島根県太田市

*参考資料 『日本城郭体系』

*参考サイト 山城攻城記

山吹城(太田市大森字要害山)

山吹城の位置はここ

*広島のAさんからの依頼で、Aさんからいただいた図面(『島根県中近世城館跡分布調査報告書』)をもとに作成した鳥瞰図。この城にはまだ訪れていない。

以下、山城攻城記より引用

概 要
大森銀山を押さえる城郭であったため、激しい争奪戦が繰り返されたようだ。現存する遺構は外桝形、内桝形、主郭の北側と南側の郭群を結ぶバイパスの存在、櫓台と虎口の関係等、近世初頭の城郭の姿を思わせる。また、大森の集落に面した主郭北側の郭にのみ石垣を築いたのは、ここに「見せる」ための建物を築いたためとも想像できる。主郭南側の堀も効果的に築いてあることが実感される。

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用


戦国時代、30年あまりに及ぶ石見銀山の激しい争奪戦の間、毛利氏が銀山を支配する永禄5年(1562)、大久保長安が銀山奉行となる慶長5年
(1600)などを大きな説目として山吹城は何度か改修されながら、石見銀山支配の軍事的な重要拠点としての役割を果たしました。

山吹城の施設は山の全体に広がり、特に山頂部には主郭を中心に堅土塁、空堀、石垣などが集中しています。主郭は長方形で南北52m、東西32m、主郭の南北に郭(平坦地)が階段状に連続しています。空堀は幅10mで主郭と堀との高低差が6mと深く堀には木橋がかけられていた可能性があります。南側の斜面にある連続竪堀は19本以上あり、戦国大名尼子氏が銀山と山吹城をおさえた時に築き、北側の郭にある堅土塁は毛利氏が築いたと考えられます。また主郭の北側の虎口には石垣を設け、周りからも城の存在が目立つようにしています。

山頂の看板より


歴史
1309年 (延慶2年) 銀山を発見した大内弘幸が築城したという(おそらくこの当時は砦みたいなものだったであろう)
1528年 (享禄元年) このころ大内氏が支配していたと考えられる
1530年 享禄3年)石見の国人領主・小笠原長隆が銀山を奪う
1533年(天文2年)
大内氏が奪回した。大内氏は山吹城を強化して石見銀山防衛の拠点とした。
1537年(天文6年)出雲国の戦国大名尼子経久が石見国に侵攻し、銀山を占領した。
1539年(天文8年)大内氏が奪還再度
1541年(天文10年)再度尼子氏が石見小笠原氏を利用して銀山を占領、大内氏と尼子氏による争奪戦が続く。
1551年(天文20年)大内義隆が陶隆房(陶晴賢)の謀反で自害すると(大寧寺の変)、厳島の戦い、防長経略の後に大内領を併呑した毛         利元就が尼子氏との間で銀山争奪戦を繰り広げた。
1556年(弘治2年)毛利氏が大内領に侵攻している状況の中、尼子晴久は石見国へ侵攻、山吹城主刺賀長信を自害させ、石見銀山を所領と         した(忍原崩れ)。
1559年(永禄2年)毛利軍が侵攻するも、降露坂の戦いにて撃退する
1560年(永禄3年)毛利元就が城主であった本城常光を降伏させ奪い返す
1562年(永禄5年)毛利元就は本城常光を暗殺して、石見銀山と山吹城を完全に手中に収めた。城には吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門が         置かれた。その後、毛利氏の勢力拡大によって、石見国全体は平穏な時期を迎えた。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、石見銀山は天領となり、大久保長安が山吹城に入った。山吹城を改修した長安であったが、
1601年(慶長6年)大森代官所に拠点を移し、山吹城は実質的に廃城となった。




鵜ノ丸城(太田市温泉津町大字温泉津)

鵜ノ丸城の位置はここ

*広島のAさんからの依頼で、Aさんからいただいた図面(『島根県中近世城館跡分布調査報告書』)をもとに作成した鳥瞰図。この城にはまだ訪れていない。

以下、山城攻城記より引用

概 要
温泉津湾の湾国の東岸に位置し、西岸の笹島城、沖泊湾を隔てた北方の櫛島城と呼応して、温泉津湾の湾口を掘している。
大手の桝形虎口を挟んで東側と西側の郭群で構成されており、西側の桝形虎口も北方の沖泊湾に向かって開口している。
東側の郭群には、銃陣を敷くため雛壇状の三段の帯郭が認められる。信頼できる文献史料によって築城の背景がわかる数少ない事例である。

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用


鵜丸城
鵜丸城は中世の港湾として繁栄した沖泊の南側の丘陵突端に位置する標高59m(比高55m)の海城です
毛利氏によって元亀2年(1571に毛利水軍の拠点として約1か月で築城されたことが「児玉伝右衛門家文書」(萩藩閥閲禄)に記されており
文献資料によって築城の背景が分かる数少ない事例です。
鵜丸城跡は、大手の桝形虎口を挟んで西側と東側の尾根上に郭群を配し、東側の郭群には銃陣を敷くための雛壇状の3段の帯郭が築かれていることが特徴です。

看板より


歴史
1569年 尼子再興軍が蜂起
1571年 わずか1か月で築城
毛利軍は沖泊から軍船200隻を派遣し、安来の十神山城を急襲し落城させる
海の奉行を采配して尼子再興の夢を打ち砕いた




櫛島城(太田市温泉津町大字櫛島

櫛島城の位置はここ。鵜ノ丸城のすぐ北側に向かい合っている島である。

*広島のAさんからの依頼で、Aさんからいただいた図面(『島根県中近世城館跡分布調査報告書』)をもとに作成した鳥瞰図。この城にはまだ訪れていない。

以下、山城攻城記より引用

概 要
温泉津湾の湾国の東岸に位置し、西岸の笹島城、沖泊湾を隔てた鵜丸城と呼応して、毛利水軍の要港とされた温泉津湾の湾口を掘している。島の周囲は切り立った懸崖をなしており、普請は外海に面する西側と温泉津湾の湾口に面する南側が丁寧で、沖泊湾に面した東側はほとんど加工されていない。

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用


歴史
1281年 元寇の時に築かれた『石見十八砦』の一つと言われている
1540年 毛利氏攻略のため尼子晴久が石州路を進軍したとき、櫛山城主出原次郎四郎は尼子軍の猛攻に耐え、これを撃退する
後に尼子方につく(城主は温泉佐渡守)
1562年 今度は逆に毛利氏に攻められる、当時の城主である温泉氏(ゆし)は毛利氏に追われ、その後、月山富田城(安来市)に籠城した後尼子氏      とともに滅亡する
1570年 尼子再興軍が蜂起した時には鵜丸城と守る
それ以降 毛利の石見銀山の銀搬出港として沖泊港が栄える 
1600年  関ケ原により廃城




矢滝城(太田市大田市祖式町矢滝城山)

矢滝城の位置はここ

*広島のAさんからの依頼で、Aさんからいただいた図面(『島根県中近世城館跡分布調査報告書』)をもとに作成した鳥瞰図。この城にはまだ訪れていない。

以下、山城攻城記より引用

概 要
約200mを隔てた南北のピークに郭群を置いている。北方の主郭部は、戦後アメリカ軍のレーダー基地となり、その後はテレビ塔が建設されたために大きく改変されている。西向きに開口した桝形虎口状の遺構は、いずれも城道とのつながりが不明瞭である。南方の郭群は、堀切で守られているが、上面の削平も切岸も主郭部と比較して普請はやや雑である。

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用


矢滝城跡
矢滝城は標高634mの矢滝城山の頂上にあります。戦国時代に石見の銀山の支配権をめぐって激しい争奪戦がありましたが、その争奪戦の拠点のひとつが矢滝城で、遅くとも享禄元年(1528)には築城されていたと思われます。
矢滝城跡の北側には石見銀山から温泉津港に至る銀山街道(温泉津、沖泊)があり、更にその北側には矢筈城が一対となって銀山防衛・交通路掌握の機能を担っていました。
山頂部の北側曲輪郡には枡形をした入口(虎口)竪堀、南側曲輪郡には堀切などが残っています。

麓の看板より

「銀山旧記」では1528年に大内義興によって築城されていたとあるがそれ以前に祖式氏の城でなかったのでは?
高城というのが祖式町上町にあある
島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』によると
概要
主郭を断定することが難しい。尾根伝いに築かれている矢滝城の出城と言われている。祖式の集落に向けては郭が点在し、旧小学校のあたりが土居との伝承が伝えられている。城主は、祖式氏と伝えられる。

とあることから矢滝城が拠点の城であり城主は祖式氏であったと想像できる

小笠原長隆が、尼子の支配下になっている時に大内氏から銀山を奪うため、家来の志谷修理太夫と平田加賀守に矢滝城を攻めさせたとある


祖式氏
祖式氏は小笠原氏の庶流と称する、小笠原上総助兼長の二男式部少輔堅兼より出るという
祖式氏の領有地には矢滝城、前矢滝城はある、矢滝城は祖式地区の邇摩郡界にあって、ここを登れば邇摩郡の大半を見おろされる。
祖式氏はここから邇摩郡湯里(温泉津方面)に進出し、湯里の西田地区に前矢滝城を築いている、これによって祖式氏の所領が少なくとも邇摩郡湯里におよんでいたことを知る




物不言(ものいわず)城(福光城・不言城・大田市温泉津町福波谷山

物不言城の位置はここ

*広島のAさんからの依頼で、Aさんからいただいた図面(『島根県中近世城館跡分布調査報告書』)をもとに作成した鳥瞰図。この城にはまだ訪れていない。

以下、山城攻城記より引用


概 要
全山にわたって岩肌が露出しており、天然の要害である。
主郭東側に土塁を築いてこの方面に備えているが、南側尾根筋には堀切等の防御施設は認められない。
この尾根続きに主城が存在するとされているが確認できなかった。主郭西方に石垣が残るが、近世の改修らしい。
山麓に残る館は普請が活発になされている。また、西隣りの尾根にも堀切が認められる。
弘治2年(1556)に吉川経安が築いたとされるのはこの館かもしれないが、別に福光氏の名も伝えられている。

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用


不言城(福光城)址 
不言城は、当初福光氏の居城であったが、永禄2年(1559)石見地方に侵攻した毛利元就は、川本温湯城の小笠原長雄攻めに功績のあった吉川経安(石見吉川9代目)に、福光氏の所領を与えた。
これを機に、吉川経安は嘉暦3年(1328)より200年にわたって拠点としていた温泉津町井田津淵の殿村城(高越城)から、不言城に居を移し、改修して居城とした。
本丸・二の丸・三の丸跡が今も残っており、本格的な山城であったことがうかがえる。 
古今の名将の一人として名をはせた不言城主・吉川経家は、9代目経安の子である。経家は、羽柴秀吉の因幡攻めに対抗できる毛利方の部将として、鳥取城に入城。秀吉の有名な兵糧攻めに耐えて7カ月の籠城ののち、城兵や城に避難した城下の民衆の助命を条件に自刃した。
慶長6年(1601)、経家の子・経実は、吉川本家の家老として迎えられて岩国に移住し、不言城はその歴史を閉じた。

麓の看板より


飛び地だった為城代として福屋氏の庶家である福光氏を派遣する
(というよりか、庶家を派遣してその人物が在地名を取って福光氏を称したというほうが正解かもしれない

なので所領としては福屋氏のものであるが、代官として庶家の福光氏が支配していたのであろう

永禄2年(1559)吉川経安が福光城に入る
いきさつ
@毛利元就は川本を支配している小笠原長雄が尼子方であった為、その本拠地である温湯城を攻めて降伏させる
Aこの時江の川の南の地は全て没収、そのかわり福屋隆兼の領地を代替地としてあてがった
福屋氏は井田・波積を没収され、邇摩郡で代地を給与されることとなる
Bこれに黙っていないのが福屋氏、そもそも領地が隣で度々この2勢力は争っていたにも関わらず、毛利が勝手に小笠原に自分の土地をあてがわれた事に不信感を持つ
C毛利が九州遠征に行っている間に福屋氏は尼子方につき反旗を翻す
D福屋隆兼は尼子方の湯惟宗と一緒に物不言城を5000の兵で攻める(福屋氏2000人+湯氏3000人)が吉川経安は鉄砲を使い撃退した
Eその後、弟の隆任が治めていた松本城も陥落して尼子義久を頼るが拒否されて結局、近畿の松永氏を頼ることになる
F最終的には蜂須賀家の家臣となる

























大竹屋旅館