島根県益田市

*参考サイト 山城攻城記

石見七尾城(益田市七尾)

七尾城の位置はここ。

*広島のAさんからの依頼で、Aさんからいただいた図面をもとに作成した鳥瞰図。というわけで、まだこの城には訪れていない。

以下は山城攻城記より引用。

国指定遺跡  益田氏城館跡 七尾城跡

七尾城は、中世の有力武士団益田氏が本拠とした山城です。全長は600mで、西側には畝状竪掘群を備えて防御を固めています。
南北朝時代の初期にはすでに築城され、関ヶ原の戦いの後に廃城となりましたが、大手門は移築されて医光寺総門として現存しています。
発掘調査の結果、本丸、二の段を中心とした主郭部分で、櫓門や主殿、会所、倉庫などの礎石建物や庭園跡が発見されました。
土器、陶磁器の大半は16世紀第3四半期のもので、出土した大量のかわらけ(土器の皿)は、城内で酒宴を伴う儀式が行われていたことを物語っています。
天文20年(1551)の陶晴賢の挙兵に関わった益田藤兼が、毛利氏との緊張が高まる中で七尾城を大改修して居住し、天文11年(1583)の子の元祥とともに下城して再び三宅御土居に居を移したという益田家文書等の記述が、遺構と遺物の両面から確かめられました。
城と館がセットで残る貴重な例ろして、さらに、中国地方の歴史を考える上で重要な遺跡として、益田氏館の三宅御土居跡とともに国史跡に指定されました。

平成22年10月 益田市教育委員会

看板より


1118年 益田氏の祖、藤原国兼が石見国司として下向すという
1180年 「益田荘」初めて史料にみえる
1184年 4代兼高 藤原兼高が石見国の押領使に任命され、平家方武士の追討を命じられるという
1190〜1199年 藤原(御神本)兼高が国府から益田に本拠を移し、益田氏を名乗ったという
1274年 蒙古軍が日本を攻める(文永の役) この頃より石見十八砦を築くという
1281年 蒙古軍が日本を攻める(弘安の役) 益田川を七尾城の外堀として改修すという
1326年 南北朝の内乱石見全域に及ぶ 三隅兼連は七尾城を攻める(尾崎丸で戦いが発生する)
1363年 11代兼見が医光寺を建立する
1368年 大谷土居焼失すという この後兼見が三宅御土居を築くという
1467年 15代兼堯は高橋、三隅、福屋、周布などの諸氏と一揆契約を結び、石見国人一揆の代表となる
1508年 17代宗兼が足利義稙・大内義興に従って入京
1543年 大内義隆が出雲富田城を攻める(益田藤兼が先陣)
1551年 陶晴賢の反乱により大内義隆が自害し、大内氏滅亡このころより19代藤兼が七尾城を改修し山頂に居住し始める  
1555年 毛利氏が陶氏を滅ぼし、石見に進出
1557年 藤兼が毛利に降る
1566年 出雲富田城が落ち、尼子氏滅ぶ
1582年 二十代元祥 本能寺の変 毛利軍(元祥従軍)、秀吉と和睦する
1583年 元祥、三宅御土居を改修し、父藤兼とともに七尾城から下城する
1600年 関ヶ原の戦いの後 元祥は毛利氏に従い長門須佐(山口県須佐町)に移る





































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