大洲城(愛媛県大洲市大洲)

 05年、百数十年ぶりに大洲城に天守が再建された。当時のままの木造での再現である。ってなこともあって、それからずっとこの城の天守を見に行きたいと思っていた。06年12月の四国旅行の主なターゲットはこの大洲城の天守を見ることにあったといってもいい。JRの民営化以降、鉄道の本数は減り続けているようだが、松山からの高速道路も大洲までつながっているので、だいぶ訪れやすくなったともいえる。

 鳥瞰図の作成に際しては、現地パンフレットの図と「正保城絵図」とを参照した。この城に関しては、「城絵図」はかなり正確に描かれており、また現状の地形と「城絵図」とがほとんど一致していたので、描くのはそれほど難しくはなかった。御殿や政庁の建造物も、一応、「城絵図」に描かれている通りに描いてみた。

 天守は最高所にあり、台所櫓、高欄櫓の2つと接続した連立式のものであった。なお、本丸の東端には、小さな虎口のようなものが見られたが、絵図にはここには多聞櫓しか描かれていない。絵図にも描かれないほどのマイナーな虎口であったものだろうか。

 本丸天守下の郭に上がる坂虎口の部分の現状が、重機によって改変されているように見える。観光地化ということもあって、肢体の不自由な人のために、本丸に車を通すことができるよう石垣を崩したのかなと思ったのだが、これも古図をみると坂虎口になっていた。ほとんど改変されているわけではなく、要するに旧状はよく維持されながら整備されているっていうことなのであろうか。

 現在、奥御殿、表御殿の部分が住宅地、二の丸が市民会館や城址駐車場、三の丸が裁判所や大洲高校になっていたりするが、本丸を中心とした部分は往時のままであるといっていい。

 天守こそは復元であるが、それ以外にも4つの櫓が現存しており、それぞれ重要文化財となっている。そのうち、天守に付属している高欄櫓と台所櫓はともかくとして、苧綿櫓と三の丸南隅櫓の2つは、ぽつんと忘れ去られたような場末の所にある。特に、大洲高校の脇にある三の丸の櫓は重文とはいえ、壁も剥がれ落ちており、あまり大事にされていないような印象を受けた。

 もともと櫓が4基残ったわけなのであるが、櫓4期が残っているというのと、天守も存在しているというのとでは印象はぜんぜん違ってしまう。以前は、鉄橋から見ると、ちっこい櫓がちょこっと見えるだけで、いかにもぱっとしない城という印象であったのだが、天守が建っただけで、現在ではそうとう遠くからでも城らしい城として遠望することができる。そう考えると、天守の存在というのがいかに城にとって大きいものであるかがよく分かる。

 城は肱川に臨む比高40mほどの高台を本丸として利用したものである。もちろんそれだけでは近世城郭として十分なスペースを確保することができないので、南側に裾を広げるようにして郭が展開されており、特に三の丸部分は完全に平城形態となっている。外堀はほとんど埋められてしまってはいるが、大洲高校脇の隅櫓の外側は地勢が低くなっており、堀の跡であったという形状を読み取ることは可能である。かなり幅広の水堀であった。三の丸の西側の南半分では、自然の山が取り込まれており、水堀は掘られていない。なお、その辺りには儒学者として著名な中江藤樹の邸宅の跡がある。

 本丸には居住用の建造物はたいしてなかったようであり、二の丸の東側に政庁、西側には奥御殿、表御殿が置かれていて、ここが平素使用されている場所であった。

 本丸以外の部分はかなり市街地化によって改変されてしまっている印象だが、中心部分は城址公園としてきれいに整備されている。この後さらに整備が進んでいくのかどうかはわからないが、城址公園としてはかなり充実した城であるといっていいだろう。





肱川に架かる国道の橋から見た大洲城。復元された天守が結構目立っている。やっぱり天守があるっていいよなあ。見に来た甲斐があったって感じである。 二の丸跡の駐車場から見た天守と高欄櫓。駐車場は有料だが、1時間110円と、それほど高くはない。
本丸への入り口。城塁がななめに切ってあるのは後世の改変かと思ったのだが、古図でもこの通りになっていた。 西側下の内堀は、庭園のようになっていた。
本丸下から見た天守。左側下に井戸が見える。 本丸の暗り門の跡。それにしても「暗り門」って、変な名称だ。
本丸内部から見た天守、高欄櫓、台所櫓。 本丸から三の丸跡に建つ大洲高校を見たところ。よく見ると写真中央に三の丸の南隅櫓が半分見えている。このすぐ左側下が外堀であったのだが、すっかり家が建て込んでしまっている。
本丸から見た苧綿櫓。 復元された天守内部には天守の木組みが展示されていた。
天守の建築ジオラマ。こんな風に造っていたのかあ。重機もない時代、大変な工事だったんだろうなあ。 重要文化財の高欄櫓の内部。文字通り高欄が付いている。
奥御殿の上の段にある中江藤樹像。藤樹宅跡は、大洲高校の西側にある。 大洲高校の脇に残る三の丸の南隅櫓。壁が一部剥げ落ちてしまっている。
 天正13年(1585)、秀吉の四国平定の後、小早川隆景が伊予35万石を与えられた。隆景は湯築城をその居城とし、大津城(大洲城)を支城として利用したという。といっても、湯築城があのような城であるわけだから、大津城というのも、中世城郭そのままの、石垣や高櫓等を伴わない、素朴なものであったのだと思われる。

 文禄3年(1594)、小早川隆景が病死すると、伊予の西部7万石は藤堂高虎に与えられた。高虎は宇和島城、大津城の2城に工事を施し、大津城を居城としたという。現在の大洲城や城下町の基礎は、この藤堂高虎の時代に整えられたものだと考えられる。後に関ヶ原合戦での功績によって、高虎は伊予東部の支配も任せられ、今治城をその居城とするようになる。

 慶長14年(1609)、淡路洲本城主であった脇坂安治は、大津5万3千石の大名として赴任してくる。大津の地名を大洲と改称し、古写真にも残る天守を築いたのは、この脇坂氏の時代であったといわれる。

 元和3年(1617)、脇坂氏が信濃飯田に移されると、変わって大洲には加藤貞泰が6万石で入城してきた。加藤氏の治世は安定して存続し、明治維新まで続いていくこととなる。




川之江城(仏殿城・愛媛県四国中央市川之江城山公園)

 川之江城は比高60mほどの城山に築かれている。昭和62年に模擬天守が建てられたこともあって、市内のどこにいてもこの城を見ることができる。海岸近くの非常に目立つ山であり、港や町場、街道を監視するのにふさわしい城であったということができる。

 城の構造はわりあいとシンプルなものであり、山上を削平することによって数段の段郭を配置しただけのものである。堀切や土塁なども見られない。城内で目立つのは模擬天守くらいであるといってもいい。この模擬天守、犬山城と瓜二つで、模擬天守の王道を行くような建物である。いや、破風からすると、館山城とまったく同じデザインといってもいいだろう。しかし、なんとなく城址になじんでいる。

 模擬天守はともかくとして、本丸に入る部分が石垣を用いた枡形門になっているのが目を引いた。模擬天守というのはあちこちにありがちなのだが、このような枡形門まで模擬で造ってしまうものであろうか。だとしたら模擬にしてもそうとうのセンスである。もしかしたら、この桝形門の石垣は城本来のものなのではないだろうか。それにこの城にはわりと末端の方にも石垣が見られる。となると、城址に見られる石垣のある程度の部分は、後世のものではなく、城本来のものなのではないだろうか。

 そのことが気になったので、天守の管理人さんに確認してみることにした。

「この城の天守は模擬として、枡形門などはけっこう本物っぽく見えるんですが、あの石垣はもともとのものなのでしょうか?」と尋ねてみた。しかし、その答えは

「天守も門も後からこさえたもんだから、本当のものじゃないよ」ということであった。さらに石垣について尋ねてみると、

「この城にはもともとの石垣もけっこうあったんだ。でも今見られる石垣はみんな後から積んだもんだ」といった答え(いったいどっちなの!?)。結局、石垣は遺構なのか、構成のものなのかどっちなのか、管理人さんもよく分かっていなかったようである。先ほどの枡形門の石垣についても、よくよく考えてみると彼は「(石垣ではなく)門は後からこさえたものだ」という意味で言っていたのかもしれない。後で家に帰ってきてから「城郭体系」を見てみると、遺構に「石垣」と書いてある。ということは、石垣の遺構もあるはずなのである。しかし、どの部分が確実に城の石垣なのかどうかはよく分からなかったのであった。

 さて、模擬天守はともかくとして、この城もとても景色がよい。四国の城は、町場で、しかも海の近くの独立丘に築かれているものが多いので、どの城も本当に景色がいいのである。それに瀬戸内の海は本当に青いし、そこに浮かんで見える島々も風光明媚である。こうした風景を見られるだけで来る価値があるのかもしれない。

 かつては仏殿城と呼ばれた川之江城が築かれたのは南北朝時代のことだというから城の歴史はずいぶん古い。しかも築城者が土肥氏ときているから、いかにも時代を感じさせる。土肥といったら鎌倉幕府の御家人のイメージである。

 しかし城はその後もずっと維持され、天正10年(1582)、長宗我部氏の攻撃によって川之江城も落城した。が、天正13年には秀吉の四国征討があり、結局伊予は小早川氏の所領となる。その後、川之江城は、小早川氏、福島氏、池田氏、小川氏とめまぐるしく城主が替わっている。石垣や枡形門が築かれたとすると、まさに天正10年代のこの時期のことであろう。

 さらに後、慶長16年、伊予国主となった加藤喜明は、川之江城を廃し、城を解体、素材は松山城に転用されたという。こうした川之江城はただの城山となった。

南麓の天理教の協会付近から見た城山。比高60mほどだが、非常に目立つ山である。山頂近くの駐車場まで車で行くことができる。 駐車場に向かう途中にあった石垣。模擬にしてはよく積まれているように見える。
本丸の枡形門。門そのものはもちろん模擬である。 しかし、その門をくぐってみるとこのような枡形になっていた。模擬天守のおまけでこのような枡形まで造ってしまうものなのだろうか。これはひょっとしたら本物なのでは?と見えてしまうのであった。
模擬天守。犬山城型である。館山城とも同じデザインである。同じ人が設計したのではないかと思うほど。ちなみに本丸と模擬天守の位置関係は大多喜城とよく似ている。 天守から眺めた東方の轟城。こちらにも石垣があるらしい。
(以前の記述)川之江城は仏殿城ともいい、室町初期に河野氏の命により、土肥義昌が築いた城である。その後何度もの戦火に晒されたが、天正10年に長曽我部氏によって落城、更に天正13年の秀吉による四国攻めで小早川隆景によって落とされると以後は廃城となった。現在山上に建つ天守は、天守台と呼ばれていたところに昭和61年に再建されたものであるが、天守についてはきちんとした記録はなくやはり模擬天守と言うべきだろう。よくある、犬山城似の模擬天守である。


























大竹屋旅館