鳥取県倉吉市

*参考資料 『日本城郭体系』

打吹山城(倉吉市倉吉)

*ラフ図の作成に際しては『日本城郭体系』を参考にした。
 打吹山城は、倉吉市の中心にある比高150mほどの目立った山にあった。現在ここは打吹山公園として整備されている。今回の訪問では、里見氏関連の史跡を見るのが目的であり、また時間もなかったために、城山に登ることができなかった。そこで参考までに『城郭体系』の図を基にしたラフを描いておく。城址にはところどころ石垣が残り、天守台もあるという。
 また、近世になると、打吹山城は廃城となり、山麓に倉吉陣屋が置かれることとなった。陣屋跡は現在の成徳小学校の地であり、現在でも小学校の周囲に石垣が残っている。 
















大岳寺の前から見る打吹山城。比高150mほどの見るからに急峻な山城である。 大岳寺にある里見忠義の墓。戦国時代に安房で活躍した里見氏も、左遷させられて、最後は倉吉の地で滅びてしまうこととなる。
 打吹山城は、室町時代の初期に、山名氏によって築かれたのに始まるという。したがって山名氏の持ち城の1つであったが、大永年間になると、尼子氏の伯耆侵攻にあわせて落城し、尼子方の城となった。
 天正年間になると、当地域は、毛利氏の勢力圏内に置かれる。打吹山城も毛利氏に属し、吉川元春が入城したという。現在見られる、石垣や天守台といった遺構はこの吉川氏の時代に築かれたのではないだろうか。
 その後、羽柴秀吉の伯耆侵攻があり、鳥取城、羽衣石城、鹿野城などは羽柴氏に属するようになった。打吹山城も、羽柴方の勢力に押されていたものと思われる。天正10年、本能寺の変が起こったことにより、毛利・羽柴の和睦が成立して、打吹山城は、羽衣石城の南條氏の支配下に収まった。
 慶長5年、関ヶ原合戦で、西軍に属した南條氏が没落すると、伯耆には駿河から中村一忠が入部してくる。打吹山城も中村氏の支配下となり、城代が置かれるようになった。
 慶長14年、中村一忠は二十歳という若さで急死してしまい、断絶する。その後、当地域は幕府直轄領となって、城は廃された。その後は山麓に陣屋が築かれ、代官による支配が行われるようになった。




里見屋敷(倉吉市関金)

 安房8万石を改易になった里見忠義は、ここ倉吉に配流となった。そんなわけで、倉吉には里見忠義の屋敷跡と呼ばれる所が数箇所ある。上記の倉吉市街にあり、里見氏の菩提寺でもある大岳寺もそうであったというし、打吹山城のすぐ山麓にも上屋敷があったという。
 ここで取り上げているのは、倉吉の市街地から8kmほど南西にある関金地区にあった里見屋敷で、里見忠義の最後の屋敷があったと言われている場所である。
 関金地区の中郷神社のある台地がそうであるといい、そこに里見家主従の廟が残されている。














中郷神社の石段を登って境内に入ると「←里見家終焉之地」という案内表示が出ている。左側の奥に進んだところの水田の先に里見忠義主従の廟が建っている。この辺りが、里見忠義の最後の屋敷があったところであると言われている。 里見忠義主従の廟。この脇には、「里見屋敷のシイ」と呼ばれる巨木もある。地元の伝承では、このシイの木には、里見忠義主従の怨霊が留まっており、枝を切ったりすると、祟られてしまうといわれているということだ。


































大竹屋旅館