*参考資料 『日本城郭体系』 『図説中世城郭事典』

*参考サイト  ちえぞー!城行こまい  サボテンと城と山  四国の城郭探訪  城郭放浪記

一宮城(徳島市一ノ宮)

*鳥瞰図の作成に際しては、『図説中世城郭事典』および現地案内板を参考にした。

 一宮城は、一宮神社の南側にそびえる比高120mほどの山稜一帯に築かれている。北側山麓の一宮神社から遊歩道が付けられているので、それにしたがって登っていけばよい。車も神社の駐車場に停めておくことができる。

 そこから遊歩道を上がっていく。最初は登りが少しきついが、すぐに尾根に出て、後は平行移動が中心となるので、それほど大変な登城道ではない。それに、ここの石段は、登城道にしては珍しく、段の幅が小刻みに造られているので、とても歩きやすいのである。快適な遊歩道である。

 登っていく途中に「経筒出土地」というのがあった。そこからわりと平坦な尾根を緩やかに降って上がっていった所に平場があり、米倉跡という案内がある。

 そこから曲輪群の脇を通って財蔵丸の方に向かっていくのだが、見ると、郭側面の城塁には石垣が築かれている。わりと小さな石を用いたのもので、色が土壌と似ているために、なんとなく土に埋もれているようにも見える。それでも石垣が長く続いている様には迫力がある。この斜面をよじ登ることは不可能であろう。

 その先に水を貯める井戸状の仕掛けがあり、そこから城塁側面を折れるように登って行ったところに財蔵丸と明神丸との間の堀切がある。
 
 堀切の左手には切り通しの虎口があり、その上が財蔵丸である。長軸50mほどの細長い曲輪である。

 そこから明神丸城塁下を通って、本丸下の尾根部に出る。この尾根部に出るところの虎口には石積みが見られ、櫓門でもあったのかと推測したくなる場所である。

 この尾根の南西側上が明神丸。長軸30mほどの郭で、入り口は切り通しの虎口になっている。それと対峙するように北東側にあるのが本丸である。この城は、それぞれの郭が独立状に別々のピークに存立しているのが特徴となっている。

 本丸直前まで行くと、立派な石垣が構築されているのに圧倒される。一宮城を紹介する写真で必ずといっていいくらい選択されているのが、この本丸入口の石垣である。在地の石垣にしてはあまりにも立派なこの石垣は、天正13年以降入部した蜂須賀氏による織豊期のものではないかという気がする。石材も徳島城のものと近く、横に筋の入った独特の石材である。

 本丸もピークを削平したもので、広さはあまりない。長軸40mほどであろうか。しかし木が1本も生えてなく、すこぶる眺望が良い場所である。ここから南側に降りたところに釜床跡があった。籠城時、ここで炊事が行われていたらしい。

 そこから下に降りると、「陰滝」に行く道と、「花畑」「小倉丸」を経由する道とに分かれている。「陰滝」コースを選ぶと、そのまま下の貯水池に直行するのだが、「小倉丸」コースなら、途中の曲輪群を見ながら、山稜を回って陰滝に着くようになっている。いずれにせよ陰滝に出ることになるのである。ここは迷わず、「小倉丸」コースを選択した。

 道は降っていくが、途中から小郭群の脇を通るようになる。道の下には腰曲輪もあり、そこに「花畑」の案内がある。谷戸部にはいくつかの平場があり、そこが畑として利用されていたものらしい。本当に花を植えるためのものであったかどうかは分からない。

 小郭の間には堀切が残っている。郭内部は整備されておらずヤブ状態である。さらに進んでいくと、鉄塔が見えてくる。

 その先の小倉丸は何とか登れたが、上は半分ヤブで、いまいち形状がよく分からなかった。その先の椎の丸になると、ヤブはもっとひどく、かろうじて人一人が通れるだけの小道分の草が刈られているが、内部はシダ類が繁殖しており、冬場でもさっぱり形状がつかめなくなってしまっている。仕方がないので、椎の丸で撤退し、水の手丸まで行くのは諦めることにした。

 椎の丸下から降りていくと貯水池の跡に出た。池といっても、現在はほとんど水が溜まっておらず、枯れた状態にある。とはいえ、少し手を入れたら再び水を貯めることもできそうな感じがする。このような山中に池があるというのも不思議だが、籠城するためにはこれほどの池があるのが理想的である。

 池の下が大きな岩になっている。そこからは鎖場のようにロープに掴まりながら降りていくのである。落ちたら危険な岩場である。とはいえ、ちゃんと石段が着いているので、それほど緊張せずとも無事に降りることは可能であった。下から見上げると、高さ10mほどもある岩場の上から小さな滝が流れている。これが例の陰滝というものらしい。

 そこからは山道をそのまま降って行った。すると、西側経由から一宮神社に降りていくことができた。遊歩道はちょうど城域を一周して神社に戻れるように付けてあったのである。理想的な遊歩道である、といっていい。

 一宮城は徳島を代表する山城で、その規模は阿波最大であるという。。曲輪の数も多いので、多数の兵を籠城させることも可能な山城である。ただし、それぞれの郭の独立性が高すぎて、連携ができにくい構造である。地形なりに仕方のないことであるのかもしれないが、わりと古いタイプの山城であるというべきであろう。

北東から遠望した一宮城。ここからの比高は120mほどある。 山麓の一宮神社。この駐車場に車を停めておくことができる。
登城道を上がって行くと、米倉跡の先の曲輪側面から石垣が積まれているのがよく見える。 小さい石だが、城塁に沿って長く続いている。よくぞ崩れずに残っているものだ。
財蔵丸と明神丸との間の堀切。深さ7mほどもある。左側は財蔵丸への虎口となっている。 明神丸下尾根部分へ続く虎口。かつて櫓門でも建っていたのであろうか。
明神丸の虎口。石段が付けられている。 明神丸の反対側にある本丸の虎口。かなり立派な石垣である。石段は急で登りにくい。
本丸石垣の北西側部分。石材は徳島城のものとよく似ている。 本丸内部。木が生えていないので、非常に眺望が利いている。
本丸南側の石垣。 本丸から小倉丸方向に降りていく。途中の花畑上の郭の間にある堀切。
鉄塔を越えた先を登ったところが小倉丸である。写真はその内部。細長い郭で2段に分かれている。 さらに尾根を進んで椎の丸内部に入る。こちらはまったく整備されておらず、シダ類が繁茂していて、なんだかよく分からない。
椎の丸から降っていったところの谷戸内部にある貯水池跡。現在ではほとんど水が溜まっていない。 貯水池ノ下にある陰滝。高さ7mほどの岩場である。城内に滝があるというのもすごい。
 一宮城は南北朝時代の暦応元年(1338)、小笠原氏出身の一宮氏によって築かれたという。確かに、南北朝時代の山城と言われれば、それらしい立地のような気がする。

 その後代々一宮氏の居城となっていたが、天正10年(1582)、長宗我部氏の侵略を受けた、というように現地案内板や『日本城郭体系』には記されているが、『細川家記』を見ると、

「一宮氏はもともと勝瑞城の三好氏とは対立関係にあり、しょっちゅう戦をしていたので、長宗我部氏を一宮城に迎え入れて、三好氏を攻撃した」といったようなことが書かれている。

 つまり、長宗我部氏に攻撃されたのではなく、自ら長宗我部氏に加担することで、宿敵三好氏を打倒しようと図ったのである。そのため一宮城は、勝瑞城攻撃の本拠地となったようだ。

 その後、一宮氏は長宗我部氏の配下となっていたが、天正13年(1585)、秀吉による四国征伐が行われると、蜂須賀勢らによって攻撃され、城を明け渡すことになる。

 戦後は、阿波一国の支配者となった蜂須賀家政の家臣、益田長行が入城し、城を整備し織豊期城郭にふさわしい構えとした。本丸の石垣などは、この際に築かれたものであると思われる。

 だが、元和元年(1616)、一国一城令が発布されると、一宮城は廃城となってしまうのであった。




勝瑞城(藍住町勝瑞)

 勝瑞城は、勝瑞駅の北西800mほどの所にあり、現在は見性寺の境内となっている。地図にも「勝瑞城跡」と掲載されているので、場所に迷うことはない。

 この城には以前から来て見たいと思っていた。というのも、『元親記』『三好記』など各種の記録に現われてくる勝瑞城攻めの記事が印象的であったからである。

 天正10年(1582)、2万の軍勢を率いた長宗我部元親はこの城を囲んだ。内部に籠るのは十河存保率いる5000の兵。堀一重の城内には櫓などを多数建ち並べていたという。

 ところが、この城を囲んでいる最中、稀に見る大洪水が起こって、城の周囲を水浸しにしてしまった。攻め手の土佐勢もみな、水に流されそうになってしまうという按配であったという。・・・・この記事については、後で詳しく述べてみたいと思う。

 ここで『元親記』『三好記』などから読み取れるのは
@勝瑞城は、堀一重だけの平城であった。
A城内には多数の櫓を建ち並べていた。
B城内には5000の兵が籠り気炎を上げていた。
C洪水が起こったが、城内は無事であった。

 といった具合。
 この記述からすると、勝瑞城は、堀一重とはいえ、方200m以上はある大城郭であったと思われる。
 しかし、現状の勝瑞城は、80m×60mほどしかなく、とてもではないが、この城に5000人が籠ることは不可能である。もちろん多数の櫓を挙げることもできないであろう。

 想像するに、現在残されている部分は本丸だけであり、これを大きく囲んで外郭部が存在していたのではないだろうか。でなければ十河存保も、この城に籠城して2万の軍勢を迎え撃とうなどとは思わなかったに違いない。

 しかし、平城であるため、そとから内部の様子はよく見えなかったので、攻め手は「堀一重」というように見えてしまったのではないだろうか。「元親記』は実際に元親の家臣だった者が書いているので、その内容はだいたい信用できると思う。

 洪水に見舞われた時にも、外郭部はそれに対応できるほどの、かなりしっかりとした構造のものであったのだと思う。それだけの城であったからこそ、十河存保は、ここで決戦を迎える決意をしたのであろう。

 もっとも、援軍のないまま長宗我部の大軍に抵抗できるはずもなく、やがて和睦した十河存保は、勝瑞城を明け渡して、讃岐へ引き上げていくことになる。

勝瑞城南側の堀。 同じく南側の堀と見性寺。土塁はこちらがわには見られない。
城内の様子。 北側の堀と、架かっている橋。
 勝瑞城は吉野川の下流の平野部に位置しており、古くから阿波国の中心となっていた重要な城郭であった。室町時代初期のころに細川氏によって築かれたのに始まるという。(ただし、この守護館は、現在の勝瑞城ではなく、南西に隣接した位置にあったらしい。)

 天正10年、四国制覇を目指す長宗我部元親は、2万の軍勢を率いて、勝瑞城を囲んだ。守るのは「鬼十河」と呼ばれた名将十河存保である。
 この戦いについては各種の記録に出てくるので、それらの内容を簡単にまとめてみよう。


『元親記』
 天正10年8月28日、中富川の戦いに勝利した後、長宗我部軍は勝瑞城を囲んだ。5,6日して、紀州雑賀衆が加勢に着陣した。
 10日後、大水が出て、阿波下郡一帯は海となってしまった。船もなく、諸陣の連絡も途絶えてしまう。本陣は城の戌亥にあった禅寺で、そこに櫓をくみ上げて、元親は全軍の指揮をしていた。

 攻め手は櫓を多数組ませて、水につかりながらも攻め口を緩めずにいた。諸陣の連絡も、近臣を泳がせて伝えていた。水が多くて飯が炊けなくなり、軍勢が飢えに及びそうになったので、本陣で大量の飯を炊き、1日1度それを諸陣に配っていた。

 撫養城から、兵糧を入れるための船が2艘、勝瑞城に接近したが、攻め手は鉄砲でこれを攻撃した。

 大水は4,5日たってようやく引いてきた。城攻めから17,8日ほどたって、城内から和睦を請うてきた。しかし元親は「この機会に三好氏を滅ぼす」という覚悟で和睦を受けないでいたが、城方は再度降伏を願いいれて来たので、元親も、開城することを許した。


『長元物語』
 中富川の合戦で勝利を得た後、十河存保(この書では三好正安)を勝瑞城へ取り込め、昼夜を分かたず攻めていた。その時、突然大雨が降って、阿波は一面に水浸しになってしまった。攻めての軍勢は桑の木に柵をかけて、その上に登っていた。

 元親は、信親と共に萩原寺という寺の屋根に登って指揮を取っていた。水は4日めからようやく引いてきたので、勝瑞とは扱い(和睦)になった。


『三好記』
 勝瑞城は、堀もそれほど掘らず、わずかに塀一重ほど塗って、方1,2町には過ぎないほどの規模であった。そこに櫓を14,5建ち並べ、5000ほどの人数が籠城していた。十河の家臣木村は、勝瑞の在家を一軒残らず焼き払い、城は静まりかえって、戦いの時を迎えようとしていた。

 元親は勝瑞の北の龍音寺に本陣を構えていた。長宗我部軍が在家の焼け跡に陣を構え、城を攻めようとしていたところ、9月5日の日没の頃、急に天がかき曇り、風が吹き、車軸を流すような大雨が降って来た。山を揺るがすように雷も鳴りだした。これによって洪水が起こり、攻め手は木の梢や民家の屋根に登って、かろうじて耐えていた。

 そこへ三好方の船が来て、城中に兵糧や玉薬を引き入れたので、城内の兵の意気は上がり、船に乗って出て、梢につかまっている攻め手の兵を槍や鉄砲で次々に射殺していった。

 これには寄せ手もたまらず、城方へ扱いを申し入れて、和睦ということになった。十河存保は城を明け渡して、讃岐へと立ち退いていった。


『昔阿波物語』
 中富川の合戦の後、長宗我部軍がすぐに追撃すれば、十河存保を討ちとることもできたのに、池淵というところでゆっくりと昼食休憩をとっていたので、その間に十河勢は、城内に戻って籠城の用意をしてしまった。

 政安(存保)公の城(勝瑞城)は、築地の中10間四方ほどであった。籠城の覚悟を決めた人もいれば、覚悟が決まらず騒ぎ立てる人もいたので、木村という人が、城下へ出て民家を焼き払って、覚悟を決めさせた。
 政安は「民家をあらかじめ焼き払っておかなければ、城が火攻めに遭ったかもしれず、手柄である」と言った。

 9月5日、大雨大水が出た時に、元親は龍音寺という寺院を本陣にしており、軍勢の大半は、勝瑞の町の焼け跡に陣取っていた。諸陣と元親への連絡もままならない時、城方へ、船5艘が兵糧を入れてきた。攻め手には船もなくどうしようもなかったので、ここで和睦となり、政安は城を立ち退いた。

 
 『元親記』『長元物語』は長宗我部氏の直接の家臣が記述したものであり、その内容はだいたい信用してよいと思う。また、『三好記』「阿波物語』事件当事者からの聞き取りを基にしているようなので、それほど創作度の強いものではない。上記の4書の内容は、大きく違ってはいないので、当時の状況はだいたいこんなものだったのではないかと思う。

 最大の相違点は、長宗我部方の『元親記』『長元物語』は、十河方から和睦を申し入れたとあるのに対し、十河方の『三好記』『昔阿波物語』は、長宗我部方から和睦を提案したとなっていることである。

 どちらが正しいのか、これだけからでは判断しかねるが、結局の所、和睦によって城を長宗我部軍に渡しているのだから、十河方の方から和睦を申し入れてきたと見る方が自然な気がする。

 これによって、長宗我部氏の阿波での覇権は確立していくことになるのである。そういう意味でも、この城の攻防戦は歴史に残る一戦であった、といえるのではないだろうか。   




 以前、勝瑞城は上記の単郭の城郭のみかと思っていたのだが、近年発掘調査などが実施され、実際には複数郭を有する大規模な城館であったことが明らかになってきた。そこで勝瑞遺跡デジタル博物館守護町勝瑞遺跡のページの内容を参考にして描いてみた鳥瞰図が右のものである。ちなみに、勝瑞城と勝瑞館とは合わせて「勝瑞城館」として国指定の史跡となっている。

 こうしてみると、現在の勝瑞城は、旧来の勝瑞遺跡の一部に取り込まれるようだ。もともと端の1郭であったものが、後に堀を拡張して、藩独立状の城郭となったものだろうか。
 
 勝瑞館は多数の郭によって構成されていたようで、それならば上記の勝瑞城の解説にあるように、長宗我部元親に攻撃された際に、5000の兵が籠城していたというのも信憑性を帯びてくる。

 中央にある主郭部からは主殿や庭園などが置かれ、守護所として整備されていたらしい。


























勝瑞館発掘の様子。































大竹屋旅館