徳島県吉野川市

*参考資料 『日本城郭体系』

*参考サイト  城郭放浪記

上桜(うえざくら)城(吉野川市川島町桑村710−8)

 上桜城は妙啓寺の南側にそびえる比高110mほどの山稜に築かれている。

 この城にアクセスするのは容易で、尾根基部の部分まで車で行くことができるのでとても楽ちんである。尾根基部はこの位置である。林道ではあるが、ちゃんと舗装されたいい道であり、まったく運転に不安はない。ここまでくれば城址案内板が立っているのが見えてくる。駐車場は特にないが、路肩の脇に寄せて車を停めさせてもらっても大丈夫であろう。

 この案内板のある部分の背後も削平された平場5になっており、郭であったようだ。5郭は尾根基部からアクセスするルートの番所のようなものだったであろうか。

 城址に行くためにはまずはいったん尾根を降って行く。10mほど降ると後は平坦な尾根となっている。これをどんどん進んでいくと正面に城塁らしきものが見えてきた。ここからが主要部ということになる。尾根基部に堀切がほしいところだが、特にそのような配慮はなされておらず、背後からの攻撃に関しては非常にもろい構造である。

 一段あがるとさらに高い城塁が見えてくる。その脇を上がっていくと、もうそこが1郭である。振り返ってみると、高い城塁と見えたのは、大きな土塁であった。この土塁には何かの祠が祭られており、また前面の下に「上桜城址」と刻まれた城址碑が建てられていた。

 1郭は東西に長く、長軸30mほどの規模である。ここからの眺望は非常に利いており、北側の真下には川島城の模擬天守もよく見えている。

 1郭の東側の一角が虎口状に割れており、そこから降った先が2郭である。その先に3郭・4郭と続いているが、地形なりに段々に郭を削平しただけの城郭で、構造はいたってシンプルなものである。

 なお西の丸と呼ばれる区画もあり、そこには北と南に堀切が残されているということであるが、西の丸自体がどこなのか、よく分からなかった。

 上桜城は、それほど新味もなく、わりと古いタイプの山城であった。しかし、ここで大規模な攻城戦が行われ、多数の人員が戦死していることを思うと、それなりの感慨がある。虚偽の讒言によってここで攻め殺されてしまった篠原紫雲はさぞ無念であったことであろう。



 上桜城がいつ築かれたのかは明らかではないが、一説によると、南北朝時代のことであるという。そのことは伝承によるものに過ぎず、史料によって明確に位置付けられているものではない。ただ、この程度の単純な構造の山城は南北朝時代のものという想定にぴったりと当てはまる。城の規模や構造からすると、その可能性は大いにありといっていいのではないか。

 戦国期の上桜城主は篠原長房(紫雲)であった。長房は三好氏の有力家臣であり、三好氏に従って機内各地を転戦するほどの武将であった。永禄7年以降は織田信長の軍勢とも何度か干戈を交えている。

 永禄5年3月5日、和泉久米田の戦いで、長房の主君三好義賢が討ち死にして阿波勢は総崩れとなった。長房はこの敗軍の責任を取って髪を下した。以後は紫雲と号するようになる。その後の紫雲は、義賢の子供で、当時まだ8歳であった長治を盛り立て、領内をよくまとめた。三好氏中興の立役者とでも言っていいほどの人物であった。

 ところで、討ち死にした義賢の妻小少将が希代の美女であったというのは有名な話である。彼女は一種の妖女であったとも言われる。小少将はその妖艶さをもって木津城主の篠原自遁を誘惑し、二人で愛欲に満ちた関係を続けていた。しかし、そのようなことが他者に知られないわけがない。

 紫雲は、この関係を憂慮し何度も自遁に自制を呼びかけた。しかし自遁は紫雲の言うことを聞かないばかりか、紫雲の存在そのものを鬱陶しく思うようになった。かえって長治に、「紫雲が謀反しようとしている」と讒言するに至る。

 これによって、三好長治、十河存保、森飛騨守、伊沢右近らの率いる兵は、元亀3年(1572)5月、勝瑞城から出立し、上桜城を取り囲んだ。攻城側の兵数は7千。上桜城の兵たちは果敢に戦ったが、衆寡敵せず、7月16日に城兵たちのほとんどは討ち死にしたと言われる。攻城側の被害も大きく、攻守合わせて3千人近い死者が出たという。

 三好家を守ろうとした紫雲を三好家の内紛で失ってしまったのである。これ以降三好家はどんどん没落してしまうことになる。

北側から遠望する上桜城。中央の手前の山である。比高100mほどある。 1郭の土塁に祭られている祠。
1郭内部。 1郭からは山麓の川島城がよく見えた。
1郭東側の虎口。 林道脇にある城址案内板。ここから少し下った先が城址である。




青木城(吉野川市山川町古城139−11)

 蛍川の南側は比高20mほどの河岸段丘になっている。川に削られたこの鋭い天然切岸上に築かれたのが青木城である。

 城址は大師堂と墓地になっていて改変が著しい。それでも部分的に城郭らしい雰囲気を感じることができる。現状でもっとも城郭らしく見えるのは東側の城塁である。この間を抜けて大師堂前に上がってくる道もかつての堀の跡であると言われる。

 『城郭体系』によれば、大師堂の背後には二重の堀切があったという。しかし、現状ではその名残すら見つけることができなかった。しかし、戦後直後の航空写真を見ると、1本の堀らしきものを見ることができる。

 通路を挟んで南側には矢塚と呼ばれる土塁が残されている。この塚の南側が水堀の跡であるという。水堀はかつて10間(18m)ほどの幅があったというが、現状では明確に堀跡であったと看取することはできない。ただしそれらしい雰囲気はなんとなく残されている。

 現状ではこれだけである。規模からすると方100mほどの単郭居館と同程度のものであったろう。



 現地案内板によれば、青木城は天文3年(1534)に市原石見守兼継によって築かれたものであるという。市原という姓から分かる通り、この人物は上総国市原郷の出身であった。南北朝時代に足利尊氏に従って功績を挙げ、この地の領主となった人物である。

 市原氏はもともとは瀬詰城を居城としていたが、土肥居因幡守と、領地であった大塚二町の地と、この地とを交換してこの地に移り住んできたものである。

 かつての城は、東に安楽寺丸、西に太郎丸、南に中の丸、幸神丸と4つの郭から構成されていたという。また、西側には二重の堀の痕跡が見られるとも書いてあったが、実際にはわからなくなってしまっている。

 天正6年、城主市原兼頼は、長宗我部氏の侵略の際に、井上城主土肥秀光らとともに脇城近辺に出陣したが、討ち死にしてしまったという。

北側下の蛍川付近から城址方向を見たところ。 1郭の城塁。
城内にある大師堂。 矢塚。この右側がかつての水堀であったらしい。





































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