高知県四万十市

*参考資料 『日本城郭体系』 

中村城(為松城・四万十市丸の内為松公園)

*鳥瞰図の作成に際しては、郷土資料館に展示されていた『中村城古図』および現地案内図を参考にした。

 中村城は、中村市の北西部にそびえている比高60mほどの為松山に築かれていた。城址一帯は為松公園となり、東側の郭には模擬天守(郷土資料館)が築かれているので、遠くからでもこの天守を見ることができ、場所はすぐに見当がつく。

 久礼城を訪れた後、車で一路、四万十市を目指したのだが、久礼城からの距離は約70kmほど、それも前半はかなり高所の山道であり、後半は延々海沿いの道であった。まるで別の国に行くかのようにかなりの難所越えをすることになる。

 戦国期、土佐の最大勢力は中村城の一条氏であり、長宗我部氏も、一条氏にすがって領地を取り戻したこともあるのだが、こんなに遠い場所であったとは予想外である。高知の主要部からこれほど離れたところに小京都のような都市が営まれていたというのも興味深い。

 郷土資料館が建てられている関係もあって、山上近くまで車で行くことが可能である。山道を進んでいくと、やがてAの鞍部の所に出るので、そこに車を置いて模擬天守(郷土資料館)を目指す。この鞍部、幅が15mほどもあるが、もともと堀切であったようで、城内側の壁面にはかなり立派な石垣も築かれている。

 ところが、この辺りから模擬天守が見えないので、どちらに進めばよいのか分からない。とりあえず、西側の坂道を上がっていくと、為松城の城址碑があるところに出る。ということはここが城の中心部だったところであろうか。そこから北西側に郭が続いているようであったので先に進んでみたのだが、さっぱり模擬天守が見えてこない。

 どうやら反対方向に進んでいるようだ、ということで、再び堀切の上の部分まで戻り、そこから東側の郭を目指すと、その先の切り通しの奥に模擬天守らしきものが見えてきた。

 模擬天守入口の切り通し、なかなか立派な虎口だと思っていたのだが、後で模擬天守内部に展示してあった中村城の図を見ると、ここに虎口は存在していない。どうやら立派な虎口に見えたものは、模擬天守を建造する際に作業車を通すために造られた改変にすぎなかったようである。

 しかし、この郭の周囲の土塁はなかなか見事である。図面からすると、ここは城の主郭ではなく、東先端の出丸のような部分であるが、これだけの土塁が廻らされているところを見ると、かなり重要な曲輪であったに違いない。

 せっかく来たので模擬天守内部にも入館してみた。望楼に上がると、眺望が非常に利いていて気分がいい。だが、風が冷たすぎて、あまり外に出ていることができなかった。

 さて、城の北西部には進んでいかなかったのだが、図面を見ると、北西の大堀切の先に「詰」があるようで、実際の本丸は、模擬天守のある郭よりもはるかに北西に存在しているようである。ただし、地形図を見ると、「詰」は、為松城の碑のある場所よりも比高は低い所に位置している。この辺りどうなっているのか、次に訪れる機会があったら確認してみたいところであるが、次に訪れる機会、あるかなあ・・・・。

 中村城は土佐第一の勢力者である一条氏の居城にふさわしく、広大な山稜全域を利用した大規模な山城ではあるが、それほど目新しい構造物はない。わりと古いタイプの山城といった印象である。

市街地東側を流れる川の橋から遠望した模擬天守。台地縁部に建っているのがよく分かる。 車で道を上がって行くと、堀切跡に出る。車はここに停めておくことができる。
そのまま為松城の方にあがって行ったのだが、天守が見えてこない・・。 天守はそちらではなく、東側縁の郭に建てられていた。この郭の入口は立派な虎口となっているが、これは郷土資料館建設に伴って切られたものであるようだ。
郷土資料館のある郭周囲にめぐらされた高い土塁。 模擬天守(郷土資料館)。
模擬天守の上から見た中村市街地。 車を置いた堀切の側面部には立派な石垣も存在している。
 中村城主の一条氏はもともとは京都の貴族の出身であった。応仁2年(1468)、都の戦乱を避けて前関白であった一条教房とその一族は山間のこの地に逃れてきた。教房は中村古城(かつて為松氏が居城としていた山城であったらしい)を整備して、中村の領主となった。これが土佐一条氏の始まりである。

 『長元物語』によると、

「土佐の国七郡、大名七人、御所一人と申すは、一条殿1万6千貫、津野5千貫、大比良(大平)4千貫、吉良5千貫、本山5千貫、安喜(芸)5千貫、香宗我部4千貫、長宗我部3千貫、以上8人の内、一条殿は格別、残りて七人守護と申す」とあり、戦国期の土佐の勢力の中でも、一条氏は別格の存在であったことが分かる。

 これを見ると、長宗我部の勢力はこの中で最小である。でありながら、最終的に他の勢力をすべて駆逐・吸収してしまったのだから、長宗我部元親は相当のやり手であったと言うほかない。

 実は長宗我部氏は一条氏には忘れてはいけない恩義がある。昔、本山梅慶の勢力により、長宗我部領が奪われてしまった時、幼い国親(元親の親)は、家臣に背負われて中村に逃げ込んできて、一条氏の庇護を願った。そのため、国親は幼少時代を、中村城内で過ごすことになった。

 ある時、御殿の2階にいた一条氏(兼定の親?)は、戯れに近臣に次のようなことを言った。「この2階はずいぶんの高さがあるよのう。ここから飛び降りてみるだけの勇気がある者はおるかい。どうだ国親、ここから見事飛び降りることができたら、旧領を取り戻してやってもよいぞ」

 その言葉が終わる前に、当時6歳の国親はいきなり立ち上がり、窓際まで寄ると、何のためらいもなく、下に飛び降りてしまった。一同が驚いて階下を見てみると、そこに国親は怪我もせずに立っており、
「お屋形さま、これで領地を取り戻していただけますか」とl答えたという。

 その後、一条氏の斡旋で、本山氏は長宗我部氏の旧領を返上し、再び長宗我部氏は元の城に戻ることができた。つまり、一条氏の働きかけがなければ、戦国大名長宗我部氏の台頭もありえなかったのである。だから、長宗我部元親は、この一条氏に対しては遠慮するところがあった。

 だが、一条兼定は「隠れもなき形義(行儀)荒き人にて、家中の侍共、少しの科(とが)にも扶持を放し、腹を切らせなどせらるる」(『元親記』)といった人物で、家中の侍たちの人心はすでに離れてしまっていた。
 
 そこで一条氏の家臣らは、兼定を隠居させて、若君を主君と立てることを計画し、元親にそのことを持ちかける。それならば、ということで、元親は一条兼定を攻める決意をするのである。

 家臣団の離反に遭い、長宗我部勢の抵抗を支えきれず、兼定は追放されてしまう。その後、元親は弟の吉良親実を城代として中村城に入城させた。

 一方、兼定は、中村城奪還を目指し、伊予勢力の援軍を得たが、結局は長宗我部軍に敗れ、敗走していく途中で、元親の家臣、入江左京によって刺殺されたという。




(以前の記述)戦国時代に都の争乱を避けて地方に下り、その地で大名化した例としては、飛騨の姉小路と、この中村の一条氏とが有名である。家柄のいい一条氏はこの地域での尊敬を集めていたと思われるが、名家の常で五代目の兼定のような愚昧な当主の出現により、長曽我部氏に併合されていくことになる。

 中村城は、一条氏以前の領主の名を取って為松城とも言われるが、居館風の城で天守などは存在しなかった。現在の模擬天守は、昭和40年に幡多郷土資料館として鉄筋コンクリートで建造された物である。





































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