鳥取県若桜町

*参考資料 『日本城郭体系』

若桜鬼ヶ城(若桜町若桜)

*鳥瞰図の作成に際しては、現地案内図とウモ殿からいただいた図を参考にした。

 国道29号線を北上していくと、若桜町に入り、若桜中学校の左手奥にそびえて見える、比高230mほどの山が若桜鬼ヶ城の跡である。急峻な山で、目を凝らしてみると、なんとなく石垣があるように見える。

 山頂近くまで車で行ける道が付いている。この道は、山を北側から回り込むようにつけられているので、そちら側に進まなければならないのだが、とりあえずは、若桜小学校を目指すとよいであろう。この小学校の北側に「鬼ヶ城」を示す案内が出ており、後は要所要所にあるこの案内に従って進んでいけば、やがて駐車場に達する。ここから馬場を抜けていったん降って、上がったところが本城部分である。

 馬場の先には土壇のようなものがあり、それによって堀切が形成されている。その先の鞍部を進んでいくと、再び道は登りになり、正面の奥に石垣が見えてくる。これがホウヅキ壇の石垣である。さらに案内表示に従って進んでいくと、城の東側の側面部を通って、三の丸の枡形虎口に進入するようになっている。これが大手道であったらしい。

 この途中、本丸天守台の下にあがっていく道もある。ここを進むと本丸下の部分で石垣に突き当たってしまう。現地案内版ではこれを「日本の城でも珍しい行き止まり虎口である」というように解説していた。しかし、行き止まりの石垣部分には梯子でも架かっていたのかもしれず、囮のための虎口であったと断定することはできないような気がする。これに近い構造は、この城の他の部分でも複数個所に見ることができる。

 三之丸に入る部分は石垣によって構成された枡形門である。かつては櫓門のようなものでもあったのだろうか。三之丸は城山の先端部にあるだけあって、非常に眺望が良い。若桜の城下が一望できる場所であるが、周囲の山容を見はるかすこともできる。見渡す限り、山、山、また山。けっこうな山の中だよなあ。街の中に線路と駅が見えている。線路は若桜駅で行き止まりである。第3セクターの若桜鉄道は、ここで終点となるらしい。

 三之丸と二之丸との間は、現在は緩やかな傾斜で区画されているだけであるが、大手枡形の石垣が側面にあり、右手にも石垣の壇が残っている。やはりこの間に城門が置かれていたのだろうと思われる。この郭の西側の側面には、搦め手方向から続く登城道が接している。これも見ようによっては行き止まり虎口に近い形状のものである。

 二之丸の正面奥には本丸の石垣が見えている。といっても、高石垣と呼べるほどのものではなく、二段構造になっている。それもけっこう崩落しているようである。これは、この城の他の部分でも言えることだが、石垣を積む高さは3mほどが限度であったようで、崩落部分が多いこととも合わせ、石垣構築技術がまだ未成熟な段階のものであったためと思われる。

 本丸の虎口も、だいぶ崩れてはいるが、枡形門であったようだ。本丸に入ると、正面に石垣壇が見えている。これが天守台と呼ばれているものであり実際に天守が建てられていたと想像できるのだが、台面積は10m四方にも足りないくらいのもので、天守といっても二層程度の小規模なものであったと思われる。

 本丸西側下の腰曲輪から、六角平に向かう道が搦め手門であったらしい。この辺りかなり形状が変形しているようだが、もともとは枡形を連ねるような構造となっていたのであろう。意外に技巧的である。

 ここから六角平方面に向かう途中の側面部の石垣が最も高く積まれている部分である。それでも途中にテラスを入れることによって二段構造にしている。

 そうして尾根の先を降っていくと、東屋の建つ六角平に出る。この部分の石垣は六角形に積まれているという。そこで実際に石垣の下に降りて、六角形になっているかどうかを確かめてみたのだが、ちゃんと六角あるのかどうかは確認できなかった。ただ、角度は直角ではなく鈍角になっているので、多角形になっているのは間違いない。

 鬼ヶ城の主要部はこのような感じで、全体に各面積はそれほど広くはないが、総石垣造りといっていい、手の込んだ造りをしている。しかも天守台、枡形など近世城郭的な要素もきちんと見られる。だが、石垣については、高石垣は構築できず、石が大きい割には頑強でもなかったようである。そういったことから、鬼ヶ城は、織豊期城郭から近世城郭へと、城郭構築技術が発展していく過程の過渡期の城郭であったのだと想像できる。

 だが、草に半ば覆われた石垣が山上に累々と続いているさまは、なかなか風情がある。一度は訪れてもいい城址だと思う。

東側の山麓から見る城址。比高230mもある急峻な山である。 二の丸東側側面部の石垣。ここの左手を上がったところに行き止まり虎口がある。
三の丸入口の枡形門の石垣。 三の丸から見た城下町。けっこう眺めがいい!
二の丸にある城址標柱と本丸の石垣。だいぶ崩落してしまっているようだ。 天守台の石垣。上部には小規模な穴蔵らしきものも見える。
本丸西側の石垣。通路をはさんで下にも石垣がある。ここも2段構造となっているというわけだ。 本丸西側下の枡形跡。崩落してしまっていて旧状が分かりにくいが、櫓門でも建っていたのかもしれない。
三の丸から西の郭に降りて行く途中の石垣。 石垣は二段構造になっており、途中にテラスがある。この部分の石垣が最も高く積まれており、迫力がある。
六角石垣の屈曲部。ちゃんと六角になっているかどうかは確認できなかったが、鈍角になっているのは間違いない。 馬場手前の堀切から、馬場入口を見たところ。
 若桜鬼ヶ城がいつ築城されたのかははっきりしない。当地には古くから矢部氏という豪族がおり、この矢部氏によって築かれたと考えられるが、その頃は、このような本格的な石垣を有した城ではなかったであろう。矢部氏はこの城に拠って、尼子氏、毛利氏らとの攻防戦を繰り広げたという。

 現在見られるような城が築かれたのは、やはり羽柴秀吉がこの地に影響を及ぼして以降のことであろうと推測される。
 天正6年(1578)、羽柴秀吉は、荒木平太夫にこの地を与えた。荒木氏は後に木下備中守を名を改め、それから慶長5年の関ヶ原合戦で西軍に加担して改易となるまで、この城に在城していた。したがって、現在見られる遺構の大半は、この木下備中守によって築かれたものであると思われる。木下備中守は2万石の大名であり、城の規模もそれにふさわしいもの、といっていいかもしれない。

 ただし、このような山上で平素生活できるはずもなく、ここはあくまでも詰めの城であり、平素の居館は、山麓のどこかに営んでいたのだと思われる。





































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