徳島城(徳島県徳島市城ノ内)

*鳥瞰図の作成に際しては、現地案内板と「正保城絵図」を参考にした。

 阿波蜂須賀家20万石の城として有名な徳島城は、徳島市の市街の中心部にある。助任川と寺島川に挟まれた部分にそびえている城山を中心として、山上と山麓部に遺構が展開している。

 山上は意外と高く、比高60mほどあり、この上に登ってみると市街地を一望することができる。このような山が平野部に、しかも川に挟まれるという要害の地によくぞ存在していたものである。

 山上の郭は中央部の本丸を中心として、東下に東二の丸、西側下に西二の丸、西三の丸と段々に展開している。本丸周囲の石垣も高さ10mほどとかなり堅固な造りになっている。とはいえ近世城郭として十分な広さはなく、山麓部には表御殿などの居館部が充実しているので、山上の郭は普段は使用されてはいなかったのであろう。なお、本丸の下の東二の丸に三層天守が存在していた。古写真が残る月見櫓の形状などからして、これもそれなりに瀟洒な天守であったのではないかと想像されるのだが、残念ながら、古写真が残っておらず、古図を見ると、この図のような形であったようだが、正確な形状は不明である。

 山麓東南部が城の実質的な中心部分であった。ここには表御殿、奥御殿などが置かれていた。表御殿が藩庁であったろうか。また、反対の西側下には、西御殿があった。堀の外側には侍屋敷群、さらにその外側に町屋が展開して城下町を形成していた。

 天正13年(1585)の徳島城の築城に際して、まだ戦国の熱気覚めやらぬ時代だったこともあり、家臣たちは、「このような平地の城よりも堅固な山城の方がよいのではないか」とさかんに主張した。しかし、家政は「城を造るには100年の計を考えるべきである。いずれ日本は泰平の世の中となる。要害の堅固さよりも人和ということを考えるべきである」といい、城下町の形成に有利なこの地に築城したのだといわれる。家政の先見の明とでもいうべきであろうか。その家政の銅像は、表御殿の跡に建っている。

復元された鷲の門。 徳島城の堀と石垣。この地域の特徴なのだろうか。横に筋の入った細長く割れたような形状の石材である。
山上まで登ってみた。本丸の周囲の石垣は高さ10mほどにかなりしっかりと積まれている。 北側の虎口の枡形。この上に櫓門があったのであろう。
本丸の様子。古図を見ても建物は描かれておらず、要するに非常時にのみ使用される場所であったのであろう。 本丸西側の虎口。この先には西二の丸、西三の丸、と郭が続いている。
比高60mとはいえ、平野部にあるため、見晴らしは非常によい。すぐ南側の下には徳島駅が見えている。 東側の虎口。こちらが大手となる。こちら側の石垣は特に高いが、いかにも積み方が雑なかんじで、よくこれで崩れないものだと不思議に感じる。
東二の丸にある天守閣跡。天守台もなく、最高所の本丸に建っているわけでもない、変わった天守であった。 山麓の御殿跡に建つ蜂須賀家政公の銅像。
御殿跡は徳島城博物館となっている。奥に見えるのが本丸のある城山。 大手門の枡形。石の感じが他の城とちょっと変わっている。
東側の石垣の内側にはこのよう通路の両脇に石垣が積まれている。 庭園跡。けっこう大きな岩が転がっており、城山が岩山であったのだということを認識できる。
 天正13年(1585)、秀吉による四国攻めによって長宗我部元親は降参、土佐一国に押し込められた。それによって、淡路、阿波、讃岐、伊予の4カ国は豊臣家の家臣に分け与えられることになった。阿波一国17万6千石を拝領したのは秀吉の老臣、蜂須賀小六正勝であった。しかし正勝は老齢を理由にして阿波行きを固辞、秀吉のそば近くに仕えていることを希望した。そこで、阿波は正勝の子息で当時28歳の家政に与えられることになった。

 家政ははじめ一ノ宮城に在城したが、新しく居城を築くことにした。それが徳島城である。当時の四国は、長宗我部氏の支配から蜂須賀家の支配に移ったばかりであり、まだまだ政情不安定であった。また九州の島津、関東の北条などがまだ強大な勢力を誇っていたために、秀吉が天下を統一を完了するためには、四国を早く安定させねばならなかった。そこで秀吉は、徳島城の築城に当たって、小早川隆景や長宗我部元親、比叡山の僧侶らに手伝いを命じ、早急な阿波経営の安定を図っている。
 阿波の蜂須賀家は幕末まで存続したので、徳島城も阿波支配の拠点として明治維新まで維持され、やがて廃城の時を迎えることとなった。




川島城(吉野川市川島町城山)

 JR川島駅のすぐ近く、吉野川に臨む比高20mほどの断崖を利用して川島城は築かれている。模擬とは思えないほどよくできた天守が建っているので、だいぶ遠くからでもその場所を知ることはできる。

 現在模擬天守が建っているところは、おそらく外郭部分にあたる辺りであろう。本来の城の主郭部は、吉野川にのぞむ先端の1の郭であったと思われる。ここが城内の最高所である。岩の鼻展望台と呼ばれている場所である。その下の川脇を「浜」といい、かつては水運のための港があり、栄えたところであるという。

 そのふもとには、四国88ヶ所めぐりのミニチュア版があり、容易に88ヶ所めぐりができるようになっている。でもこんな安易な88ヶ所めぐりではご利益もなさそうだ。

 1から東に延びている部分と、川島神社のある2の郭との間が切り通しになっているが、これは堀切の名残であろうか。その間の部分をくぐって北側に出ると、城内で最大の4の郭に出る。ここはかなり広く多目的広場となっている。ところで、この広場から1の郭、2の郭の方向を振り返ってみると、この2つの郭の北側の城塁が、岩盤垂直切岸になっているのに圧倒される。もともとこの段丘部分は岩盤質の地形だったのである。この垂直切岸、城塁加工として行われたものだとすると、そうとうな難工事であったと思われるが、実際は、明治から大正にかけて、城内から産出される、青石を多量
に削り取った跡であるという。したがって、城の地形そのものがかなり改変されてしまっているということになる。

 城址の主要な部分は以上である。模擬天守のある外郭部は東に台地続きになっているので、連郭式にさらに複数の郭があったのかもしれないが、現在では宅地化が進んだだめにかなり改変されており、よく分からなくなってしまっている。

 川島城は、元亀3年(1572)、三好長慶の一族川島惟忠によって築かれたという。惟忠は、天正7年(1579)、勝瑞城の三好長吉と合戦して討ち死にし、子孫は備中まで逃れていったという。

 天正13年(1585)、秀吉の四国征討によって四国が平定されると、阿波一国は蜂須賀家の所領となった。川島城は徳島城の重要な支城として認知され、蜂須賀家の家臣林能勝が5500石で入城した。林氏は各地の戦いで戦功を挙げるほどの勇猛な武将であったが、後に大阪の陣の際、養子が不埒な行動をとったとがを受けて、改易となった。ついで、一国一城令が出されたこともあり、川島城は廃城となった。

だいぶ遠くからでも目に付く模擬天守。徳島城の有力な支城であったとはいえ、これほどの立派な天守が実際にあったとは考えられない。 模擬天守と城の主要部との間を切り通している道路。おそらくこれは堀切の名残であろう。
断崖に臨む岩の鼻。ここがかつての本丸であったという。 4郭の多目的広場から見た1郭下の腰曲輪の城塁。まるでピラミッドのようなきれいな方形をしているが、これは城郭関連工事によるものではなく、後年になって青石を多量に削り取ったために生じたものであるという。
模擬天守の背後から朝日が昇ってきた。夜通し車を走らせて、最初に訪れた四国の城がここなのであった。それにしても四国は遠い。うちから800km近くもあった。 アングルを変えて再度模擬天守。時刻はまだ8時前、当然、中はまだ開いていなかった・・・・。
(以前の記述)四国を旅して歩いた友人が川島城のパンフを送ってくれたので、このページで紹介してみることにする。ありがとね、Mちゃん。

 川島城は元亀元年(1572)の川島合戦の後、細川家の家臣川島兵衛之進が、この地に1000石を領し城を築いた。これが川島城である。後に川島兵衛之進は天正7年(1579)12月の岩倉合戦で一族もろともに討ち死にしてしまうが、その後天正13年の蜂須賀氏の入国に伴い、阿波九城の1つとして再興され、300人の守備兵が置かれたという。

 城はJR阿波川島駅のすぐ北側、川島神社の隣にある。見ての通りの立派な天守だが、番の人もおらず、入り口にパンフとスタンプが置いてあるだけだったという。入場料もいらず、食堂も売店も休業していたとか。大丈夫か、川島町! すぐ下を流れる吉野川は長閑でいい眺めだったそうであるが・・・・・。

 天守はもちろん模擬で、1000石の川島氏の城では、戦国期の砦のようなささやかな城であったことだろう。




撫養城(岡崎城・鳴門市撫養町妙見山)

 鳴門市に入ると、町のどこからもこの城が目に入ってくる。撫養城は岡崎城とも呼ばれ、市内の各所を展望することのできる比高60mほどの妙見山にあった。この山を妙見山と呼ぶのは、城の二の丸部分に妙見神社が祭られているからである。妙見信仰を抱いていたのは千葉一族だけではなかった。この神社の上がってくる参道が南側にあり、ふもとの参道入り口には鳥居が立っている。

 城には鳥居記念館と呼ばれる、城とはあまり関係ない博物館となっている模擬天守が建てられ、また千畳敷には各種の施設があり、その下が駐車場になっていたりと、公園化によってかなりの部分、地形が改変されている。そのため、旧状がどのようであったかを明確に窺い知ることはできない。しかし、ラフの通り、鳥居記念館のある所が主郭、一段下の妙見神社が2郭、さらにその下の千畳敷が3郭といったところであったろうか。これらに囲まれたすり鉢の底のような位置にある駐車場部分をも含めると、かなりの居住スペースを有していた城であったことが分かる。

 鳥居記念館は入館料100円と安かったのであるが、城とは何も関係がなさそうだったので(もちろん中世の城にこのような立派な天守が存在するはずもなかろう)、中を覗き込むだけで入館はしなかった。しかし、係員の女性の人と目だけが合ってしまったのがちょっと気まずかった。他に誰もここを訪れている人がいなかったので、もしかすると、私たちがこの日唯一の客になったかもしれなかったのに、そうしてあげなかったのである。

 撫養城は四国の入り口ともいうべき鳴門海峡に臨んだ場所にあり、鳴門海峡の関門を監視するための城であったと思われる。そのためこの位置には古くから城館のようなものが存在していたらしい。三好氏の家臣であった小笠原氏が城を築いたのに始まるという。
 大永13年(1523)には、流れ公方と呼ばれて、各地を放浪しながら再び将軍の座に着くことを夢見ていた足利10代将軍義植がこの城において病没している。海峡を渡り淡路島を越えればすぐに畿内というこの地にあって、将軍にカムバックすることを熱望しながら果たせなかった男の執念がこの城には残っているような気がする。

 また、13代将軍足利義輝を暗殺した三好一族に擁立された14代将軍足利義栄は、上洛を待っているうちに、足利義昭を奉じた織田信長が上洛してきたために、結局、都に登ることはかなわなくなってしまった。その義栄も、永禄11年(1568)、この城で生涯を終えたという。四国に流れてきた足利将軍はいずれもこの城において無念の涙を呑んでいた。そのためか、城内には「将軍塚」と呼ばれる古墳(おそらくこのいずれかの将軍を祭ったものであろう)があったというが、現在ではすっかり盗掘されてしまっているという。

 天正10年(1582)、土佐の長宗我部氏は、大挙して阿波に進入してきた。すでに勢力減退の状況にあった三好氏は各地で敗戦して、ついに阿波一国は長宗我部氏によって支配されることとなる。撫養城にはその家臣の真下飛騨守が入城した。しかし、長宗我部氏の支配が長く続くことはなかった。天正13年になると、秀吉による四国遠征が始まり、圧倒的な軍事力を持った豊臣軍がまたたくまに阿波を占領していったのである。

 阿波の北端を守る撫養城は枢要な城郭であり、蜂須賀氏が徳島に入部すると、ここには家臣の益田正忠を置いて支城管理を行わせた。慶長年間の分限帳面を見ると、益田氏は3500石ほどの所領を有していたという。

 しかし元和元年(1615)、江戸幕府により一国一城令が発令されると、長い歴史を持っていた撫養城も廃城を余儀なくされることとなる。その後、城址は「古城山」と呼ばれていたが、後に妙見神社が建立されることによって「妙見山」と呼ばれるようになった。

東側の、現在の登り口辺りからみた模擬天守。鳴門市内のどこにいてもこの天守が目に入ってくる。 2郭にある妙見神社。「城郭体系」によると、この神社の背後に見られる石垣は、城本来のものであるという。
この城には他に誰もいなかったが、2匹の子犬がうろついていた。なんだか人なつっこい犬で、やたらと私たちにまとわりついてきた。生後1ヶ月くらいであろうか。犬もこのころが一番jかわいいものだ。 主郭に建つ模擬天守。この天守の建設によって、本来主郭にあった遺構は、ほぼ壊滅してしまったに違いない。



























大竹屋旅館