島根県奥出雲町

*参考資料 『日本城郭体系』

*参考サイト 山城攻城記

三沢城(奥出雲町奥出雲町鴨倉下鴨倉要害山)

三沢城の位置はここ

*広島のAさんからの依頼で、Aさんからいただいた図面(『島根県中近世城館跡分布調査報告書』)をもとに作成した鳥瞰図。この城にはまだ訪れていない。

以下、山城攻城記より引用

概 要
出雲最大の国人とされた三沢氏の居城として知られている。全山が要塞化しており、普請は十分である。
四日市方面は比較的緩やかな地形だが、西方の阿井川方面は急唆な地形となっている。山頂はほぼ同じ高さの郭が堀切を隔てて築かれている。
1郭を地元では「本丸」、2郭を「鳥居ケ九」と称しているが、2郭南端の上檀を櫓台と見るならば2郭が主郭になる。
郭2の東方には水の手とされる池を隔てて「十兵衛成」が築かれており、北側には横堀が確認できる。
虎口は随所に確認することができ、「大手口」には石垣が築かれている。尾根を削って土塁とし、防御ラインを構成する技法等から改修時期が新しいとも考えられる。四日市には「納戸垣内」、「座頭屋敷」、「成田屋敷」等の地名が残る。

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用


県指定史跡 三沢城
三沢城跡は北に斐伊川、南はその支流阿井川にはさまれた標高418mの鴨倉山を中心に位置し、山陰、山陽を結ぶ要衡の地につくられている。
築城は14世紀初頭に三沢郷地頭の三沢氏によって築城されたと伝えられ、北側と東側の尾根を中心に大小30以上の曲輪が確認されている。
地元では1郭を「本丸」2郭を「鳥居ケ丸」と呼んでいるが、南端の土壇を櫓台とみて2郭を主郭(本丸)とする考えかたもある。
虎口が数カ所確認されるほか、大手門には石垣が残っている。
三沢氏は、築城後勢力を拡大し、16世紀はじめ頃には横田庄内の高鰐山に藤ケ瀬城を築き、さらに仁多郡ほか大原郡にも所領を持ち、
出雲国内最強の国人として、後に出雲を支配する尼子氏にとっても侮りがたい勢力を持ったと伝えられている。
この城跡は、土塁、堀切、桝形など中世山城の遺構をよくとどめており戦国時代の豪快な縄張りの山城として貴重である。
なお、城域内の現在地からの登り道は比較的緩で、本丸まで徒歩20分の道のりである。

麓の看板より




馬木(まき)城(夕景城・奥出雲町小馬木矢筈山)

馬木城の位置はここ

*広島のAさんからの依頼で、Aさんからいただいた図面(『島根県中近世城館跡分布調査報告書』)をもとに作成した鳥瞰図。この城にはまだ訪れていない。

以下、山城攻城記より引用

概 要
夕景城は矢筈山とも称し、東西二つの嶺があり、それぞれに城郭が築かれている。主郭は西側の最高所と考えられ、尾根筋に櫓台を築いている。
主郭から北西に延びる土塁は防御ラインよりも風除けとして築かれた可能性も考えられる。
高所に築かれたにもかかわらず、普請は十分であり、主郭の西側には石垣のコーナー部分が確認できる。馬来氏の居城として知られている。

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用

歴史
明徳年間以前(1390〜1394) 山名師氏の子供氏綱が功により足利義満よりこの地を給せられ摂津国馬来郷より来住して築城する
1391年 明徳の乱において馬来満綱は山名方につき討死
戦国時代 尼子氏に従うようになる
1560年 三沢為清は三刀屋・赤穴氏らとともに毛利氏に降り、高野山久意と協力して馬来城に攻め寄せて落城する
1589年 馬来氏も毛利氏に帰服し、天正十七年(1589)、三沢氏とともに安芸に移住していったという。そのとき、孝綱は老齢であったことから馬来に     残り、幼少であった孝網の嫡子元貞が外祖父(山内氏か)に伴われて安芸に移り毛利氏に出仕した




藤ケ瀬城(奥出雲町横田)

藤ケ瀬城の位置はここ

*広島のAさんからの依頼で、Aさんからいただいた図面(『島根県中近世城館跡分布調査報告書』)をもとに作成した鳥瞰図。この城にはまだ訪れていない。

以下、山城攻城記より引用

概 要
斐伊川と下横田川が合流する位置に所在する。最高所は櫓台と考えられ、主郭は一段下がった郭とみられる。
尾根筋に深い堀切を築いて遮断している。主郭の西側は尾根の先端まで郭が築かれているが、いずれも北側を削り残して土塁とし、尾根筋に対する防御ラインを構成している。
主郭東方の中腹に築かれている郭は「馬乗馬場」と伝えられ、整地以前は多少の起伏があったものと伝えられる。
三沢氏は三沢城から藤ケ瀬城に居城を移したとされるが、櫓台を中心とした防御ラインの存在等から、毛利軍による改修強化の可能性もある。

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用


家系図

                                                         尼子晴久---尼子晴久娘            
                                                                  +                
三沢為長---為常---為忠(尾張守)---為時---為忠(信濃守)---為清---為忠(遠江守)------為幸------為清------為虎
                                                                          +
                                                              宍戸元続---宍戸元続娘


歴史
1509年(永正6) 三沢遠江守為忠によって築かれたといわれる
1514年(永正11) 尼子経久が攻め込むがなんとか踏みとどまり落城をさける
1531年(享禄4) 尼子経久が2万の軍勢で攻め込む 落城する 城主不在 (三沢氏が尼子配下となる)
1532年(天文元年) 尼子氏の代官が派遣され事実上尼子の勢力下におかれる
1540年(天文9)  三沢為幸が尼子晴久に従い吉田郡山城を攻めるが討死をする 尼子氏の大敗にて三沢氏が大内氏に寝返る
1542年(天文12) 大内義隆は毛利元就と共に出雲の尼子攻めを行うが大敗してしまう 再度尼子氏に帰順する
           この戦いによって藤ヶ瀬城の地も完全に尼子氏が領するようになる(尼子晴久が代官の森脇家貞を送る)

月山富田城の戦いで吉川氏らと共に尼子氏に寝返り、大内軍敗退の一因を作った。しかし三沢氏の独立性は高く、尼子氏の軍役を拒否して尼子氏との戦いに及んだ場合もあった。こういった反抗的な態度を取ってきた三沢氏に対して尼子晴久は横田荘の三沢氏領地や砂鉄産地・たたら製鉄場を取り上げ直轄化するなど、経久に比べて強硬的な姿勢で三沢氏と統治している
しかし、晴久の急死後から既に三沢氏も不穏な動きを見せていたこともあり、義久は父が取り上げた横田荘を返還した上で自らの妹を輿入れする等して懐柔しようとした

1561年(永禄4) 毛利元就が出雲へ侵攻すると赤穴氏や三刀屋氏と共に三沢為清も毛利に降伏し、その後は毛利軍の主力として活躍した 
           このころ藤ヶ瀬城も三沢氏の基に戻る

1574年(天正2) 三沢為清は隠居して亀嵩城を築きそこへ移動する(1577年頃) このころ息子の為虎は亀嵩城や藤ヶ瀬城を行き来している
1589年(天正17) 三沢為虎が安芸国に移る事になる この年は調度広島城が築城開始され毛利家臣は城下に住まわされる事になった
ちなみに藤ヶ瀬城には毛利輝元の家臣の杉原広亮が入城する(1409石を宛がわれる)
1600年(慶長5) 関ケ原の戦いにおいて萩に移動する































大竹屋旅館