島根県雲南市

*参考資料 『日本城郭体系』

*参考サイト 山城攻城記

三刀屋(みとや)城(雲南市三刀屋町大字古城)

三刀屋城の位置はここ

*広島のAさんからの依頼で、Aさんからいただいた図面(『島根県中近世城館跡分布調査報告書』)をもとに作成した鳥瞰図。この城にはまだ訪れていない。

以下、山城攻城記より引用

概要
出雲国のほぼ中央に位置し、街道の要衝に築かれた城郭である。
三刀屋氏は三刀屋じゃ山城からこの地に居城を移したと伝えられているが、現在残る遺構は近世初頭の遺構である。
主郭は最高所と考えられるが、「破城」と近年の公園化にともなう車道の設置によつて破壊されている。
主郭北東端には天守台が築かれてい.た。主郭は石土居によつて二段に分けられている。
主郭西端には深い堀切が築かれており、尾根筋に対してA一B一C― Dの防御ラインが築かれている。
普請は、主郭、主郭南の「伝馬舎郭J、「大門郭」周辺は十分におこなわれているが、「伝天神丸」周辺は不十分である。
水の手は「殿井手水路」と呼ぶ水路が伝わる。最終改修者は堀尾氏と考えられる。

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用



三刀屋城跡
この城は承久3年(1221年)以来360年余りにわたってこの地を支配した三刀屋氏(諏訪部氏)の居城のひとつであり、東西に連なる尾根を堀切によって独立させたいわゆる平山城である。現存する遺構には、石垣や横矢構えなどの近世的手法もみられ、三刀屋氏最後の頃か堀尾氏の時代に元の支城を本城として整備し直したものと考えられる。

看板より




牛尾城(三笠城・雲南市大東町南村三笠山)

牛尾城の位置はここ

*広島のAさんからの依頼で、Aさんからいただいた図面(『島根県中近世城館跡分布調査報告書』)をもとに作成した鳥瞰図。この城にはまだ訪れていない。

以下、山城攻城記より引用

概 要
急峻な地形を利用して築かれており、堀切は確認できない。最高所が主郭と考えられ、尾根筋に対して土塁を築いている。
普請は全体的に不十分だが、地形が急峻なため必要とされなかったものか。尾根伝いに入雲山を経て熊野城に連絡できる。
毛利軍は入雲山に高津場番城を築いて両城の連絡を進断し、個別撃破したと伝えられている。牛尾氏の居城として知られる。

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用

「尼子分限帳」には、御家老衆牛尾遠江守 備前之内十万石、お手廻り衆牛尾太郎左衛門 伯耆之内一万七千石、同牛尾弾正大弼 松江の内三千七百三十二石と見え、大身であったことが知られる

歴史

応仁の乱後京極氏に従った牛尾氏によって築城された
1467年 京都で応仁の乱が勃発すると、出雲守護京極持清は東軍に属し、因幡・伯耆・石見の守護山名氏は西軍の中心勢力であった。
     出雲の赤穴氏、牛尾氏、三刀屋氏らは上洛して西軍の斯波義廉の軍と戦う
1484年 尼子経久討伐の命が発せられた時にこれに三沢・朝山・古志、そして三刀屋氏と共に富田城を攻撃する
1507年 大内義興がかねてより庇護していた前将軍義尹を奉じて上洛軍を起こした。
     この陣には尼子経久をはじめ三沢・三刀屋・牛尾・朝山らの出雲国人衆も従った。
1540年 尼子晴久の安芸遠征にも随行して安芸武田氏を援護した
1558年 尼子晴久の小笠原長雄応援に従軍
1561年 尼子晴久が本城常光を応援する出陣に従う
1542年 大内氏が出雲に侵攻すると、牛尾幸清が月山富田城の守備に当たった
1563年 毛利氏が富田城に迫ると、幸清・久信父子は富田城に入った
1566年 城内の兵糧が底を突き、幸清・久信父子も毛利氏に降った
1569年 尼子家再興の為挙兵した尼子残党勢に牛尾幸信が合流し、牛尾城に拠った
1570年 布部山の戦いで尼子勢は惨敗を喫し、牛尾城も毛利輝元に攻められ落城した 自刃する




大西(だいさい)城(高麻城・雲南市加茂町大字大西)

大西城の位置はここ

*広島のAさんからの依頼で、Aさんからいただいた図面(『島根県中近世城館跡分布調査報告書』)をもとに作成した鳥瞰図。この城にはまだ訪れていない。

以下、山城攻城記より引用

概 要
急峻な地形を利用して全山を城塞としている。主郭は最高所と考えられ、北西尾根筋は二重堀と連続竪堀群によって遮断している。
普請は全体的に行われており、特に虎口は未完成ながらも外桝形を呈している。
土塁の上を連絡通路とする等、ルートが特徴的である。大西氏の居城と伝えられるが、毛利軍によって改修強化された可能性が高い

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引


家系図
大西越中守---大西高範---大西高由--大西新四郎久範


尼子分限帳には、中老大西十兵衛備中之内三万石、侍大将大西源介備前之内七千五百五十四石を領有したと記されている



歴史
天文年間(1532〜1555)に築城 築城者は鞍掛近江守次郎四郎源久光
尼子氏時代、同氏の重臣大西氏の居城となった。
1543年(天文12年)、大内氏の出雲侵攻に際し、大西高由は尼子氏に従い富田城の防備に着き、宮尾において大内勢を破った。
1565年(永禄8年)、毛利氏の出雲侵攻に際しても、大西高由は尼子氏に従い、富田城塩谷口の守備に当たり、吉川勢の攻撃を凌いだ。
1566年(永禄9年)、富田城は開城し、尼子義久は安芸に幽閉されたが、大西高由もこれに従った。
大西城のその後については不明だが、枡形等が設けられていることから、永禄12年から元亀2年に掛けての尼子氏残党との戦いの際に、毛利氏により改修されたものと考えられている。




佐世城(雲南市大東町下佐世城山)

佐世城の位置はここ

*広島のAさんからの依頼で、Aさんからいただいた図面(『島根県中近世城館跡分布調査報告書』)をもとに作成した鳥瞰図。この城にはまだ訪れていない。

以下、山城攻城記より引用

概 要
主郭は現在公園となっているとと考えられ普請は十分である。2は佐世城の方向に普請がおこなわれているが、反対側は殆ど行われていない。そのため佐世城を攻める陣城の可能性がある。尼子氏の重臣、佐世氏の居城と伝わる。

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用


“金剛山佐世城跡 
佐世城は正中3年(1326)佐世七郎左衛門清信が築城して以来、9代佐世伊豆守正勝まで276年にわたる居城であった。 
初代清信は、湯頼清の五男・清信で、東忌部地頭から佐世の庄を領し、佐世七郎左衛門清信と名を改め、佐世氏の祖となった。 
以来8代佐世伊豆守清宗まで尼子氏の家老衆として、12万石を領していたが、永禄8年(1565)より毛利氏に属し、防州山口に移住。
その後数々の軍功により、文禄3年(1594)再び佐世城主に迎えられた。佐世氏は、代々文武共に優れ、特に書画、詩歌の遺品が多い。また敬神崇仏の念も厚く、神社、仏閣を造営するなど、大きな業績を残した。 正勝公には嗣子がなく、慶長6年(1601)逝去と同時に、甥に当たる防州山口の佐世丹羽守元量が後職に任じられたため、佐世家は断絶した。  

昭和4947日  大東町教育委員会 佐世城址城山公園整備委員会

看板より



歴史
1326年 佐世清信によって築城
1540年 佐世清宗は尼子軍として吉田郡山城を攻める
1560年 尼子晴久が大森銀山山吹城を攻めるとき参陣する
1563年 毛利軍が尼子の拠点である白鹿城を攻撃した時には尼子倫久を総大将に救援に赴いたが敗れている
1565年 毛利軍が富田城を攻撃した時は尼子倫久の麾下に属して菅谷口をかため、小早川隆景の進撃を食い止めたばかりでなく、これを破って敵を後退させている
その後毛利方に降伏する
1592年 朝鮮出兵時には佐世正勝も奮闘する
1594年 佐世の本貫地である佐世の地を加増される
1600年 佐世元嘉は関ケ原の戦いの時には広島城を守る
1601年 佐世正勝死去 ここに佐世の地における佐世氏は途絶える(家督は元嘉に継がれているので萩で存続することとになる)




阿用城(雲南市大東町東阿用)

阿用城の位置はここ

*広島のAさんからの依頼で、Aさんからいただいた図面(『島根県中近世城館跡分布調査報告書』)をもとに作成した鳥瞰図。この城にはまだ訪れていない。

以下、山城攻城記より引用

概 要
尾根上に3群からなり、郭は60余を数える。郭の削平は総じてあまいが主郭部は土塁で固め、虎口も充実している。自然の岩石を堀切に見立て、隣接する連花寺も城域としている。城将に桜井宗的が伝えられ、永正年中、尼子政久の大軍に攻められた。なお、政久はこの陣中で死したと軍記は伝える。

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用


阿用城由来記
阿用城跡は、十四世紀から十六世紀、南北朝時代から室町時代にかけて阿用を支配した土豪桜井氏の居城跡である。
桜井氏は京極氏の家臣であったが、十五世紀の終わりに京極氏に代わって出雲の覇者になった尼子氏に従わなかったため攻め滅ぼされたと伝えられている。
 城域は、標高309mの通称磨石山の頂部から延びる尾根上や支尾根上に延600mにわたり大小60余りの郭(平らに加工された区画、曲輪)が配置された大きな山城である。しかし、郭面は自然地形のままのところも多く、土塁も明確なものは山頂の主郭の一部のみである。また斜面に竪堀(敵の移動を防ぐための竪状の堀)は見当たらず、城の縄張り(構造)としてはややまとまりを欠く。
 城主の居館については、平成元年多量の埋納銭貨が発見された南西側上集落の山麓区域が考えられる。また下方の福富集落東側丘陵上には福富城跡があり、阿用城の支城跡の一つと考えられる。
 阿用城の城攻めについては軍記物の『雲陽軍実記』及び『陰徳太平記』に独特の文学的表現で劇的に語られている。即ち寄せ手の大将尼子政久(経久の嫡男)が夜、向城の櫓上で笛を吹いていたところ、阿用城主桜井宗的に向いの竹やぶから矢を射掛けられるという奇襲作戦を受けて殺された。この事件の後阿用城は尼子軍の総攻撃を受け落城したと記されている。また『佐々木系図』(佐々木寅介蔵原本・県立図書館写本蔵)には政久
の死について次のように記している。「政久 又四郎 民部少輔、永正十年(1513)癸酉九月六日於雲州阿用城流矢卒歳廿六 法名華屋常心」
 落城の時期については雲陽軍実記は1508(永正5年)、陰徳太平記は1518年(永正15年)とする。これらの三資料から阿用城落城1510年前後と考えられるが、あるいは佐々木系図の1513年が当たっているかもしれない。

平成二十二年十月 阿用地区復興協議会

山頂看板より



歴史
1513年 尼子政久が阿用城攻め逆に桜井宗的に射掛けられ戦死する 怒り狂った尼子経久は総攻撃をかけて落城する
1570年 尼子勝久が再興軍として出雲に反旗を翻した頃毛利勢は尼子方に総攻撃をかけ、小早川隆景は出雲国中郡に出陣し、二月七日多久和大和守の守る城を切崩したため阿用にあった要害も落城した




岩熊城(雲南市大東町養賀)

岩熊城の位置はここ

*広島のAさんからの依頼で、Aさんからいただいた図面(『島根県中近世城館跡分布調査報告書』)をもとに作成した鳥瞰図。この城にはまだ訪れていない。

以下、山城攻城記より引用

赤川北岸に迫る丘陵上にあり、大字養賀と大東町下分とにかかる。
越前の集落と城ケ谷を挟んで大きく東西二群から成る。西が主郭群で、さらに大堀切りによって西の先端郭と区分される。
東郭群は後背砦の性格が強いものとみられ、殿屋敷、馬乗馬場などと俗称され、その麓には○○屋敷の名称があるなど、居住区域であったことを示している。これらの郭群は城ケ谷を挟んだ北側の狭い尾根伝いに連絡している。
人家に近い低丘陵でもあり、かつてほとんどの郭が畑地として耕作されて変形しているが、大まかに郭の構成が推測される。
郭の配列はほぼ梯形で切岸を生かしたものである。土塁や石垣は用いられていない。室町末期に馬田氏の拠った城で馬場城とも呼ぶ。


新大東町誌より引用


歴史
馬田氏は佐々木氏の一族で佐々木泰清の長子、佐々木義重(隠岐義重)の子の三郎頼重が大東庄地頭土屋氏の娘との結婚を通じて大東庄に進出して、在地の馬田を苗字とするようになったのが始まり
佐々木泰清---佐々木義重(隠岐義重)------三郎頼重

山名氏がこの地方に侵入した時にはその与党となる


1468年:尼子清定が馬田城を攻略し落城、以来尼子氏の家臣となる
永正年間(1504〜21)に馬田豊前守が城を再建したという
1522年:馬田豊前守が稲荷神社を再建する
1524年:大内義隆等が石州に侵入したので、尼子経久は、亀井能登守、牛尾遠江守、馬田駿河守、広田、川副等を安芸にやって、大内方を攻めさせた。
1558年:毛利元就が石州侵入、銀山攻めに対して、尼子晴久は、味方の小笠原氏を応援するため出兵し、馬田慶信もこれに加わったが、小笠原氏が毛利軍に降伏したので応援は無効になった。
1558〜1570:分家と思われる和田山の城主である馬田越中守が成蓮寺を建立  この馬田越中守は最初は尼子の家臣であったが永禄年間(1558年〜1570)に毛利に属する
1563年:馬田彦三郎は出雲白鹿城が攻められた時に富田城から応援に行く
1565年:馬田慶信は毛利軍が富田城を攻めた時尼子義久と共に戦ってこれを破った
1614年:馬田豊前守が馬田寺を開祖する(瓦が奈良時代のものがあるので再興したものと考えられる)




三刀屋じゃ山城(雲南市三刀屋町古城)

三刀屋じゃ山城の位置はここ

*広島のAさんからの依頼で、Aさんからいただいた図面(『島根県中近世城館跡分布調査報告書』)をもとに作成した鳥瞰図。この城にはまだ訪れていない。

以下、山城攻城記より引用

概 要
大字古城地区のほぼ中央に位置する通称「じゃ山」山頂に築かれた城郭である。
急峻な地形にもかかわらず普請は十分である。主郭は最高所の1郭と考えられ、尾根筋に堀切を築いている。
堀切の築き方には少なくとも三種類が見られる。
一つは城域の南端、東端、北東端に築かれているもので、いずれも二重堀切となっている。
次に1郭と2郭間の堀、1郭と3郭間の堀、そして2郭北東の堀で、いずれも一部(それぞれ城外側)を掘り残しているのが特徴である。これは通路として利用したことも考えられるが、主郭南側を中心とした土塁と郭による防御ラインを構成するためのものと見るべきであろう。
最後は西側に集かれた二重堀切である。堀底からは.試掘調査の結果、1× 1.5mの穴が4穴づつ確認された。これは障子堀と見られる遺構で、出雲地区では横田町の藤ケ瀬城後方の城塞群等、数例しか確認できていない。この堀切より西側は普請が不十分である。
主郭北側の谷には池があり、池の北側には桝形虎口が集かれている.。桝形虎口は2郭の西にも築かれている.。三刀屋(諏訪部)氏の居城とされるがヽ独自な防御技術、規模等から考えて、毛利軍によって改修強化された可能性がある。


島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用


島根県指定文化財
(史跡)三刀屋「じゃ山」城跡 

本城跡は、鎌倉期より室町、戦国時代にかけてこの地を支配した三刀屋氏代々の旧居城である。東西南北に数多くの支城や、物見郭等をめぐらせており、その規模の広壮さと、堅固な要害は山陰地方を代表する典型的な戦国期の山城といえる。
本城跡の根城城郭は、南北約80m、東西約120m、南端に深い空堀をめぐらせた第1郭(詰め丸)、その北東隣接の最大郭である第2郭(主郭)、さらに西に開く馬蹄形の旧尾根を活用して築いた低土塁と、これらに遮断された凹地形に設けられた夭水池、第2郭の北から西にかけて裾野を取り巻くように設けた長い第3郭、その他の小郭群より成り立っている。根城郭への登路は、ほぼ東西南北にそれぞれ認められるが、搦手部は夭水池とそれを取り囲む小郭群あたりと思われる。
なお、現在の城山城跡は、かつて本城跡の支城の一つであったのを、おそらくは戦国末期に移城し、居城として用いたものである。

昭和6212月島根県教育委員会

歴史
1221年 諏訪部助長の時に承久の乱が起こり、その戦功により三刀屋郷の地頭に補任された
1391年 明徳の乱とよばれる争乱で、諏訪部氏は山名氏から離れていたらしく、翌明徳三年(1392)幕府から山名氏追討の御教書を発せられている
室町時代 守護京極氏の下、三沢・神西・牛尾・松田氏らが被官となったようで、三刀屋氏も安堵状を受けていることから被官に組み込まれたものとみられる
1467年 京都で応仁の乱が勃発すると、出雲守護京極持清は東軍に属し、因幡・伯耆・石見の守護山名氏は西軍の中心勢力であった。出雲の赤穴氏、牛尾氏、三刀屋氏らは上洛して西軍の斯波義廉の軍と戦い、三刀屋助五郎(忠扶)は持清の子勝秀から感状を与えられている 

1484年 尼子経久討伐の命が発せられた時にこれに三沢・朝山・古志、そして三刀屋氏らが応じて富田城を攻撃する


1507年 大内義興がかねてより庇護していた前将軍義尹を奉じて上洛軍を起こした。
     この陣には尼子経久をはじめ三沢・三刀屋・牛尾・朝山らの出雲国人衆も従った。

1540年 尼子晴久に従い毛利元就の吉田郡山城を攻めるが結局敗退
1541年〜1542年頃 宍道氏や三沢氏と共に大内氏側に寝返る
1543年 大内義隆が尼子氏の月山富田城を攻めるが落城させることができず、再度大内方を離反して尼子氏に寝返る
1562年 赤穴氏の取りなしによって毛利氏に属すようになる
1562年 12月 毛利方として、八畔峠で熊野入道西阿を破る (熊野入道西阿は尼子十旗の一つ熊野城城主)
1575年 吉川元春・元長父子が出雲に出陣した時には、平田に出頭して毛利輝元への忠誠を誓約する起誓文を提出している
1588年 上洛した際、徳川家康と面会したため毛利輝元から疑われ、三刀屋久扶が出雲から追放される
     息子(三刀屋孝扶)はそのまま毛利家臣として残る
1592年 1597年 文禄、慶長の役にて朝鮮に出兵し活躍するが加増もなく、毛利家を去る




近松城(雲南市加茂町近松字立原)

近松城の位置はここ

*広島のAさんからの依頼で、Aさんからいただいた図面(『島根県中近世城館跡分布調査報告書』)をもとに作成した鳥瞰図。この城にはまだ訪れていない。

以下、山城攻城記より引用

概 要
赤川の流れに突出する低丘陵の先端に位置する。南後方の尾根続きを大きな堀切で切断し、奥まった高所を主郭としている。東側の郭群は近世以降の上砂採掘で消滅した。郭はおよそ円形に配し、西側の郭群との間に抱かれた緩斜面の空間は土塁で囲まれている。立原氏の居城と伝わる。大西城と呼ぶのはこの城か。

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用
























大竹屋旅館