高知県南国市

*参考資料 『日本城郭体系』 『図説中世城郭事典』

*参考サイト  ちえぞー!城行こまい  サボテンと城と山  四国の城郭探訪  城郭放浪記

岡豊(おこう)城(南国市岡豊町)

*鳥瞰図の作成に際しては、『図説中世城郭事典』および現地案内板を参考にした。

 岡豊城は高知自動車道南国SAのすぐ東南側の比高90mほどの山に築かれている。非常に有名な城であり、地図などにも掲載されているので場所はすぐに分かる。

 長宗我部氏の居城である岡豊城にはだいぶ以前から訪れてみたいと思っていた。というのも、岡豊城が本当に、土佐の国主であった長宗我部氏にふさわしい規模の城であるのかどうか、疑問に思っていたからである。

 図面を見ている限りでは、岡豊城は、技巧的ではありこそすれ、国主クラスの居城としては、かなり小振りな城のように感じられる。この程度の城では家臣団の集約もできないのではないかと思ったのである。しかし、それはあくまでも図面をみただけの印象であり、実際に見てみると、かなり印象も変わってくるのかもしれない。そんな意味でも岡豊城には期待と関心を持っていた。

 岡豊城の二ノ段のすぐ下には県立博物館が建てられている。そういうわけで、城の中心部にすぐに到達できるところまで車で行くことが可能なのであるが、おそらくこの博物館の建設によっても遺構の一部が破壊されているに違いない。これだけの博物館が建てられるほどのスペースであるから、かなり広い平坦地があったに違いない。あるいはこれが家臣団の集住に関係する平場であったのかもしれない。

 博物館の駐車場に車を置いて、二ノ段に上がっていく。この地域の城郭には「本丸」「二ノ丸」あるいは「御城」「中城」といった名称ではなく、「詰ノ段」「二ノ段」などという名称を曲輪に用いている例がいくつもある。これがこの地域の城の郭を示す名称なのであろうか。二ノ段はそのまま二ノ丸の意味であろう。

 二ノ段と詰との間には堀切がある。堀切の一部が深く掘りこまれていたが、堀底に井戸を設けていたのであろうか。珍しい意匠である。

 この堀切を抜けると詰下ノ段に出る。この小空間は詰の手前に当たる部分でいわゆる出枡形というべき虎口関連の施設である。

 そこを抜けると主郭である詰に到達する。「あれっ、もう主郭に着いてしまうの?」といった感じであっけなく主郭まで来てしまう。防衛的にはあまり堅固なイメージはない。

 主郭には建造物の礎石がそのまま残っていた。それほど大きな建物でもなさそうであるが、ここに長宗我部元親が実際に住んでいたのかと思うと、感慨深いものがある。

 さらに技巧的な構造が見られるのは、この主郭から南側の斜面である。主郭の南側には三ノ段、四ノ段といった具合に二段の腰曲輪が連続している。このうち四ノ段の先端部下にはBの小郭があるが、これまた出枡形のようなものである。このBに来るためには、土塁で囲まれたその下の郭まで到達する必要がある。

 一方、三ノ段と四ノ段との間にはAの出枡形が存在している。その前面にも虎口があり、出枡形への進入を試みている間に、敵は三ノ段の城塁から一斉射撃を受けることになる。ちなみに三ノ段の土塁内側には石垣がしっかりと積まれている。これもこの地域の城によく見られることだが、石垣が土塁の内側にだけ積まれているのは、防塁の構成というよりも、内部のスペースを重視したものであろう。土塁の高さは1,5mほどであり、あるいは郭内側の斜面を垂直にすることによって、立って鉄砲や弓を討つのによい形状にしているのかもしれない。

 四ノ段から下に降りると、そこには横堀沿いの腰曲輪がある。これに到達するにはその下の二段の帯曲輪を通るようになっていたのであろう。

 この帯曲輪のうち、下の段には土塁にたくさんの切れが見られる。これらの切れは竪堀となって斜面に落ちていっているのだが、竪堀の深さはいずれも浅いものであり、これでどれだけの防御力を発揮したのかは疑問である。

 Cの段の先端の尾根方向には三重堀切が入れられているが、これもそれほど大規模なものではない。意匠の規模によって敵の攻撃を遮断する、とまで言い切れない程度のものである。一国の大名の居城としては、遺構の規模に威容を感じさせない程度のものばかりである。

 これらの城の主要部の他に、南側の尾根続きにも出城のようなものがある。「伝厩曲輪」と呼ばれている場所であるが、その実態は見るからに南方向を監視するための出城である。単郭ながら、横堀や腰曲輪を廻らせてそれなりの防御構造を整えている。


 岡豊城は、そこそこ小技の効いた城で、けっこうよくできた山城であるといえるが、やはり土佐国主(後には四国の覇者)となった長宗我部氏の居城としては、なんだか物足りない城である。だが、これは武田信玄と同様の意図によるものなのかもしれない。

 信玄は、常に敵地に攻め込むことばかり考えていたので、その居館も、大名の居城としては実に素朴なものであった。長宗我部元親もその生涯のほとんどを外征に費やした人物である。彼の目標はとにかく敵地に進入していくことであり、自分の本拠地が敵に攻め込まれることなど、まったくの想定外であったのかもしれない。そう思えば、岡豊城の規模がこの程度であったとしても、別に驚くに値するほどのことではないともいえるであろう。

東側の国道から見た城山。県立博物館が建っているのですぐに分かる。山麓からの比高は90mほどある。 博物館から見た二ノ段。ここから主郭までの比高は20mほどである。
2の段に上がる坂道の下に築かれている石垣。 2の段から見た風景。土佐の平野部がよく見渡せる。
詰め下の段との間の堀切。手前には井戸が掘られている。 詰下の段。要するに出枡形といったものであろう。
詰の段内部。城主の居館の礎石が残っている。長宗我部元親もここに住んでいたはずである。 3の段の土塁に築かれた石垣。石垣があるのは土塁の外側ではなく内側である。
Aの馬出しと土塁。 4の段の虎口と石垣。
Bの出枡形。ここも眺望のいい郭である。 Bの脇に建てられた立派な城址碑。主郭ではなくこんな場末名場所に建っているので、余り目立たない。
南側に掘られた竪堀。しかし、深さは50cm程度と、非常に小規模なものである。とても防御力を発揮できたとは思われない。 本城部分の南側の小山にある厩曲輪(出城)への通路。
厩曲輪の城塁と腰曲輪。小さいながらも周囲にはしっかりとした防御構造が見られる。 厩曲輪から見た本城方向。右側中腹に城址碑が建っているのが見える。
Cの腰曲輪に落ちていく竪堀。途中、横堀と十字に交差している。 Cの腰曲輪の土塁には何本もの切れがある。これが竪堀へとつながっているのだが、それほど大規模な竪堀ではない。
Cの腰曲輪の縁部分に築かれた石垣。 Cの下から西側にかけては三重の堀切がある。深さ4mほどである。
 言うまでもなく岡豊城は戦国大名長宗我部氏の居城であった。天正15年(1585)に大高坂山に居城を移すまで、元親はここを本拠地としていた。つまり、元親の四国征服事業は、常にこの城を拠点として行われたのである。

 岡豊城といえば、もう1つ、忘れられない記憶がある。それは子供の頃に読んだ南條範夫の『古城物語』に収録されている「裁きの石牢」という小説である。この小説のタイトルにもある「石牢」は岡豊城の本丸下の断崖に設けられていたことになっていた。もちろん、この作家の話はまったくのフィクションであろうから備中松山城の抜け穴などと同様、実際に石牢などあろうはずはない。

 これからこの小説を読む人もいるかもしれないので、ネタばらしになってしまうような記述は避けておくが、南條範夫の小説らしくなんとも気分が悪くなるような味わいが尾を引いて残る小説であった。これを読んだ時「長宗我部国親ってこんな奴だったのかあ! それに元親の出自がそうだったなんて、知らなかった!」と感嘆を発したものであった。子供の頃は彼の小説のすべてを真実と信じてしまっていたのである。

 しかし、今思えば、この作者特有の創作であったのだと思う。この小説の内容が真実の話のはずがない。それにしても、この小説に限らないのだが、これだけの残酷物語を思いつく南條範夫って、本当にすごい作家だったのだと改めて思ったりするのであった。
岡豊城に期間限定(2017年〜2019年3月まで)物見櫓が建てられているという話を聞いて、それを見るために岡豊城を再訪することにした。南側から城址を見ると、山頂にある物見櫓が見えている。 1郭に建てられた物見櫓。桜が満開でたくさんの人が訪れていた。
物見櫓内部。 南西側から見たところ。
北西側から見たところ。 北側正面。たくさんの人が訪れていた。


































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