島根県安木市

月山富田田城(安木市広瀬町冨田)

*参考資料 『月山富田城尼子物語』(広瀬町観光協会) 『日本城郭体系』

*鳥瞰図の作成に際しては、現地案内版、『月山富田城尼子物語』、『戦国の堅城U』等の図を参考にした。

 月山富田城の歴史は古く、平安時代末期に浄瑠璃の「出世景清」で著名な平景清によって築かれたのに始まるという。その頃は、小規模な山城であったものだろう。その後、出雲守護であった山名氏や京極氏の持ち城となっていたが、やがて京極氏の守護代であった尼子氏が勢力を伸ばし、その本拠地とするにいたる。富田城の歴史で有名なのはこの尼子氏の時代であろう。

 文明16年(1484)、主家の領地横領によって富田城から追放された尼子経久は、4年後の文明18年、わずかな兵をもって急襲し、富田城を奪い返した。これより尼子氏の台頭がはじまってくる。尼子経久は、最盛期には山陰山陽で11カ国を支配するまでの大大名へと成長を遂げる。その間に富田城は大規模に改修されていったものと思われる。

 天文12年(1543)2月、経久が没して2年後の真冬に、大内氏・毛利氏の大軍が富田城に攻め寄せてきた。大内軍は北方の京羅木山に本陣を置き、数か月にわたって富田城を包囲したが、尼子晴久はよく守り抜いた。5月、戦果も上げられぬまま、兵糧が乏しくなってきた大内軍は撤退を余儀なくされる。そしてその際に大将大内義隆の養嗣子晴持は、中海で船から落ちて水死してしまうなど、大内軍にとっては手痛い結果となってしまう。大内氏の大軍に耐えたことで、富田城は難攻不落の名城として知られるようになっていく。

 その後、大内義隆は陶晴隆に殺害され、その陶は、厳島で毛利元就に敗れて自刃した。大内氏の広大な勢力圏は毛利氏の支配下に収められていく。永禄7年(1563)、尼子氏と雌雄を決するべく毛利氏は、大軍を率いて富田城を囲んだ。前回の籠城戦に耐えた尼子晴久はすでに死亡しており、子供の義久の時代になっていたが、尼子氏の抵抗は激しく、なかなか城は落ちなかった。そこで諜略が得意な元就は、新宮党謀反の噂をたてて溝を作り、新宮党が誅殺されるように仕組んでいった。さらに力攻めは難しいと判断した元就は兵糧攻めに切り替え、富田城は包囲され続けた。永禄9年になると、尼子氏筆頭家老の宇山久兼が誅殺され、毛利氏に投降する武将も多くなってきた。こうして収集がつかなくなってきた尼子義久は、永禄9年11月21日に、毛利氏に投降した。これによって出雲守護尼子氏は滅亡する。

 その後、富田城には毛利氏の城代が置かれ、毛利氏の出雲支配の拠点となっていった。毛利氏の家臣による支配は、永禄9年から慶長5年の関ヶ原合戦までの長きにわたって続いていくので、富田城にはこの間の毛利氏によって改修された部分が多くあるのではないかと思われる。

 関ヶ原合戦後、毛利氏に代わって20万石で出雲に入ってきたのは堀尾吉晴であった。堀尾氏は富田城に入って城を整備したが、11年後の慶長16年、忠晴の時代になると、松江に新城を築いて、居城をそちらに移すこととなる。これによって長い歴史を誇った富田城も廃城となった。

 したがって、現在見られる富田城の遺構は、最終的に堀尾氏によって改修されたものであるということになる。確かに山中御殿平の石垣や枡形などは近世城郭にふさわしいものである。おそらく堀尾氏の時代には、御殿平こそが城の中心部であり、周囲を石垣造りにしたものであろうと思われる。となると、それ以前の遺構というのはどの程度のものであったのだろうか。明確にどの部分が毛利氏、あるいは尼子氏の時代のものであるのか、はっきりとはしないのであるが、戦国期の中国地方の城には石垣を用いているものが多くあるわけだから、富田城にもそのころから石垣を用いた構造物はある程度存在していたものと思われる。城内各所にみられる古い石垣などは、そうしたものであるのかもしれない。また、山城部分に用いられている、高さの比較的低い石垣なども、あるいは戦国期のものであるのかもしれない。

 ところで、戦国期の尼子氏はどこに城の中心部を置いていたのであろうか。山上の部分は、要害性は高いが、居住に適した場所ではない。山上の要害はあくまでも緊急時の詰めの城であったものだろう。

 道の駅の東側には「尼子屋敷跡」と呼ばれている部分がある。あるいはこの辺りに初期段階の尼子氏の屋敷があったもかもしれない。しかし、その背後の千畳平、太鼓壇といった平場は、比較的低い台地上にあり、開発もたやすかったであろうから、比較的早い時代から、この辺の台地上も城域に取り込まれていったものと思われる。

 尼子氏全盛期には、現在の城域とほぼ同じ程度の規模の大城郭にはなっていたのではないだろうか。ただし、細部はその後もその都度回収されていると見た方がよい。

 山上の本丸から、東側の尾根にかけて、図面を見ると、かなり広大な城域が形成されている。今回は時間がなかったこともあり、こちらの尾根の状態を確認してはいないのだが、図面と地形図とから想像する限りでは、こちらの尾根上は狭かったようで、さほど大規模な曲輪を作り出すことはできなかったようである。こちらの尾根部分は上総の尾根式城郭と似たようなもので、尾根は基本的には城壁として認識されていたのであろう。城としての主体は、これらの尾根に囲まれ、守られている谷戸部にあったはずである。

 ちなみに、この城には「御殿平」「奥書院平」「千畳平」といった地名があるが、これらの「平」は「たいら」ではなく「なる」と呼ぶ。これは「平」のことを「なる」と呼ぶこの地方の方言によるもので、他に有名なものでは、鳥取城の近くにある「太閤平(たいこうがなる)」などもある。

富田川を挟んで北側にある洞光寺の墓地からみた月山。中央右よりの一番高い所が本丸である。左側に尾根が続いているのが分かる。手前の低い丘陵が、能楽平や太鼓壇である。 千畳平の下にある尼子興久の墓。興久は、経久の三男であったが、領地のことで父と争いになり、天文元年に反乱を起こして後に自殺した人物である。
道の駅「広瀬富田城」から富田川越しに見る京羅木山。天文11年(1542)の大内軍による富田城攻めの際に、大内軍の本陣が置かれた山であるという。ここからの比高は360mほどもある。今回は登山できなかったが、北方の出雲金比羅宮辺りから登山道がついているということである。 道の駅「広瀬富田城」のすぐ脇にある歴史資料館。背後の比高15mほどの台地が千畳平である。
とりあえず太鼓檀まで上がり、ここに車を置いて城内を散策することにしてみた。太鼓檀に入るとすぐに山中鹿之介の銅像が出迎えてくれる。月に祈っているポーズだが、この鹿之介、ちょっと表情が怖い。 太鼓檀の北側下には千畳平がある。千畳と呼ぶだけあってけっこう広い曲輪である。ここには尼子神社が祭られている。
太鼓檀から一段上がった所が、奥書院平である。ここには忠霊塔が建っている。正面奥に本丸のある月山が見えている。 鞍部を過ぎてさらに進んだ所が花の壇である。ここには2棟の掘立建造物が復元されている。
堀切越しに南側にある郭から、北側の花の壇を見たところ。堀切の深さは5mほどである。 山中御殿平下の石垣。けっこうしっかりしたもので、堀尾氏時代のものではないかと思われる。
花の壇の側面にも、このような低い石垣が見られる。 山中御殿平の虎口の石垣。右側の奥を進んでいくと月山登城道に出る。御殿平には枡形虎口が三箇所に形成されている。
御殿平の大東平方面の虎口の石垣。手前には井戸の跡もある。ここが大手であろうか。 御殿平奥の石垣と雁木。
上の写真の雁木を上がった所から、山中御殿平の全容を見たところ。ここが実質的な城主の居住空間であったと思われる。 御殿平から登城道を上がっていく。通称七曲と呼ばれているが、実際には7つよりもずっと多いカーブを登っていかなければならない。御殿平からの比高はちょうど100mほどである。参道は丁寧に敷石が敷き詰められている。しかし雨上がりであったせいか、つるつるしていて、かえって歩きにくいったら。ありゃしない。
三之丸の石垣。折れが見られる。高い石垣を積む技術がなかったのか、三之丸側面の石垣は、腰巻と鉢巻の2つに分けられている。 三之丸内部。長軸100mほどと、山上にしてはわりあい広いスペースを持っている。
三之丸から中海方向を見たところ。山頂部が高いだけあって、なかなか眺望がよいのである。天気がいいので、境港辺りまで見晴るかすことができた。 二之丸と本丸との間の堀切。深さ7mほどだが、幅は20m近くもある。なぜか二之丸側にだけ、石垣が積まれている。この二ノ丸には、西側下に石垣による小規模な枡形虎口が形成されていた。
本丸側から二之丸を見たところ。郭の縁まで石垣を積めないのは、高石垣を築くだけの記述がなかったせいか、それとも石材がさほど豊富でなかったからであろうか。 本丸にある勝日高守神社。平安時代末期の保元の乱の頃からある神社だという。本丸は削平がわりあい甘く、ちゃんとした平場になっていない部分もある。この郭の脇に山中鹿介の碑もある。
再び御殿平の方まで降りてきた。虎口付近には石垣が積まれている。 山麓近くにある巌倉寺の石垣。石の大きさも積み方も他の部分とはちょっと違っている。この石垣は後世のものであろうか。
巌倉寺の奥にある堀尾吉晴の墓。大名の墓だけあって、なかなか立派なものである。このすぐ脇には吉晴の奥方が慶長年間に建立したという山中鹿介の供養塔もある。 月山のずっと奥の方の山麓にある尼子晴久の墓。晴久は剛勇な人物であったといわれているが、毛利氏による月山攻めの籠城の直前に急死したという。内通者に暗殺でもされたのであろうか。
山麓にある尼子屋敷跡。根古屋に当たる場所であろう。この名称が正しければ、戦国期の尼子氏の平素の居館が営まれていた所であったろうか。古図によっては山麓に立派な堀が描かれているのものあるが、山麓に堀があったとしたら、実際この辺りであったろう。 富田城の北方、新宮谷にある、新宮党の館跡。谷戸に囲まれた比高6mほどの低い台地である。
館跡には新宮党の国久とその子供の誠久、豊久、敬久らの墓がある。新宮党の国久は、尼子軍の主要戦力であったが、それゆえ、自侭な振る舞いが多く、主家とも時折対立していた。毛利元就はそれに目を付けて、新宮党が毛利に内通しているという偽の書状を送って、両者の対立を決定つけた。結局これがもとで、新宮党は尼子義久によって討ち果たされてしまうのである。
ちなみに、後に山中鹿介とともに播磨上月城に籠城した尼子勝久は、尼子の本家筋ではなく、新宮党の子孫に当たる。
新宮谷の1つ南側の谷(月山から延びる尾根によって形成されている)には山中氏の屋敷跡がある。伝承によると山中鹿介はここで誕生したのだという。
山中鹿介生誕を記念する石碑が置かれている。狭い谷戸部を利用して屋敷が置かれていたのであろう。 富田川の脇にある川中島決戦の碑。山中鹿介と毛利方の品川狼ノ介(大膳)とが戦った場所であるという。
富田川を挟んで北側にある洞光寺の石段。石垣造りの本格的な寺院で、寺院そのものが武装していたかのような印象がある。 洞光寺には尼子氏全盛期をつくった尼子経久の墓がある。写真左手がそれである。右側は経久の父の清定の墓。

 城安寺に続く尾根のさらに2つ北東側の谷が新宮谷である。ここには谷戸によって三方を囲まれた一辺が100mほどの平場がある。中世領主の居館が営まれるのには適当な広さであるといっていい。ただし、新宮党はかなりの軍事力を誇っていたというので、これだけの区画では狭すぎる観がある。この谷戸部の周囲には家臣団の屋敷が連なっていたのかもしれない。













 城安寺に続く尾根の、城内側と反対側の谷戸部に山中屋敷跡がある。ここが山中鹿介の生誕地であるというのは、どうも伝承に寄っているようだが、こうした谷戸部は確かに家臣の屋敷が置かれてもよさそうな場所である。
















十神山(とかみやま)城(安来市安来町十神)

十神山城の位置はここ

*広島のAさんからの依頼で、Aさんからいただいた図面(『島根県中近世城館跡分布調査報告書』)をもとに作成した鳥瞰図。この城にはまだ訪れていない。

以下、山城攻城記より引用

概 要
自然地形を利用した水軍の城で、郭の加工は不十分なものである。
山頂部と尾根上に十神山古墳・小十神山古墳が半壊状態で残るのも、郭の加工がどの程度のものであつたかを物語る。
平成4年度に完成した遊歩道で遺構の一部が損壊している。山麓部の向陽寺あたりに館が想定できる。

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用


十神城の郭は山頂に造られており、東西10m×南北19mの主郭を頂部に置き、それを囲むように幅6m前後の環状の郭が西・北側には三段に
東・南側は一段に配置されている。北側ではそれぞれの郭の高低差は約2・3mである。
南側の麓にある向陽寺から上る道があるが、その途中にも郭が二ヵ所認められる。山上の郭からは四周の見通しがよく、中海での船の動静が手に取るように察知できたものと思われる。


歴史
室町時代、松田氏により築城された。
応仁2年(1468年)、山名氏に組した松田備後守が拠り尼子清定に抗したが、尼子氏に攻められ落城した。
松田備前守は安来庄地頭松田氏の庶子家と推定されている)
文明2年 (1476年) 4月17日 松田氏惣領家の拠点であった安来庄地頭方が没収され、尼子清定の被官らに分配されたが、それに伴って安来津、十神山城も完全に尼子氏の統治下におかれた
(このころ城代として尼子方の武将が入ったものと思われる)
永禄5年(1562年) 出雲に進出した毛利氏は中海、宍道湖などの海上封鎖によって尼子氏の糧道を断つ作戦にでた
永禄6年(1563年) 11月頃、因幡、但馬から小船に積んで十神山、福良山の向城に兵糧を転漕しようとしたが、毛利軍に妨げられこれが          困難であったとある 
永禄8年 (1565年) 隠岐国の笠置氏が十神山の在番などを勤めたとして隠岐国内で所領を与えられている
永禄9年(1566年)、児玉就忠の率いる毛利氏方の水軍に攻められ落城した。
永禄12年(1569年)、兵を挙げた尼子氏残党が拠る所となる。
元亀元年(1570年)、布部山の戦いで尼子勢が大敗を喫し、諸城と共に十神山城も開城した。































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