島根県松江市

*参考資料 『日本城郭体系』

松江城(松江市殿町城山)

 松江城に初めて訪れたのは確か1985年の夏であった。就職して初めて金銭的に余裕ができた私は、その年の夏から全国各地の城を回り始めた。当時の彼女と一緒にいろんな城を回ったものだったが、山陰山陽の城めぐりの第一弾として来たのが、ここ松江城であった。当時は車など持っていなかったので、新幹線で岡山まで行き、そこから伯備線の特急に乗り換えて、遠路松江までやって来たのである。

 松江城を見た後、その日は松江プラザホテルというホテルに宿泊したのだが、そこでちょっと印象的な出来事があった。

 その日は暑くて疲れてしまっていたので、早めに休んでいた。すると部屋の電話がプルルルと鳴り出した。

「もしもし」と答えると、相手は
「余湖さんですか?」という。
「そうですよ」と答えると「こちらも余湖です」という。「えっ?」

 相手は私の弟であった。偶然その日、同じホテルに弟も泊まっていたのである。弟に松江に旅行するなんて話はしていなかったし、こんな地方のこんなホテルでたまたま一緒になるなんて、偶然にしてもよくできすぎている。こういうことってあるもんなんだなあ。

 弟はかなり遅くホテルに着いたらしいのだが、この珍しい苗字を見て、ホテルの人に「先に来ている余湖さんとはお知り合いですか?」と聞かれたらしい。それで私が泊まっていることを知り内線電話をかけてきたというわけだ。さらに弟と話をしていると、

「昨夜は備中松山城に泊まったよ」という。ふ〜ん、そう、俺も明日は備中松山城による予定なんだよ。え? ちょっと待てよ。泊まった? それってどういうこと?

「城に夕方から登り始めたもんだから、着いたらすでに薄暗くなり始めていて、降りるのもめんどうだから、そのまま本丸で泊ったんだよ」

 なんとまた大胆な! あそこでは何度も合戦をしているし、死んでる人もたくさんいるはずだが・・・・・。

「あんな山城で泊まって、怖くなかった?」と思わず尋ねた。
「うん、夜中になったら猿が大挙して集まってきて、うるさくて、熟睡できなかったよ」
 そうじゃないでしょ。

「それより、そんな所に一人でいて危なくなかった?」
「猿たちがたくさん天守の屋根に登って暴れだして、天守の瓦が割れるんじゃないかと心配だったけど、大丈夫だったよ。さすがに城の屋根は丈夫にできているみたい」
 だから、そうじゃないって。

 その日、私は疲れてしまっていたので、弟とは電話で話をしただけで、結局顔を見ることもなく、次の朝早くには松江を出発した。次の目的地は、もちろん、備中松山城である。常識人の私は歩いて登ることもせず、山に泊まるなんて言う無謀なこともしなかった。ただ、山道を歩いていて、途中の「猿に注意! 目を合わせないで」という看板が目に付いた。なるほど、これのことね。

 松山城の管理人のおじさんにふと、「ここって夜泊まれるんですか?」と冗談っぽく聞いてみた。すると、
「それは無理だよ。夜になると猿が集まってきて危険だから、泊まるなんて、絶対無理!」ときっぱり言われてしまった。そりゃそうだよなあ。

 その時の旅は、山陽道に出て、岡山城を見て、倉敷を散策してそこで宿泊。翌日は姫路城の再訪、彦根城に寄り、さらに北陸道へ出て、福井城を見た後、福井に泊まった。翌日は丸岡城を見て、北陸路をひたすら進んで新潟へ出て船に乗り、佐渡へ帰省したのであった。

 その後も、彼女とは全国の城を回っていた。その彼女はやがて私の嫁さんとなり、結婚後も城めぐりの旅は続いていた。しかし1987年、私の城めぐりはいったん終わりを告げる。理由は単純なことで、その年の夏、私に初めての子供が生まれたからである。女の子であった。

 それからの私は、城めぐりの旅に出ることをやめ、毎日、子供の世話をすることになった。休みの日には必ず一緒に子供や女房と過ごしていたし、子育てにはかなり積極的に参加していたと思う。当時は夜の仕事をしていたこともあって、朝遅くまで寝ている私は、夜中のおむつ替えやミルクは必ずやっていた。なかなか夜に寝付いてくれない子供で、夜中に何度もミルクをあげていたのを今でもよく覚えている。ミルクをあげて、げっぷをさせて、おむつを替えて、とやっていると、すぐにまたミルクをあげる時間になってしまうのであった。夜、ずっと寝ていてくれないので、今思っても、けっこう手がかかる子であった。昼ごはんも毎日私が作っていた。

 その子供はやがて保育園に入り、小学校に入学した。保育園に通い始めて1年たったころ、子供は毎週日曜日にプールでスィミングを習うようになり、休みの日には午前中にプールに連れて行き、午後は近所の公園に遊びに行く、というのが日曜日の日課になった。当時はまだ土曜日が休みでなかったから、週一度の休日はいつもそうやって過ごしていた。城なんか回らなくても、それで毎週とても楽しかった。 

 子供が成長して中学校に入るようになると、プールも辞めていたし、もう手がかからなくなっていた。土曜日が休みのことも多くなり、私には再び自由にできる時間が戻ってきた。1996年に自分のホームページを開設すると、その内容を充実させるために、再び城めぐりを始めようかという気持ちになった。そして、10年ぶりに私はまた城を回る男となったのである。

 その間、娘は高校生になり、大学生になった。土曜日にはいつも家にいない私であったが、日曜日は家にいて家庭サービスをする日、と決めていた。だから日曜は必ず、子供たちと近所の図書館やデパートに行き、お昼を食べて帰る、というのを日課としていた。そんな日が何年も続いた。

 そのうち娘は車の免許を取った。そうなると、運転手が二人である。今度は子供たちを連れて旅行に行き、レンタカーを借りては、上の娘と交代交代で運転しては、各地を旅行したものだ。

 2006年の暮れには、上の娘と二人で車に乗って遠路四国の城めぐりをして帰ってきた。自分の子供の運転する車であちこち出かけるというのは何とも楽しいものであった。

 ・・・・・・その娘が、今年の夏、急に亡くなってしまった。21歳になる直前のことであった。私はどうしていいのか分からず、ただただ悲嘆に暮れているばかりであった。生きるささえがなくなった、というよりも、自分自身が生き抜いていく気力すらすっかり喪失してしまって、ただただ茫洋としていた。


 20数年ぶりに松江城にたたずんだ私の胸裏に飛来していたのは、この間に過ぎ去った年月の長さと、そこに詰め込まれた記憶の多さとであった。前回松江城に訪れてから、今回の再訪までに自分の人生で起こってきたすべての出来事が凝縮されて脳裏に浮かんできた。その間の思い出はあまりにもたくさんありすぎて、自分の小さな胸からはじけだしてしまうのではないかと思った。正直、松江城に来ること自体、どうしようかとも旅の前には思っていた。

 でも、再びこの城にたたずみ、自分は自分の道を生きていかねばならないのだ、ということも少しだけ自覚できたような気がする。23年も前に城めぐりをスタートさせたこの城から、また新たに自分の旅を始めたい、そう思えるようにやっとなってきた。

 これから先、自分の人生にはどんなことがあるのだろう。ただ、少なくとも20年間も育て一緒に過ごしてきた子供を失う以上にせつないことは、もうないだろう。あれこれ考えると悔やむことばかりである。でも、いくら考えてもしょうがない。過去をやり直すなんてことは出来やしない。人はただ、今を一生懸命に生きていくべきものなのである。何かをし続けること、それこそが生きている証であるといえるだろう。

 自分は今一度、スタート地点に立ったんだ、とそう思う。

西側駐車場近くにある掘割から遥か城址を遠望した所。天守の屋根が少しだけ見えている。大手前の駐車場がいっぱいだったので、こんな遠くまで停めにこなくてはならなかったのである。 城の西側の堀。幅が広く、深さもありそうだ。この堀には遊覧ボートがひっきりなしに通っている。以前はこんなのはなかったような気がする。
城山稲荷と護国神社のある北の丸方向から城内に入り込んだ。 北の丸と本丸との間の堀切。本丸側には高い石垣がある。
本丸北側の石垣。野面積みでよくぞここまで積み上げることができたものだ。 本丸搦め手門方面の枡形の石垣。
本丸北の門跡。櫓門であった。 西側から見た天守。なかなかでかい!
入場券売り場のある南側の櫓前から見た天守。やはりこの角度が一番絵になるようだ。 正面から見た天守。天守台の縁きっちりに建物を建てているのがすごい。
天守内部にある井戸。 天守内部にはシャチホコが展示されていた。
松江城天守の木組模型。 天守から本丸内部を見たところ。
天守から遠望する宍道湖。なかなか景色が良い。それに風が通っていて、けっこう涼しい。 天守内部。観光客でいっぱいである。
天守内部の階段。 本丸入口にある多聞櫓。
本丸南門。 平成になって復元された太鼓櫓。単層の櫓である。
同じく復元された中櫓。これも単層だ。 そして南櫓。こちらは二層構造である。櫓とやぐらの間は土塀で接続されているのだが、この土塀、外側には下見板張りを張ってあるのに、内側は白壁のままである。防御的には逆にしたほうが火に強く、有利だと思われるのだが・・・・。
南櫓の内部。 太鼓櫓を城外側から見たところ。
大手枡形から二ノ丸に上がる石段。 大手枡形内部。かなり広い空間となっている。
大手枡形の外側の石垣と堀。 南櫓を城外側から見たところ。
同じく中櫓。 二之丸下の段外側の水堀。やたらと遊覧ボートが走っている。
北惣門橋。 北東側から見た松江城。中央奥に天守の最上層が見えている。
北側の堀沿いにある武家屋敷群の1つ。 北西側にある小泉八雲の旧宅。
(以前の記述)
 この天守、なぜか昔からとても好きだ。「一番好きな天守は?」と聞くと姫路城なんかを押す人がやはり多いが、この松江城の無骨な感じが、なんともたまらないのである。関ヶ原の役直後に堀尾吉晴によって築かれ始めた城だから、ちょうど初期望楼式天守の、最後の形態の一つと言えそうだ。付け櫓を附した主殿の上に三層の望楼を載せた形だが、三層目の張り出し風の漆喰造りの破風がなんともかわいいと思うのは私だけであろうか。華灯窓と両脇の窓がコアラの顔のようだ。最上層の望楼の造りも独特だ。天守内部に井戸があるのも珍しい。

(松江城の歴史)
 松江城を築いたのは堀尾吉晴である。関ヶ原の駅で東軍に味方した堀尾氏は、戦後、浜松12万石から、倍増の出雲・隠岐24万石の太守となった。
 堀尾吉晴が最初に入城したのは月山富田城であった。しかし、この城は中世から続く城であり、山奥に引っ込んだところにあるため、近世大名の城としてふさわしい地取りではなかった。そこで、宍道湖のほとり、水陸の要衝である松江に新城を築くことにしたのである。

 『城郭体系』によると、松江城建設の経緯は以下のようであった。
 慶長12年(1607)・・・資材運搬道路、橋梁の建設。城下町の造成と、本丸、二之丸の地ならしが行われる。
 慶長13年(1608)・・・本丸の石垣、天守台、内堀が造られる。北側の尾根続きの部分は、山そのものを削って平坦にするという大工事であったという。
 慶長14年(1609)・・・天守の建造、二之丸坂口、大手口枡形、大手堀の石垣、二之丸御殿の建造に着手。
 慶長15年(1610)・・・天守、二之丸御殿が竣工、堀も完成した。
 慶長16年(1611)・;・・この年が総仕上げの年であり、侍屋敷が完成して家臣団が富田城下から移住してきた。

 堀尾吉晴の後は忠氏、忠晴と続いたが、忠晴には嗣子がなく、堀尾氏は3代で断絶した。
 堀尾氏の後には京極忠高が入城したが、これまた嗣子なく、1代で断絶した。
 その後、寛永15年(1638)、信州松本から松平直政が入部してきた。この松平氏の治世は安定しており、10代続いて明治維新を迎えることとなった。


































大竹屋旅館