高知県本山町

*参考資料 『日本城郭体系』 

*参考サイト  ちえぞー!城行こまい  四国の城郭探訪 

本山城(本山町本山)

 本山城は、十二か所神社の西側背後にある、比高100mの城山に築かれている。南側の高い山稜から延びている先端部で、地形図には標高371mの三角点の印が付けられている。

 城を訪れるにはまずは十二所神社を目指していくのがよい。しかし、本山町は市街地図がきちんとできていないらしく、googlemapやナビの地図にもこの神社が掲載されていないし、だいたい細い道が描かれていない。まずはこの神社を探し出すのが大変である。

 本山町役場の南側辺りの路地を走っていると、道の途中に本山城の大きな案内板が出ている。そこからさらに西に進んだ所にコミュニティセンターがあり、駐車場があるので、車はそこに止めて置くのが無難である。十二所神社に行くには、先の看板から50mほど進んで道が少しクランクしている辺りから南側への路地の急な坂を登っていくことになる。

 狭い道を走るのが平気な人はこの路地を抜けて、上の十二所神社のところまで車で上がって行くことも可能である。私はとりあえず神社まで車で上がっていくことにした。軽自動車ならば、どうということもない狭さだが、今回はワゴン車で行ったので、確かに狭い。特に神社に上がる手前の坂は両側が段差となっており、傾斜もかなり急である。やはり心配な人はコミュニティセンターに停めて歩いていく方が無難だと思う。

 神社には車が2台だけ停められるスペースがある。ところが、城山の山麓には墓地がたくさん造成されていて、墓参りに来る人も多い。この駐車場に停められなければ、山麓のコミュニティセンターの辺りまでまた戻っていくしかない。私が行った時は一台すでに車が停まっていた・・・・。

 ということで、なんとか神社下の参道まで来たが、そこから城への案内になるものが何もない。どこから上がって行けば良いのか迷ってしまうところである。

 神社に向かって右手を見ると、駐車スペースのすぐ先に水路を渡って山中に入る道が1つある。とりあえずその道を進んで、墓を抜けて奥まで突き当たるように行く。そうすると、山を登っていく石段と遭遇し、「←城山の森」といった案内を見つけることができる。Aの辺りである。

 ここまで来ることができれば迷うことはない。後はその山道をどんどん進んでいけば城内に達するようになっている。ここからの比高は50mほどである。

 ところで、Aの辺りから、下の墓地にかけて、数段の平場がありその周囲には石垣が積まれている。畑の跡かとも思われたのだが、まったく耕作されていた形跡が見えない。もしかすると、これらの石垣段も遺構で、家臣団屋敷のようなものであったのかもしれない。

 城の中心部近くなると、登城道の脇に石垣が見られるようになる。そこから上がって行ったところが3の郭である。3郭に上がると、南側正面に2郭の石垣が見えている。2郭の城塁は高さ6mほどあるが、一挙に6mの高さの石垣を築く技術はなかったようで、石積みは三段に分かれている。この石垣の西側部分に小規模な枡形状の窪みがあり、そこから石段を通って2郭に上がっていくようになっている。

 2郭の一段上に1郭があり、そこに城址碑が建てられている。といっても1郭は長軸10m未満の郭であり、郭というより、天守台に近い規模でしかない。市街地にあった本山城の案内板では、これを郭として認めず、図の2を詰ノ段、3を二ノ段、4を三ノ段としているようであった。その方が曲輪表示としては適当であったかもしれない。

 1郭の南側は高さ10mほどの垂直に近い切岸となっていて、そちらが尾根続きとなっている。この方向には尾根を分断する堀切があるのではないかと想像して、尾根基部を進んでいった。すると尾根は登りになり岩がごろごろしている。そこから少し降った所に浅い堀切状のものがあった。これがどうやら城域を区画するものらしい。堀切と言えば堀切なのだが、深さは1m未満で、まあたいしたものではない。そこから先には自然地形の平場しかなかった。ここで城域は終わるのであろう。
 
 脇を見ると、かなりの急斜面である。おそらく山の背後から敵が接近することは難しいと判断して、尾根部にはたいした防御構造を置く必要性はないと判断したのではないかと思われる。

 1,2,3郭の西側下に4の腰曲輪が入り込んでいる。この郭の南側には石垣を積んだ城塁があり、北西端には櫓台のような石積みがある。もっとも櫓台といっても、かなり幅が狭いものであり、実際に建物を建てるのは難しそうなものである。・・・と思ったのであるが、市街地にあった案内板の説明を後で見たら、これらは射的場の造成に伴って造られたものだという。いかにも城らしい石垣なのだが、城郭類似遺構というものであるらしい。

 本山城は、規模はそう大きくはないが、中心部には石垣がふんだんに用いられており、それなりによく造られた城である。もっとも、山間の地域領主であった本山氏にふさわしい程度の城であり、後に高知市内まで進出していった本山氏の勢力からすると、ちょっと物足りない城、というべき印象を受けるものでもある。

北側山麓市街地にある本山土居から遠望した本山城。山麓からの比高は120mほどある。 城址に行くためにはまずは十二所神社を目指す。写真ではそうでもないが、神社手前の道はかなりの急坂である。これを登った所の右手に車2台だけ停められるスペースがある。ここに停められればよいのだが・・・。
神社真下の鳥居から東側に進むと、山の方に入っていけそうな道がある。ここを進んで墓地の脇を通ってとにかく北側を目指すと、登城道の所に出る。 この矢印のある坂道の所に出たら、もう迷うことはない。後は、まっすぐ進んでいけば城内である。ここからの比高は50mほどである。
中腹の道の途中には、このように石垣が築かれた平場が何段にもなっている。畑の跡とも思われず、家臣団屋敷でもあったところであったように見えなくもない。 さらに上がっていくと、2郭に登る登城道の途中にある石垣の所に出る。
2郭の石垣。一度に高石垣を築くほどの技術はなかったらしく、石垣は三段構造となっている。 2郭の登り口。小さいながらも石垣による枡形形状となっている。
1郭入口。1郭は郭というよりは天守台程度のスペースしかない。 1郭の南側下に回りこむ。南側から見た1郭城塁。高さ10mほどの垂直切岸である。こりゃ登れないよなあ。
南側の尾根続きには分断を図るための堀切があるはずだと思い、奥に進んでいく。すると小規模ながら堀切のようなものが存在していた。しかし、明瞭なものではない。 再び1郭下に戻り、4の腰曲輪に降りていく。南側には石垣を積み上げた防壁が築かれていた。これは射的場に伴うものであろうか。
2郭城塁の下の方には、やはり石垣が積まれている。 2郭南端にある石垣による櫓台らしきもの。これも射的場に伴うものらしい。
 本山氏は古い氏族で、その出自は、清和源氏吉良氏庶流の八木氏であるとも、平氏であるとも、国造八木氏であるとも言われるというから、要するにまったく分かっていないということなのであろう。

 といった具合で、正確な出自は分からないが、平安時代の末期になって当地に入部した八木氏が、後に地名を取って本山氏を名乗るようになったものらしい。

 しかし本山地域は山間の狭隘部であり、本山氏はいつの日か、広大な平野部に進出することを夢見ていた。戦国期の本山城主であった梅慶(清茂)は、天文年間、子の茂辰に本山城を任せ、自らは兵を率いて高知平野に進出し、朝倉城を築いてそこを拠点とした。

 本山梅慶の軍事力はすさまじく、高知地域の支配を確立しただけでなく、広岡地域に進出して吉良氏を滅ぼした。さらに長宗我部氏を破って、その領地をも奪ってしまう。だが、長宗我部国親は中村城の一条氏を頼り、一条氏の仲介によって、国親はかろうじて領土を保つ事ができた。こんな具合に、この時代の本山氏は非常に勢いがあった。梅慶はそうとう知略に長けた人物だったのではなかったかと思われる。

 このまま本山梅慶の勢力拡大が続けば、土佐一国は本山氏の支配化となり、本山氏が戦国大名として成長するかと思われたが、天文24年(1555)に梅慶は没する。跡を継いだのは子供の茂辰であった。

 永禄3年(1560)、茂辰の家来が、長宗我部氏の兵糧船を襲うという事件が勃発する。これをきっかけに長宗我部氏と本山氏との抗争は本格化し、両者の戦いは続いていく。

 着々と勢力を回復してきた長宗我部国親に加え、跡取りとなった元親らの活躍によって、長浜の戦い(高知市)で勝利を収めた長宗我部氏は、さらに本山氏の本拠であった朝倉城を囲んで圧力をかけ続けた。すでに長宗我部氏との勢力関係は逆転しており、その勢いに耐え切れないと判断した本山氏は、永禄7年、朝倉城を放棄して本山城に撤退した。これによって高知平野は長宗我部氏による一元支配下におさまることになった。

 長宗我部元親の勢力拡大はさらに続いており、本山地域への侵攻が始まった。本山茂辰は、本山城を子の親茂に譲って瓜生野の谷口に要害を構え、吉井という家老に守らせていた。元親は瓜生野を攻め、吉井を討ち取った。

 もはや本山氏に長宗我部氏と対抗する勢いはなく、元亀元年(1570)、ついに本山氏は長宗我部氏の軍門に降ることとなった。茂時が降参を申し入れると、元親は最初それを許さなかったが、茂時の母が元親の姉であったこともあり、結局は降参を許すことにした。

 以後、本山氏は長宗我部氏の家臣団に組み込まれていった。




本山土居(本山町本町)

 本山土居は、本山小学校の西300mほどの所の高台にある。現在は公園となっている。

 土居の周囲には民家が密集していて、どこから接近するのかよく分からない。仕方がないので、北西側の道路脇のスペースに車をおいて、民家の庭先から、犬に吠えられながらも、1郭の北西角によじ登っていったのだが、上がってみると、2郭の北側から登ってくるいい道があり、下には大きな駐車場もあった。反対側からアクセスしたので、これが気がつかなかったのである。

 1郭は周囲に高さ2mほどの石垣を積んだ区画となっており、広さは30m×50mほどある。その東側下にも2郭があり、この2つの郭が土居の中心であったものだと思われる。

 しかし、土居のある地形は、急峻な台地の中心部辺りであり、この台地そのものが要害地形を成している。実際には、周辺の台地全体を取りこんだ、壮大な構えの土居であったのではないかと推測される。








本山土居の城址碑・・・と思ってしまったのだが、そうではなく、実際には、「森下高茂」という人物の「頌徳碑」であるということだ。 土居が、台地縁部に築かれているのがよく分かる。
1郭東側の虎口と石垣。 1郭東側の石垣。
 本山土居は、本山氏の居館の1つであったといわれる。本山城の平地の居館といった性格のものであったのであろう。天正17年(1586)年当時の長宗我部氏の検地記録によると、当地には本山采女という人物が居住していたという。

 慶長6年(1601)、山内氏の土佐入部に伴い、本山には1330石で山内刑部(永原一照)が入部、この土居を居館とした。しかし、刑部の子の但馬には私曲の行いがあり、後に領地を没収されてしまう。それからしばらくは、山内氏の蔵入り地となり、領主不在となっていた。

 寛永7年(1630)、野中直継が1000石を加増されて本山に入部する。以後は野中氏の居館として使用された。

 野中氏歴代の中でも有名なのが、直継の養子となった野中兼山である。兼山は土佐藩の家老として、潅漑や築港のような産業開発から、社会風俗の改革、各種産業の奨励など、広範囲に渡る社会事業を行い、土佐の発展に貢献した。


































大竹屋旅館