高知県中土佐町

*参考資料 『日本城郭体系』 『図説中世城郭事典』

*参考サイト   サボテンと城と山 

久礼城(中土佐町久礼)

*鳥瞰図の作成に際しては、『図説中世城郭事典』を参考にした。

 久礼城は、久礼中学校の西側にそびえる比高100mほどの城山に築かれていた。山麓東側には「土居」の地名も残り、山城と土居が一体化した城であったと思われる。

 久礼城にはとにかく行ってみたいと思っていた。というのも、この城の城主が佐竹氏であるからである。佐竹氏といえば、いうまでもなく常陸の大豪族であるが、鎌倉時代初期に、一族が土佐にやってきて領主化していたらしい。後には一条氏の家臣となり、さらに長宗我部氏の勢力拡大に伴って、長宗我部氏に属すようになるのであるが、とにかく佐竹氏の居城であることには変わりがない。佐竹氏好きの人ならば、一度は訪れてみたい城である。

 この城については情報が少なく、ちゃんとした道があるのかどうかも分からなかった。もちろん、公園化されて整備が進んでいるわけでもない。しかし、図面を見ると、主郭内部には神社が祭られているようである。ということは、主郭までの道はなんとか付いているのではないだろうかと想定。まあ、冬場だし、比高も100m程度であるから、直登してもいいかな、などと思いつつ、城の北側にある水道施設のようなところからアクセスすることにした。

 水道施設の下の橋の脇にちょうど車一台を停められるスペースがあったので、ここに車を停めさせてもらった。ここから水道施設らしきものに行く道を進んでいく。城山は下の谷戸部にある中学校の反対側に見えている。城山までの間にはけっこう長そうな尾根が続いているのが分かる。

 水道施設への道を進んでいくと、正面に山の中に入っていく階段が見えてきた。遊歩道のような道である。lこれなら、城まで楽に行けるのではないかという期待が膨らむ。ここから主郭までの比高はすでに60mほどとなっている。

 尾根を進みジグザグの道を上がっていくと、城山がだいぶ近づいてきた。すぐ真下には久礼中学校が見える。現在(2010年12月)、新築工事の真っ最中で、生徒はおらず、工事関係者しか見えない。それを見下ろしながら進んでいくとアンテナが建つところに出た。

 「道jはこれのためのものだったか・・・」と思ったのだが、よく見るとさらに先まで山道が続いている。どうやら神社の参道ということで合っているらしい。また尾根を進んでいくと、いよいよ城山の側面部に出た。

 城山の北側斜面にはけっこうな数の竪堀が掘られている。といってもそれぞれの堀はそれほど深いものではない。だが、間にある1本は深さ2mほどもある大規模なもので、参道はいったん、この竪堀の内部を通って上がり、さらにまたジグザグの道となっている。このジグザグの道が2本の竪堀の間を通るようになっていることからすると、これがもともとの登城道であったのかもしれない。

 そこから虎口に上がったところが2郭である。2郭の周囲には高さ50cmほどの土塁が廻らされている。土塁そのものが低いので、虎口も小規模なものだが(これは朝倉城でも同様であった)、土塁の内側には石垣が積まれている(岡豊城にもそういうのがあったなあ)。しかし、2郭の内部の状況はいまひとつ把握できない。というのは、郭内部にはシダ類が繁殖していて、参道以外の部分はけっこうなヤブとなっているからである。
 2郭の先端部には三重堀切があるようだ、がこちらはヤブがひどくてよく分からなかった。しかし、図面を見ると、こちらから登ってくる登城道もあるようだ。

 2郭を進んでいくと、1郭の城塁が前面に立ちはだかって見えてきた。その脇に虎口状の切れが見られたが、虎口というよりは竪堀なのかもしれない。1郭の南の横堀を進んでいくと、そのまま参道は1郭内部に進入していく。この虎口にも脇に石垣が積まれている。それなりの城門があったのではないかという気がする。

 1郭は地形なりにやや湾曲した形状で、15m×70mほどの細長い郭である。中央部分に長方形の窪みがあったが、これは井戸の跡なのであろうか? また1郭内部には「久礼城 佐竹氏居城跡」と刻まれた標柱が建っている。高知県のこのような場所に来て「佐竹氏居城」という表示を見ると、なんとも言えない感慨がある。これを見るためにわざわざ土佐まできたようなものである。

 1郭の土塁内側にもやはり石垣が積まれている。虎口は北側にもあり、そこから下の腰曲輪には石段が付けられていた。この腰曲輪の側面に、この城で最も大規模な石垣が見られた。

 さて、1郭の北側下には3郭があり、こちらの方向に特徴的な構造物がいくつもあるようだ。ところが、3郭へのアクセス路が分からない。どうしようかと思いつつ1郭から北側下の虎口に行ったら、そこから3郭方向に向けて、獣道のような細い踏み跡がついていて、これを通って3郭まで行くことができた。3郭へのルートとしては最もありうべき場所になるのであるが、城の通路としてはあまりにも狭い。これが本来の道であるのかどうか疑問に感じるところである。

 3郭との間の堀切に出た後、1郭城塁北側斜面にある畝状竪堀を見ようと思って、側面を進んでいく。すると確かに畝状竪堀がある。竪堀の数は6本。ただし、いずれも深さ40cm程度のもので、これでどれほどの防御力を発揮できたのかは大いに疑問である。ただし、堀の側面には石積みが見られる部分もあり、それなりの意図を持って加工したことは間違いない。

 さらにその先には5重の堀切がある。こちらも1つ1つがそれほど大規模なものではないが、これほどの数の連続堀切を設置して分断を図るという意図が面白い。この尾根は直接1郭に続くものであったため、特に念を入れたということなのであろう。

 3郭はかなりのヤブになっていたので、今回はここから先は断念した。というわけで実際は見ていないが、3郭周囲にはかなり複雑に組み合わされた竪堀が見られるようである。

 こうして概観してみると、久礼城の主要な曲輪は3つだけであり、それほど大規模な城郭ではない。しかし、この城にはかなりの技巧的な遺構が見られる。佐竹氏の居城であることといい、お勧めの城郭である。

水道施設の脇を登って行くと、久礼中学校の先に城山が見えてくる。ここからの比高は50mほどである。 写真の目立つ水道施設らしき建物へ行く道を進んでいくと、正面に、城へ続く木の段の遊歩道が見えてくる。後はそれを進んでいけばよい。
城の北側斜面にある竪堀。これは規模が一番大きいもので、他のものはそれほど規模が大きなものではない。参道はこの竪堀を一部、上に進むようになっている。 2郭まで上がって行くと、虎口の脇に石垣が積まれているのが分かる。土塁は低いが、石垣は立派である。
2郭南側にある竪堀。虎口としても使用されていたものであろうか。 1郭南側下の横堀。これを進んでいくと1郭の南虎口に続いていく。
1郭南虎口。脇に石積みがある。 1郭北虎口。脇には石積みがあり、ここに続く道には石段が築かれている。
1郭土塁の内側には石垣が築かれている。 1郭にある城址碑。「佐竹氏居城」の文字がなんとも懐かしい気分にさせてくれる。土佐佐竹氏の居城を見たくて、ここにやってきたのである。
1郭内部に建つ神社。1郭は細長い郭となっている。 1郭と3郭殿間の堀切。
1郭西側下にある畝状竪堀。6つの竪堀が並んでいるが、規模はみな小さい。しかし、側面部に石積みが見られたりする。 その南側にある5重堀切。けっこうヤブで分かりにくい。
1郭北側下の郭下に築かれた石垣。この城ではもっとも立派なものである。 土塁の上にあった石積み。この上に土塀でも建てていたのであろうか。
 久礼城は佐竹氏の居城である。佐竹氏は常陸の大名であるが、鎌倉時代にその一族が土佐に赴き、この地の地頭となったものらしい。

 戦国期になると、この地域は中村城の一条氏の勢力範囲となり、佐竹氏も一条氏の配下となっていた。『元親記』には「久礼(佐竹)信濃守は一条殿の老(としより)なり」とある。

 元亀2年、長宗我部元親は、土佐統一の最終段階として、いよいよ、一条氏への攻勢をかけることとなった。中村城を攻めるためには、まずはこの久礼城を取らねばならない。そこである人が、久礼の城下に次のような落首を立てた。

「あきはてば一条冬にかかるべし またこん春はなんと信州」
安芸氏が片づいてしまったので、いよいよ冬には一条氏を攻めることになる。信濃守はいったいどうするつもりか)

 この落首は中村城の一条兼定のもとに届けられた。かねてから兼定は、佐竹信濃守が長宗我部に内通するのではないかと不安に思っていた(実際、そういう噂も流れていた)。

 自分に疑いをかける兼定に、信濃守は嫌気がさしていたのであろう。一条氏への義理に、長宗我部勢相手に形ばかりの戦をして、後は降参してしまった。信濃守は弟の太郎兵衛を人質として差し出した。

 これを見た仁井田表の侍たち・・・窪川、東、志和、賀久見、西原、伊与木らの6人も人質を出して降参したという。以後、佐竹氏は長宗我部氏に属するようになったと思われる。




西山城(中土佐町久礼字西山)

 西山城は久礼城の北方2kmほどの所にある比高100mほどの山稜に築かれていた。

 実はこの城はgooglemapで久礼城を探していて偶然発見したものである。

 googlemapの航空写真を見てみると、発掘直後と思われる裸になった山稜が見えており、そこには「西山城跡」という文字が読み取れる。(2010年12月現在) 堀切もはっきりと見えている。発掘直後の様子がこれほど明瞭にgooglemapで見られる城も少ないのではないだろうか。貴重なショットである。


 西山城については発掘報告書も出ているようで、ネットでそれを検索することもできた。そこで、報告書の図を基にして鳥瞰図を作成してみた。


 このようにきれいに整備された山城ならぜひ見てみたい、そう思って近くまで行ってみたのだが、どうもすでに開発が始まっているらしく、何かの建造物を建てている最中のように見えた。つまり発掘はこの開発を前提として行われたものらしく、現在では遺構は失われてしまっていると思われる。

 だから結局山上まで行くことはしなかった。


 そういうわけなので、googlemapの航空写真で遺構を見られるのも、今のうちだけなのではないかと思う。googlemapの写真が更新されたら、もうおしまいであろう。
























 西山城の歴史についてはよく分からないが、久礼城と近接した位置にあることから、久礼城の支城の1つであったのではないかと思われる。この名称からすれば、西出城とでもいったものであったろうか。


































大竹屋旅館