鳥取県鳥取市

*参考資料 『日本城郭体系』 『信長公記』

鳥取城(鳥取市東街・久松山)

*鳥瞰図の作成に際しては、現地案内版、天和3年、万延元年の絵図を参考にした。鳥取城は比高240mの久松山に築かれている。

 秀吉の兵糧攻めによって著名な鳥取城ではあるが、近世には池田氏32万石の居城として栄えていた城である。したがって、現在見られる遺構はほとんど近世城郭として整備されたものであると言っていい。

 それでは中世段階の鳥取城は、山上だけの要害であったのだろうか。以前はそのように考えていたのだが、近年ではそういう考え方をちょっと改めている。山上は比高200mほどもあり、確かに要害性は高いが、平素居住できるような場所ではない。山上にはそこそこのスペースはあるが、たくさんの人員を籠城させるだけの広さにも足りない。やはり山麓に根古屋ともいうべき居館が存在していたはずである。したがって、秀吉に攻められた当時も、籠城衆がこもっていたのは、山上だけではなく、山麓の居館も含めてではなかったろうか。でなければ、4千人からの人員が収容できるはずはないと思うのである。

 近世に入っても、山上部分は整備され二層の天守閣が建てられたりしたが、近世段階では山上部分が実際に使用されることはほとんどなかったであろう。藩主の御殿や政庁などはみな、山麓部に置かれていた。

 山麓部は、石垣によって数段に区画され、それぞれにまとまった広さの郭をもっていた。現在この山麓部分には高校や博物館が建設されているが、石垣によって区画されるかつての郭はほとんどそのまま残っているといっていい。

 この部分の中心となっていたのが、御三階櫓のあった二の丸であり、ここが実質的には本丸と言っていいだろう。この御三階櫓には数枚の古写真も残されているが、かなり大規模な櫓であり、実質的には鳥取城の天守であったといってもいい建造物であった。また、その上の一番高いところには天球丸があった。ここにも三階櫓が存在していたが、この櫓は古図を見ると、多門櫓を積み上げたような、縦に細長い建造物であった。

 藩主の居館であった二の丸御殿は、現在、鳥取西高校のある辺りに置かれていた。政庁は仁風閣のある辺りにあったのであろう。

 いずれにせよ、山麓部の段郭を用いた城としては、かなりの広さをもっており、近世城郭の機能を果たすにも十分なスペースがあった。









 天球丸の脇辺りから山上の丸に登っていく道が付いている。比高200mほどもあり、かなり急峻であるが、直登に近い道のため、思ったよりも早く山頂まで到達することができる。この日は35度という真夏の暑さであったが、20分ほどで山頂に到達することができた。

 山頂には本丸を中心として、尾根沿いに複数の郭が配置されている。30m×80mほどの本丸の北隅にある天守台は、方18mほどもあるものであり、二層構造としてはかなり大規模な建造物であった。内部には穴蔵もあったようである。

 本丸にはこの他に、月見櫓や車井戸などもあったが、天守以外はみな単層のものであった。これは城が高所にあるため、風雨による破損を恐れたためであろうか。

 本丸の周囲には高さ10mほどの高石垣が積まれている。山上の石垣としては非常に見事なものであるが、長年の風雪にさらされたせいか、一部は崩落しそうになっている。

 南側に尾根が続いており、こちら側に数段の郭が段々に続いていた。その先端近くには、廃墟となった施設がある。一瞬何の建物だろうと不気味に感じたのだが、内部の構造を見てみると、どうやらかつてのロープウェイ関連の施設であったらしいことが分かった。以前ここには久松山ロープウェイというのがあった。これは高度経済成長時代の昭和44年に建造されたものであったが、7年後の昭和51年には廃業となったという。ロープウェイの山麓駅は、山の反対側方向にあるので、表側からはまったくの死角となっている。現在では、ここにその痕跡があることすら知られていないのではないだろうか。

 この尾根の遥か先の東方、直線で1kmほどのところに鳥取城攻めで秀吉が本陣を置いた太閤ヶ平がある。比高は山上の丸より、10mほど低いほどであり、木を切り払えば、お互いを遠望することもできるほどの距離であった。

 山上の丸は、これだけである。近世城郭というにはあまりにも狭い区画であるし、中世城郭としても、その規模はさほど大きいものではない。鳥取城といえば、かつては山名氏の居城であり、争乱の中心となった拠点城郭でもある。やはり、城の主要部分は中世段階から山麓にあったのではないだろうか。





山麓の堀越しに見た久松山。下からの比高は200mほどある。高さもさることながら、地勢が急峻で、登るのに疲れる山である。 堀越しに見る仁風閣。風情のある建物だ。明治40年(1907)に、当時の皇太子(のちの大正天皇)の山陰行啓の宿舎として旧鳥取藩主の池田氏によって建造されたもので、その後は池田氏の別邸として使用された。内部には歴史資料が展示されている。ちなみに仁風閣という名称は、当時、皇太子に随伴していた東郷平八郎によって命名されたものであるという。
県立博物館の方から上がっていくと、唯一の現存建造物である城門が見えてくる。 御三階櫓のあった二の丸の石垣。高さ10m近い高石垣である。
二の丸の西側のはずれには、このような登り石垣が築かれている。 御三階櫓とその脇の虎口の石垣。御三階櫓は古写真も残っている。派風こそはないがとても目立つ建物で、実質的な天守であった。
御三階櫓の跡から下の仁風閣のある部分をみたところ。 二の丸南側の虎口から天球丸の石垣を見たところ。石垣の積み直し工事が行われているようだ。
天球丸の脇から、山上の城にあがっていく。けっこう勾配がきつく、息が上がりそうになる山道である。途中に「一合目」から「九合目」までの案内が出ており、これを目標にしながら登っていくと、意外に早く、20分ほどで登ることができた。この日の気温は35度、しかし、暑いなあ・・・・。 5合目辺りの平場にあった何かの神社。
山道の途中には、このように石垣が積まれている部分もある。 やっと山上近くまでやってきた。正面奥に見えるのが、山上の丸(本丸)の石垣である。
山上の丸へと続く虎口。 本丸の虎口。小規模だが、ちゃんと枡形形状になっている。
本丸にあった車井戸。現在も水が湧いているようだ。 本丸から眺める鳥取市街。高いだけあって、眺望が利いている。正面のはるか奥の方に、河原城の展望台が見えていた。
天守台。高さは3mほどだが、けっこうな巨石を積み上げた堅牢なものである。本来は右側に付け櫓があったようで、そこから登っていく構造であったらしい。 天守台の内部。礎石らしき石が並んでいる。中央部は穴蔵であったのか、くぼんだ構造になっている。
天守台から鳥取砂丘方面を眺めたところ。いや〜、まさに絶景である。 山上の丸から、尾根沿いに南側の郭に進んでいく。途中、だいぶ小規模になってはいるが、このようにしっかりと石垣も見られる。
その先の平場にあった虎口を、外側から見たところ。両脇には石垣が積まれており、櫓門でもあったようである。 その虎口からさらに進んでいくと、荒れ果てた建造物が藪の中に建っていた。中に入ってみると、どうもこれはロープウェイの施設であったらしい。現在は廃止されてしまっているので、荒れ果ててしまっているというわけだ。
本丸の石垣を真下から見てみた。400年の風雨に耐えてよくぞ持ちこたえているものだと思うと感慨ひとしおである。 山上の丸から降りてきた。再び、天球丸脇の石垣である。塀のように細く積まれているのが特徴的である。
さらに降りて、鳥取西高校の脇あたりまで来た。二の丸の石垣が高くそびえて見える。 鳥取西高校の脇にある大手門跡の枡形。
堀に架かる橋から大手方向を見てみた。 堀越しに見る御三階櫓の石垣と久松山。
 鳥取城を最初に築いたのは因幡国守護であった山名誠通であり、天文14年(1545)のことであったという。但馬山名氏との抗争に明け暮れていた誠通は、要害の地を求めて久松山を選び、家臣の田原豊前守に命じて、縄張りをさせた。当時、山名氏の本城は天神山城であったが、鳥取城は出城として整備されていった。

 鳥取城には家臣の武田豊前守が城代として番をしていた。ところがこの武田氏、野心的な人物であったと見え、この城を拠点として、しだいに主人であった山名氏に反抗し、独立を志すようになっていった。

 永禄6年(1563)、武田豊前の子息であった武田高信は、周囲の城主と手を結んで、山名氏に反抗した。これに対して山名氏は鳥取城を攻撃し、これ以降、両者の対立は決定的となった。元亀3年(1572)には、尼子氏の遺臣であった山中鹿介が山名豊国を助け、武田氏を攻撃した。このときの戦いで、山名方の奇襲を受けた武田勢は、敗北を喫した。その後、武田氏は誓紙を差し出して降伏し、鳥取城を山名豊国に差し出した。

 天正年間には毛利氏の勢力が強大となってきており、因幡にもその圧力が及んできた。抵抗がかなわないと思った山名豊国は、毛利氏に属することにした。しかし天正8年(1580)になると、播磨から羽柴秀吉の勢力も手を伸ばしてきていた。羽衣石城の南條氏を味方につけ、鹿野城も攻略されると、鳥取城の孤立化は深まった。そこで秀吉は「降伏すれば、因幡一国を与えよう」申し入れた。もともと毛利方に対する忠誠心が厚くはなかったのであろうか。それを聞いた豊国は、羽柴氏に従うことにした。しかし、降伏の返事が遅かったという理由で、秀吉は豊国に法美・邑美の2郡しか与えなかった。山名氏の家臣団は勝手に降伏を決めた豊国に不信感を抱き、あろうことか、主人の豊国を鳥取城から追い出してしまった。家臣団は毛利氏に属することに決め、吉川元春に新城主を派遣することを依頼した。そこで、元春は石見福光城主であった吉川経安の嫡男経家を、鳥取城代として送り込んできた。鳥取城は羽柴軍に対する拠点となったのである。

 これによって羽柴軍による鳥取城攻撃の必然性が決まった。当初から兵糧攻めを決めていた秀吉は、三木城の兵糧攻めの時のような長丁場になることを恐れ、若狭から商船を鳥取に送り、破格の値段で穀物を買い付けさせた。鳥取城下の人々は、その破格値に喜び、次々と商船に穀物を売った。その評判を聞いた鳥取城の家臣たちは、兵糧まで売ってしまう羽目に至った。家臣たちにしてみれば、それで得た金銭によってすぐにでも兵糧を買い付ければよいと踏んでいた。しかし、その間もなく、羽柴軍が攻め寄せてくることになり、結局、十分な兵糧を蓄えることもできず、籠城戦が始まってしまうこととなる。天正9年(1581)6月、羽柴軍は2万に及ぶ大軍で鳥取城を包囲した。

 この間のことを『信長公記』によって記述してみると、以下のようである。

 鳥取城には鳥取一郡の男女がことごとく逃げ込んでいた。下々の百姓などは長陣の備えもしていなかったので、たちまち餓死に及ぶようになる。初めの内は、5日に一度、あるいは3日に一度、鐘を搗いて合図とし、雑兵たちがみんなで柵際まで進み出て、木草の葉を取っていた。中でも稲の株がご馳走であったらしかったが、すぐにそれも尽きてしまい、牛馬を喰らい、霜露にうたれて、餓死する者が際限もなかった。

 餓鬼の如くやせ衰えた男女が柵際へ寄り「助けてくれ」と叫んでいる哀れな様子は目も当てられないほどであった。そうした人を外に逃がさないために鉄砲で打ち倒すと、まだ息をしているというのに、そこに刃物を手にした人々が群がり、手足の間接を断ち切って、肉をあさるという始末であった。中でも頭がおいしいらしいとみえて、首をあちらこちらに奪い合っていた。

 このように兵糧が無くなり、人肉を喰らうほどの状態になってしまうまでの悲惨な状況に立ち至ってしまった。城兵も弱り、まったく籠城できるような状況ではなくなってしまう。そこで城主吉川経家は、降伏を申し出た。自分が命を差し出す代わりに、城兵たちの命を救ってくれというのである。信長もそれを認め、10月15日、吉川経家、森下道祐、日本介の三人が切腹した。

 これによって城内の人々の命は救われた。城内の人々のやせ衰えた様子を不憫に思った秀吉は、人々に炊き出しを行って食物を与えたが、それを食べた過半の者が頓死してしまったという。胃が縮んだ状態でいきなり、食物を腹に入れてしまったせいであるといわれている。

 その後、鳥取城には宮部善祥坊が5万石で入城する。宮部氏は慶長5年の関ヶ原合戦までこの地の領主となり、鳥取城の各所の整備事業を行った。

 関ヶ原合戦で宮部氏は西軍に属したために、改易となる。代わって池田長吉(池田輝政の弟)が6万石で鳥取城に入城する。池田氏は鳥取城を近世城郭にふさわしい城にするため、さっそく改修工事を始めた。現在見られる遺構の大半はこの頃に整備されたものであろう。

 元和3年(1617)、池田光政は姫路から、因幡伯耆32万石の太守として鳥取城に入城した。それにともない、鳥取城主であった池田長吉は備中松山へ、鹿野城主亀井政矩は石見津和野へ、山崎家治は備中成羽へと転封となった。

 しかしこの光政もわずか在城16年で、備前岡山に移封、代わって、岡山城の池田光仲が鳥取に入城した。その後、池田氏が代々続いて、明治維新を迎えるに至る。







*鳥瞰ラフの作成に際しては、『戦国の堅城』所収の図を参考にした。

 上でも述べている通り、鳥取城の兵糧攻めで、羽柴秀吉が本陣を置いた「太閤ヶ平」は、山上の丸の東方1kmほどのところにある。「平」は「たいら」ではなく「なる」と読む。この地域では平のことをそのように読むらしい。したがってこれは「たいこうがなる」である。

 基本となるのは一辺が50mほどの単郭の区画であるにすぎないが、櫓台の張り出しなどもあり、後の賊ヶ岳合戦の陣城と相通ずるものがある。

 太閤ヶ平にはマイクロウェエーブの中継基地が置かれていて、そのためのメンテナンス用の道路が、鳥取城の南側の樗谿(おうちだに)神社の先から付いている。しかし、この道は一般車両の通行が禁止となっているため、太閤ヶ平に行くためには、延々2km以上の道のりを歩いていかなければならない。そんなわけで、今回はそこまで到達できなかった。

 また、太閤ヶ平周辺は遊歩道として整備されているようなので、登り口はあちこちにあるようだ。今度時間のあるときに、ゆっくりと歩いてみたいものである。













 ☆おまけ☆

城とは関係ないが、鳥取といえば、やはり砂丘でしょう。真夏の暑い日とはいえ、ここにはたくさんの観光客が訪れていました。




















鹿野城(志加奴城・王舎城・鳥取市鹿野町鹿野城址公園)

 鳥取市鹿野の、鹿野中学校のある山麓部分と、その背後の比高70mの山稜とが一体となった城である。鳥取城、米子城などもそうだが、この地域は、近世城郭になってもそうした形式の城が多いような気がする。あるいは、鳥取城、米子城タイプの城の原初的形態を残した城、というようにも見られるかもしれない。現在は鹿野城址公園となって整備されており、山上には遊歩道がつけられており、山麓には駐車場や案内板なども設置されていて、なかなか親切な城址である。

 現在見られる鹿野城の遺構は、安土桃山時代から慶長年間まで城主であった亀井琉球守茲矩によって築かれたものと思われる。自ら琉球守を名乗り、朱印船貿易も行っていた亀井茲矩はハイカラな人物であったらしく、鹿野城には、オランダ櫓、朝鮮櫓といった名称の櫓が存在していたという。もしかすると、その名称の地域の建造物の形状を模した櫓であったのかもしれず、どのような形状をしていたのだろうと想像するだけでも楽しくなってしまうのであるが、残念ながら、現在ではそれらがどのようなものであったかを知るよすがもない。

 平城部分のあった鹿野中学校を目指していくと、すぐに中学校の前面の水堀が見えてくる。山麓部分の遺構は、近世城郭ものというに似つかわしいだけの壮大なものである。水堀は幅20mほどもある大規模なものであり、深さもけっこうありそうだ。水堀に面する城塁には低いながらも石垣が積まれている。また、城塁には明瞭な折れが何か所にも見られる。塁の角部分には規模の大きな櫓台というべき土壇が見られる。これが城の外堀に当たる。

 その内側には鹿野中学校のグランドになっている郭があるが、これが山麓部分の中心となる場所で、城主の居館はここにあったのではないかと思われる。この郭の周囲にめぐらされた内堀もまた、近世城郭にふさわしい規模のものである。

 背後の山城部分には、山の形状もあって、それほど広い郭は存在していないが、それでも段郭状にいくつかの郭が配列されている。それらには、二之丸から四之丸といった名称が存在していたといわれるが、現在ではどれがどれだか、よく分からない。ただし、西之丸だけは案内板に名称が出ていたので、はっきりと分かった。ここからは発掘によって建造物の跡が検出されている。礎石から推定すると、7間半×8間ほどもある比較的大規模な建物で、城主亀井茲矩の隠居所ではなかったかといわれている。(西之丸というのはだいたい隠居所によくつけられる名称なのである。) 唐木御殿と言われている殿舎がここにあったのかもしれない。

 山上の方10mほどのスペースが天守台と呼ばれている部分である。ここには現在でも礎石が残っており、城自体が元和年間まで存続していたことを考えると、実際にここに天守閣が存在していたとみてよいだろう。ただし、方10m未満といった規模からすると、三層天守としてはかなり小規模なものである。あるいは二層くらいの規模のものであったかもしれない。規模は小さくとも、城主の趣味からすると、かなり瀟洒な天守であったのではないかと想像されるのであるが、それを示すような絵図などは残っていない。これまた残念なことである。

 天守台の下の通路脇にはわずかだが石垣が見られる。これは本来の遺構とみてよいだろう。その下には城山神社が祭られているが、これも郭の1つであった。


 このように鹿野城は、山城部分の規模はたいしたものではないが、山麓の居館部には近世城郭というにふさわしい規模の水堀が存在している。山上部分も、かなり目立った形式の天守や櫓が立ち並んでいただろうと推測され、往時は見た目が壮麗な城であったのではないかと思われる。しかし、今となってはそれを想像するのも難しくなってしまった。往時がの城の景観がどのようなものであったのか、今となっては漠然と想像してみるしかないが、けっこう洒落た城だったのではないかという気がする。

グランドのある山麓の本丸ともいうべき郭とその手前の堀。石垣が本物なのかどうかは分からない。奥の比高70mほどの山頂部には天守台がある。 鹿野中学校となっている部分外側の堀。低いながらも石垣が積まれ、塁線には折れが認められる。
山麓本丸の土塁と堀。 西ノ丸。ここからは2棟の建物跡が検出されている。
天守台の下にある城山神社。 山頂の天守台。10m四方ほどしかないが、礎石が残っている所を見ると、三層程度の天守が実際に建っていたのであろう。
 鹿野はかつて志加奴(しかぬ)と呼ばれ、土地の豪族志加奴氏が領主であった。したがって、鹿野城を最初に築いたのも、この志加奴氏であったといわれる。もっとも、その時代には現在見られるような大規模な水堀などはなく、それほど規模も大きくない山城であったと思われる。

 志加奴氏の支配は天文12年(1543)ころまで続いた。この年、勢力拡大を目指す尼子氏の軍勢が因幡に攻め寄せてくる。因幡守護山名氏は、志加奴城を前線に抵抗したが、城主志加奴城入道はわずか300の手勢で、尼子晴久の大軍に突入して敗れ、自刃した。これ以上の抵抗ができないことを知った山名氏は尼子氏に属するようになる。志加奴城(鹿野城)の城主がどうなったのかは分からないが、同様に尼子方の武将が入ったのであろう。

 永禄年間になると、尼子氏の勢力が衰え、代わって毛利氏が圧力を加えてくるようになる。当時、山名豊成は天神山城にいたが、鳥取城の武田高信が毛利と手を結び反旗を翻したことにより、天神山城を攻撃された山名豊成は、城を支えきれずに鹿野城まで後退した。鹿野城がなかなか堅固で、攻め落とすのが困難であることを知った武田高信は、暗殺者として美女を鹿野城に送り込んだ。その美女はまんまと豊成の側女となり、機をうかがって毒酒を豊成に飲ませて暗殺したという。史実なのかどうかわからないが、これってすごい話だ。本当だとしたら、ドラマ以上にドラマチックな展開である。小説にでもしてみたくなるような話だ。

 天正年間になると、武田氏は衰退し、山名豊国は鳥取城を居城としていた。その頃には毛利氏の勢力が圧倒的であり、山名氏は毛利氏に属し、鹿野城には毛利氏の武将が城代として入城し、番をしていた。鹿野城には山名氏の人質が入れられて監視されていたという。

 天正8年(1580)、羽柴秀吉の軍勢が因幡に侵攻してきた。羽柴軍はまず鹿野城を攻撃して、奪取し、山名氏の人質も奪った。その後、山名豊国に投降を呼びかけ、豊国はそれに従うことになる。が、それに対して不満を抱いた家臣が豊国を鳥取城から追い出し、それが鳥取城の兵糧攻めにつながっていくというのは、鳥取城のところで述べたとおりである。

 鹿野城には亀井茲矩が城主として入城した。当時は1万5千石ほどの身代であったと言われる。以後、織豊期から、近世に至るまで、亀井氏の支配が続いていく。

 関ヶ原合戦でも亀井茲矩は東軍に属したため、加増されて3万8千石となった。さらに子息亀井政矩の時代に5千石の加増があり、結局亀井氏は4万3千石の大名となった。

 元和3年(1617)、亀井氏は石見津和野へ転封となる。元和の一国一条令もあり、その後、鹿野城は廃城となった。




河原城(丸山城・鳥取市河原町)

 河原町が近づいてくると、比高50mほどの山上に天守閣が見えてくるので、すぐにそこに城があることがわかる。といっても、この天守はもちろん模擬であるので、実際にこのようなものがこのお城にあったわけではない。これも竹下内閣時代の「ふるさと創生事業」によって誕生した城の1つであったようだ。

 現地案内版によると、川原城という城が存在したかどうかも確かではないらしい。しかし、町を望む目立つ山であるから、古くから砦のようなものが置かれていてもおかしくはない場所である。

 天正8年(1580)、羽柴秀吉は、大軍を率いて鳥取城を攻めるために進軍してきた。その際、この丸山に陣取ったのだという。そのためここは丸山城と呼ばれており、恒久城郭というよりは、一種の陣城であったらしい。

 確かに、ここからははるか遠くに鳥取城のある久松山を遠望することができる。陣を奥にはふさわしい場所であったのだろう。

 その後、平成になってからこの展望台が建てられたわけだが、名称は、住民投票で河原城となったのだという。つまり、川原城という名称自体が、本来の城とは異なってしまっているわけだが、それでも、このような目立つ天守があれば、多くの人は昔からこのような城が存在していたものと思い込んでしまいそうである。
















川越しに見る河原城。模擬天守があるため、かなり遠くからでも城らしく見える。 天守の入り口。立派な石垣や門があるが、もちろんみな模擬建造物である。
模擬天守。入城は無料であった。 模擬天守の望楼から見た下の駐車場。その先の小高い部分が古墳広場である。




布施天神山城(鳥取市湖山町南)


 広島の秋山さんからいただいた図を基にして作成した鳥瞰図。この城はまだ訪れていない。

 布施天神山城は、湖山池の東岸にある県立鳥取緑風高校のある一帯にあった。

 布施天神山城は、文正元年(1466)、山名勝豊によって築かれた城であるといわれる。

 その後、山名氏の居城となっていたが、永禄6年、鳥取城の武田高信の攻撃を受け、鹿野城へと退去、それ以後は廃城となったという。











裏山城(鳥取市湖南町南)

 広島の秋山さんからいただいた図を基にして作成した鳥瞰図。この城はまだ訪れていない。

 布施天神山城の北500mの、湖山神社のある比高20mほどの台地に築かれている。天神山城の支城の1つである。






 











山王社裏山城(鳥取市布施548)

 広島の秋山さんからいただいた図を基にして作成した鳥瞰図。この城はまだ訪れていない。しかし、図を見た限りでは、またく城らしくない。変わった形状の城郭だったようだ。

 山王社裏山城は、日吉神社という神社がある比高20mほどの馬蹄状の「卯山」に築かれている。布施天神山城の600mほど北方にあり、山名氏の家老森下氏の城であったという。

 尾根続きに隣接して布施古墳がある。













 










徳吉城(鳥取市徳尾80)

 広島の秋山さんからいただいた図を基にして作成した鳥瞰図。この城はまだ訪れていない。

 徳吉城は、鳥取市立高草中学校の南西300mほどの所にある比高20mほどの独立山に築かれていた。城内には大野見宿禰命神社が祭られている。

 築城年代は定かではない。永禄年間(1558年〜1570年)に徳吉将監の居城であった。天正9年(1581年)吉川経家が鳥取城に迎えられたとき、徳吉城にしばらく逗留したのちに鳥取城に入ったという。羽柴秀吉の鳥取城攻めのとき、徳吉将監は城を棄てて鳥取城に籠城した。鳥取城が落城した後は邑美郡古市に移り野に下ったという。






















 




























大竹屋旅館