない。


 『城郭体系』によると、岩倉城は戦時に取り立てられた砦のようなものであったという。鎌倉時代の文永4年(1267)、三好郡の平盛隆が反乱を起こした際に、阿波守護小笠原長房は、ここに城を築いて盛隆を攻撃し、平定したという。その後長房は池田に移っていくが、これが三好氏の祖先である。

 戦国時代に入って永禄年間、三好康長(笑岩)は阿波平定のため岩倉城に入城し、この城の改修を行った。しかし戦国期に改修を受けたにしては、あまりぱっとしない城郭である。

 その後の岩倉城は、脇城とともに当地域を支配するための拠点城郭となっていた。

 天正年間になると長宗我部勢との攻防戦が展開されるが、それについては脇城の所で述べている通りである。長宗我部勢の再度の攻撃にあって岩倉城は脇城とともに落城する。

 天正13年に、上方勢は岩倉城にも攻め寄せたが、戦後、脇城が蜂須賀氏の阿波9城に選定されたので、岩倉城はその必要性を失い、自然と廃城になって行ったのではないかと思われる。




南側から遠望する岩倉城。比高20mほどの台地である。 ところどころに岩倉城への案内が出ているので、これにしたがっていけばよい。この案内板から先は徒歩である。
1郭北側の堀切。 1郭の倉庫裏に建つ記念碑。
城主の墓。 現在の1郭入口。




重清城(美馬市美馬町城53−1)

*鳥瞰図の作成に際しては、現地案内板の図を参考にした。

 重清城は重清西小学校の北西500mほどの所にある。比高40mほどの台地上であるが、台地の先端部近くではなく、谷戸部をだいぶ奥に進んでいった先にあるのが立地上の特徴である。

 ナビの地図にも目印になりそうなものが掲載されていないので、台地上まで登った後、恐る恐る進んでいくが、やがて通の脇に案内板が設置されているのが目に入ってくるので、城址に到達したことが理解できる。

 このすぐ近くの道路脇には、なぜかトーテムポールも立てられている。こちらの方がはるかに目立つので、これを目印にしていってもよいかと思う。車も、このトーテムポールの脇辺りの路肩が広くなっているので、その辺に駐車させてもらうのがよいと思う。

 案内板の脇が虎口となっており、土塁を通って内部に進入していく。虎口脇にはすでに二重横堀が見えている。城塁は折れを伴ったもので、中央に高さ1mほどの畝状の土塁がある。とはいえ、城塁の高さは堀底からでも5程度であるから、それほどの防御力があるとは思われない。大軍で攻め立てられたらひとたまりもないだろう。

 郭内部に進入すると、周囲に土塁が廻らされているのがよく分かる。郭内部は長軸60mほどはあろうか。その中央には小笠原神社が祭られている。しかし、この神社、ほとんど崩壊寸前の肌寒い状態になっている。

 山の中の誰も人のこなさそうな神社が倒壊寸前になっているのは何度も見たことがあるが、ここはすぐ脇に民家もあり集落も近い。それなのに、こんな有様になって、修築をこなう気配もないということは、すでに地元のみなさんの信仰の対象外となってしまっているということであろう。小笠原と言えば、かつての阿波守護職であるが、近世に蜂須賀氏が入部して以降は、どうでもいい存在になってしまっているのだと思われる。

 また先端部には井戸もあった。この井戸は直径1mほどのものであるが、きちんと石垣で組まれたしっかりしたものであり、現在も水をたたえているようだ。

 城の西側は土塁だけであり、虎口を抜けた先にも腰曲輪的なスペースがある。また西側と南側には堀は存在せず土塁だけが残存している。

 もっとももともとこういう構造だったというはずはなく、城の南側にも、本来jは東側から連続する二重横堀が廻らされていたのであろう。しかし、そこには民家が建っているので、それ以前に埋められてしまったようである。

 これだけの郭である。城塁に明瞭な折れが認められ、二重の横堀が廻るなど、一見してしっかりとした構造を有した城郭ではあるが、先に述べたように、居館としてならいいが、実戦向きの強力な防御機能を発揮できるような城郭ではない。長宗我部勢に攻め込まれたら、ひとたまりもなかったであろうと思われる。

 重清城とはまた変わった名称の城であるが、『昔阿波物語』には「重清と申すは城を構えて人数を百ばかり持ちたる侍なり」とあり、最初の城主の名前であったという。しかし、この人物が実在したかも含めて、実際の所どうであったのか。はっきりしたことは分からないのである。





城址入口。右のトーテムポールが目立つので目印になる。 入口脇の二重堀切。
土塁上から見たところ。 東側城塁の折れ部分。
内部の北側には石組みのしっかりとした井戸がある。 南側の堀は民家となって埋められてしまっている。
南側の土塁。 城内の小笠原神社はすっかり荒れ果ててしまい、倒壊寸前である。
 現地案内板によると、重清城は、三好勢と長宗我部勢との間で3度にわたって争奪が繰り広げられた城であったという。

 初めて城を構えたのは小笠原長房の孫長親であったともいう。応仁の乱の頃の話である。その後代々小笠原氏が城主であったが、天正6年当時の小笠原(海原)長政は、白地城主大西頼包によって謀殺されてしまった。長政は正月の宴ということで招待され、酒の席で切られてしまったのらしい。そういうことがあったため、当地の小笠原姓の家庭では、現在も正月に酒を飲まないようにしているとのことである。

 この謀殺は、すでに長宗我部氏への帰属を決めていた大西氏が、重清城を長宗我部方に付けるための策略であったと思われる。その後の頼包は、讃岐にいた兄の覚養を長宗我部氏に帰順させ、重清城の城主とした。

 阿波勢にしてみれば、これは看過できることではない。長政の長子長定は十河存保とともに3千の兵を率いて重清城に押し寄せた。長定は「その城を持ちこたえることはできまい。われわれはもとは同族なのだから、争うのは無駄なことだ。城を明け渡せば、無事に池田に帰そう」と覚養に申し入れた。

 実際に、抵抗はできないものとあきらめていた覚養はそれを受け入れ、城を引き渡して、白地城に向かった。しかし、長定は約束をたがえて追撃し、三野町の吉野川のほとりで覚養を殺害した。こうして長定は父の敵を討ち、城をも取り戻したのであった。

 天正7年夏、長宗我部税は白地城を出立し、重清城の攻撃に向かった。一方重清城では、十河存保は3千の兵を率いて重清城に入城し、敵の襲来に備えていた。

 両軍は下の吉野川を挟んで対峙していたが、長宗我部税先方の大西上野介・久武内蔵助らが先方となって川を越え、阿波勢に襲い掛かった。十河存保は軍を支えきれなくなって後退し、重清城は長宗我部勢の手に落ちることとなった。

 これが長宗我部勢と三好勢との攻防戦であるが、そのうち最初の2回は実質的には大西勢と小笠原勢との攻防戦であったようだ。




三谷城(手倉城・美馬市穴吹町三島三谷938−1)

 三谷城は、国道192号線の南側に展開している山稜の中腹にある台地に築かれている。脇城・岩倉城・重清城など美馬市の主要な城郭が吉野川の北岸の台地に築かれているのに対して、三谷城は南岸の台地に築かれているのが位置的な特徴である。台地の比高は60mほどある。

 国道から線路を渡って南側に入り込むと、道は台地を上がっていく細くて急峻なものになる。そうした道をくねくねと上がっていくと、やがていかにも城塁らしいまとまった形の台地が見えてくる。これが三谷城の跡である

 案内板も駐車場も何もないが、車は入口の平場辺りに停めさせていただいた。『城郭体系』によると、この平場の辺りを「きとう庵」というらしい。「きとう」は「城戸」つまり城門を意味する言葉がなまったものである。またこの平場にはかつては池があったらしい。

 この平場の正面の高さ4mほどの城塁を登ると、もうそこが1郭である。

 1郭は長軸30mほどの多角形の郭である。かつてここには養鶏場があったらしいが、現在では取り払われており、コンクリートの床だけがその名残をとどめている。その先の2郭には鉄塔が建てられており、これが城址を目指す際の目印になる。

 1郭より西側に1段低く2郭がある。2郭は細長く延びた郭で、南側の下に腰曲輪が造成されている。

 この2つの郭が城の中心であるが、その他にも、東側の一段下の部分、さらに北側に段々となった畑も郭の跡である可能性はある。もっとも、段々畑は郭なのかどうか、判別しがたいところではあるが。

 城の南側が山側ということになるが、こちらには深い谷間が入り込んでおり、要害地形を成している。この谷は「ドンド谷」と呼ばれているという。

 このように三谷城は小規模な城館であるが、山側の背後を谷に守られ、正面は急峻な台地の斜面となっている。山の中腹にしては、城を築くのにまとまりのよい地形であり、それを利用して築かれた城郭である。



 三谷城の城主は塩田左馬助政幸であった。政幸は、北条時政の11世の子孫であったという。政幸は一閑斎と称して、岩倉城の三好康俊の家老を務めており、80貫を領有していた。

 天正10年、長宗我部勢が脇城・岩倉城の攻撃をしてきた際に、塩田氏も三谷城に篭って奮戦したが、結局落城してしまったという。



東側から見た1郭城塁。 1郭内部。かつては鶏舎があったようだが、現在はコンクリートの床だけが残されている。
2郭には鉄塔が建てられている。 1郭北側の鋭い城塁。































大竹屋旅館