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14世紀の初頭、アナトリアの辺境に生まれた小国は、バルカン、アナトリア、アラブ世界、北アフリカを覆う大帝国に発展し、19世紀までの約500年にわたって、多民族と多宗教を束ね、長期の安定を実現した。この「オスマン帝国」は、一般に理解されているような「イスラム帝国」であり「トルコ人の国」だったのだろうか?
予期せぬ瞬間 2017/9/9 アトゥール・ガワンデ(著),石黒達昌(監修),古屋美登里(翻訳)
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トルコ共和国の歴史
(アナトリアに去来した国々 2008/03)
支配者の変遷 ローマ帝国 オスマン帝国 トルコ共和国 去来した国々

◆イラン・ギリシャの影響力、支配者の変遷

最終的にトルコ共和国の母体となる小アジア(アナトリア)は、西洋、中東・中央アジア等小アジア周辺の統一王国の影響を強く受け、歴史の中で多くの王朝・王国が去来する場所となりました。その時の王国・王朝が受容する文明・文化・宗教もまたその地を駆け抜け、また定着しました。なお、トルコの地理的な位置・国としての属性については、トルコ旅行広大な自然と悠久の歴史)に記載しましたのでご参照ください(ご参考:他の国の歴史については、「記事一覧:歴史」をご参照下さい)。

小アジアの統一王国は、古代ギリシャの都市国家が小アジア西岸に点在する中で、紀元前1500年ごろに中央アジアより侵入した、ヒッタイト人(インド・ヨーロッパ系語族)によるヒッタイト王国が、その最初となりました。やがて紀元前1200年ごろのバルカン半島からの民族移動で、ヒッタイト王国も滅亡し、紀元前9世紀ごろイラク北部より台頭したアッシリア人により、中東全土(イラン・イラク・シリア・エジプト・小アジア)を統一した、アッシリア帝国が建設(紀元前7世紀)され、小アジアは中東に包含される外延勢力として位置づけられました。

アッシリア帝国は、圧制による反乱で分裂・滅亡しましたが、紀元前6世紀にイラン高原に住むイラン人(ペルシャ人)が、アケメネス朝ペルシャを建設、インダス川・中東・リビア・マケドニアを支配しました。王朝は変われどイラン人による中東の支配は、その後1000年以上も続きました。

強大なアケメネス朝も、マケドニアのアレクサンドロスの東方遠征紀元前4世紀)により滅亡し、その版図は大王の死後、セレウコス朝シリア、エジプト(プトレマイオス朝)、マケドニア(アンティゴノス朝)のギリシャ人による王朝に継承されました。後に西方より襲来するローマ帝国ご参考:イベリア半島の統一 スペイン王国建国)により滅亡するまでの間、地中海地域と中東地域には、ギリシャ文化とペルシャ文化が融合したヘレニズム文化が開花しました。

 

ギリシャ都市国家時代のアナトリア ヒッタイト王国の説明 ヒッタイト王国の説明 リデイア王国の説明 アケメネス朝ペルシャの説明 セレウコス朝シリアの説明 ペルガモン王国の説明 アッシリア帝国の説明 東方遠征の説明 トロイの遺跡へ カッパドキアへ エフェソスの遺跡へ

 

◆長期に亘るローマ帝国の支配、そしてトルコ民族の台頭

ローマ帝国の版図拡大による東進で、ペルシャ帝国を継承したギリシャ人の王国は、紀元前1世紀に滅亡し、小アジアはローマ帝国・その後のビザンツ帝国の支配下に服属しました。また、エジプトとシリアを除く中東は、イラン高原より紀元前1世紀に台頭したパルティア王国、3世紀にその後を継いだササン朝ペルシャのイラン人王国が支配しました。両勢力は小アジア東部・アルメニアで500年に亘り攻防・対峙しました。その間の国勢消耗で弱体化したササン朝ペルシャは、アラブ遊牧民の侵入で7世紀に滅亡しました。これにより1000年以上におよぶ、中東におけるイラン人の支配は終焉しました。

7世紀に入りアラビア半島のアラブ人が大農耕地帯へと民族移動を始め、これが大征服運動となり、北アフリカ・イベリア半島・中東・インダス川流域に至る巨大イスラム帝国が建設されました。この過程で、ビザンツ帝国は、シリア・エジプト・北アフリカ・イベリア半島を喪失して弱体化しました。あわせて、中央アジアのイスラム化が進展しました。

正統カリフ時代・ウマイヤ朝アッバース朝と王朝を重ねたアラブ人のイスラム帝国も、11世紀に中央アジアに台頭した、遊牧トルコ民族のセルジューク朝に実権を握られました。また、ビザンツ帝国もセルジューク朝との戦いに敗れ小アジアに侵入され、小アジアには地方政権のルーム・セルジューク朝が成立しました。しかし、その後13世紀から14世紀にかけて、ユーラシアの大部分を支配するモンゴル帝国が成立して、小アジア及び中東全域(エジプトを除く)が、その支配下に編入されました。

やがてモンゴル帝国の分裂を機に、小アジアから勃興したトルコ系オスマン族がオスマン帝国を建国、バルカン半島に侵入しましたが、その時中央アジアのティムール帝国に侵攻されアンカラで敗北して、存亡の危機に立ちましたが復興して、再度バルカン半島を攻略、15世紀に首都コンスタンチノープルが陥落して、ビザンツ帝国およそ1000年の歴史の幕を閉じて滅亡しました。

 

ローマ帝国・ビザンツ帝国時代のアナトリア ローマ帝国の説明 ビザンツ帝国の説明 セルジューク朝等の説明 オスマン帝国の説明 大征服運動の説明 ティムール帝国の説明 アヤ・ソフィアへ カッパドキアへ

 

◆オスマン帝国の栄枯盛衰、そして西洋のイスラム世界侵食

オスマン帝国は、強力な軍事力と寛容な支配で勢力を拡大して、16世紀には地中海の制海権を含め、東西はアルジェリアからイラク、南北は黒海北岸・ハンガリーからエジプトに至るアジア・アフリカ・ヨーロッパにまたがる大帝国を建設しました。しかし、大航海時代(ご参考:ポルトガル王国建国 スペイン王国建国)・産業革命・フランス革命・民族独立運動と時代は変遷して、その過程で地中海の制海権の喪失、経済力・軍事力をつけた列強の介入・ギリシャの独立運動等で次々と領土を喪失していきました。また、軍事費拡大・近代化コスト・官僚の腐敗等で、国家財政の疲弊が拡大し内面からの衰退も加速しました。

そうした中、19世紀後半における植民地帝国イギリスのアジア貿易政策(エジプト・スエズ運河・ペルシャ湾支配によるインド洋航路の確保)と新興ドイツ帝国のペルシャ湾進出政策(オスマン帝国内のバクダッドへの鉄道建設)が衝突、これが20世紀初頭の第1次世界大戦に発展し、中東も帝国主義戦争に巻き込まれていきました。

オスマン帝国はドイツ帝国と連携し参戦しますが敗北して、既に失っていたヨーロッパ側領土以外の、大半の領土を喪失して存亡の危機に瀕しました。また、帝国より開放されたアフリカ・中東は、戦後英仏により分割支配され、中東の戦後処理は、後に禍根を残すパレスチナ問題・クルド人の独立問題の火種を包含しました。

列強の共同植民地的状況となった戦後のオスマン帝国は、列強に対するムスタファ・ケマル祖国解放戦争・トルコ革命によって消滅し、また、ムスタハ・ケマルは占領諸国軍との戦いに勝利して、1923年にローザンヌ条約を列強と締結、領土保全と主権を回復してトルコ共和国を樹立しました。英仏は、ロシア革命の中東への波及を恐れ、トルコへの譲歩を行いました。ムスタハ・ケマルは、その後初代大統領となり、新憲法発布、スルタン制度廃止、イスラム教の非国教化等の改革を実施して、トルコの近代化・民主化・西欧化を実現しました。

 

オスマン帝国・トルコ共和国時代のアナトリア トルコ共和国の説明 オスマン帝国の説明 トプカプ宮殿へ ブルーモスクへ アタチュルク廟へ

 

 

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◆トルコ共和国の歩み

1930年代以降平和外交を基本におき、第2次世界大戦も中立を維持(終戦間際に独・日本に宣戦布告はするが)、民族国家主義的近代化推進の中、社会基盤の整備・国営化、農村の近代化を進めました。戦後はソ連との友好関係を終焉させ反ソ・親米に転換して、反共軍事基地の提供の代償として、米欧より経済援助を受けました。しかし、インフレ・失業者問題(西欧への出稼ぎ増大)・経済低迷で、1960年5月に軍部の政治介入が入り政権の交代がおきました。

翌年民政に移管されるが、1960年代以降も、学生運動とテロ、イスラム復古の中、社会経済改革・土地改革・財政改革は進まず、再度の軍事介入(1971/03:書見によるクーデター)も発生、また、キプロス派兵1974/06)で米欧の反発を受け、外交も全方位(周辺諸国・アラブ諸国(石油))に転換しました。そして、1973年の石油危機で、トルコ経済は完全な破産状態に陥いりました。右派・左派のテロ激化、宗派対立、イスラム復古の台頭と、政治・社会危機の深刻化が継続する中で、1978年以降のイラン革命・ソ連のアフガン侵攻等の政局変動や、軍部(スタンスは世俗主義・親米)の政治介入(1980/09)があり、米国・西側諸国との関係も改善され、基地使用と交換で経済援助が再開されました。

1990年代も、爆弾テロ・その後も続くイスラム過激派の世俗主義者暗殺、1984年のクルド人労働党の武力闘争等政局不安は継続しました。そして、政権運営は労働運動の圧殺・外資導入努力による国家資本主義の促進等で、貧困格差問題・ドイツ内のトルコ人大量居住者・バルカンの低賃金労働者流入問題等内包する課題も多いが、継続する経済問題(経済危機・失業者・高インフレ)・人権問題の改善に向け、欧州関税同盟加入(1996/01)、EU加盟候補国承認等EUへの加盟努力が継続されています。

トルコ経済は、1999年の大地震、2000年の中小金融機関の不正による貸し渋り、折からの米国同時多発テロの発生、世界経済の減速等より2000年から2001年にかけて金融危機を迎えました。IMFに支援を仰ぎ、IMF主導の構造改革公共投資削減等緊縮財政政策、国営銀行の巨額な不良債権処理、国有企業の民営化)により2003年以降立ち直り、慢性的なインフレ体質を改善、EU加盟努力による法制度の透明化等で海外からの投資も拡大、輸出拡大等もあり近年の高成長を実現しています。

今後の課題は、慢性的な経常赤字の拡大是正、成長に伴うエネルギー・資源(ご参考:偏在するエネルギー・鉱物資源)の輸入増加による貿易赤字体質の改善が必要で、輸出産業・観光産業の国際競争力強化が重要となります。特に繊維産業等軽工業製品がまだまだ多い産業構造からの転換が必要となります。

 

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トルコ共和国 備考
1939 第2次世界大戦、和平・不可侵条約等締結、参戦せず 第2次世界大戦開始(09)
1945 第2次世界大戦終盤、独・日本に宣戦布告(01) 第2次世界大戦終了(08)
1948 (イスラエル承認(1949年)) イスラエル建国。第1次中東戦争(05)
1952 NATO加盟(朝鮮戦争に参戦) 朝鮮戦争(1950年〜1953年)
英軍、スエズ運河封鎖(01)
1960 軍の「5.27クーデター」、大統領・閣僚等裁判に 日米安保改定調印、安保闘争(06)
1961 民政移管(10) OECD発足(09)
1971 学生運動激化・テロ化。軍による「書見による
  クーデター」、政権交代
国連で、中国が国連代表権獲得(10)
1973 石油危機より経済混乱 第4次中東戦争(1973/10)で第1次
  石油危機(1973/10)
1974 トルコ系住民保護でキプロス侵攻(06)、欧米非難 インド、地下核実験(05)
ハワイ初の日系人知事誕生
1980 経済安定対策(輸出重視・工業化)(01)
軍による「9.12クーデター」、政府解散・戒厳令発布(09)
イラン・イラク戦争、両国に中立の立場維持
トルコ・米国、防衛・経済協力協定締結
イラン・イラク戦争
   (1980/08〜1988/08)
1981 資本市場法施行 イスラエル、イラクの原子炉爆撃(06)
1983 民政移管(11)
北キプロス・トルコ共和国承認(11)
ラングーンで韓国閣僚暗殺事件(10)
北キプロス・トルコ共和国独立(11)
1984 自由化政策(競争原理の導入)
クルド労働者党(PKK)、独立に向けた武装闘争開始
欧州評議会諮問会議に参加、欧米関係を修復(05)
米、レーガン大統領再選(11)
1985 自由貿易地域法施行
イスタンブール証券取引所開設(12)
ソ連、北朝鮮、原子力発電所建設
  協力協定に調印(12)
1989 証券・債券市場、外資開放(08) 中国、天安門事件(06)
ベルリンの壁撤去(11)
1991 ソ連崩壊で独立したコーカサス諸国・中央アジア諸国との
  関係模索
第1次湾岸戦争(01〜03)
ソ連邦解体(12)
1992 黒海沿岸諸国と黒海経済協力機構創設(06) ユーゴ連邦、クロアチア停戦合意(01)
1993   イスラエル、PLO相互承認(09)
欧州共同体(EU発足(11)
1996 トルコ・EU諸国間の関税同盟協定発効(01)
イスラエルと軍事協力協定・軍事産業協力協定締結
タリバン、アフガニスタンの首都
  カブールを制圧(09)
1999 クルド労働者党(PKK)、首脳逮捕で武装闘争収束(02)
トルコ北西部にM7.4の大地震(08)
ユーロ誕生(11ヶ国:01)
第二次チェチェン紛争勃発(09)
2000 金融危機(11) シドニーオリンピック(09)
2001 金融危機(02)、 IMF・世銀より金融支援
クローリン・ペッグ制から変動相場制へ移行(02)
中央銀行法改正(05)
米国同時多発テロ(09)
タリバン政権崩壊、臨時政府
  樹立(12)
2002   アフガンに移行政権樹立(06)
2003 イラク軍事行動で対米協力(基地使用)拒否(03)
新海外直接投資法施行(国際法準拠)(06)
消費者保護法改正(EU準拠)(06)
イスタンブールで自爆テロ、新米世俗主義標的(11)
第2次湾岸戦争、イラク政権崩壊(03)
北の核、日米韓中露朝6者会議(08)
2004 ロシア・トルコ、共同宣言(友好関係)署名(12) マドリードで列車同時爆破テロ(03)
EU憲法条約採択(10)
2005 デノミネーション(旧100万リラ→新1リラ)実施(01)
京都議定書承認・発効(02)
EU加盟交渉開始(10)
銀行法施行(11)
中国反日デモ、日本企業標的(04)
ロンドンで同時多発テロ発生(07)
2006 ギリシャ・トルコ、ホットライン設置覚書(信頼醸成)
  調印(06)
トルコ・米国、地域情勢への取組み等戦略文書合意
インドで同時列車テロ発生(06)
タイ、軍事クーデターで政権崩壊(09)
朝鮮、地下核実験(10)
2007 首都アンカラで自爆テロ、死傷者100名以上(05)
トルコ・イラク、治安合意(PKK問題)署名(09)
トルコ軍とPKKが交戦 PKKの十数人死亡か(10)
イラク北部 クルド人自治区に経済制裁を勧告(10)
トルコ、大統領公選に国民投票 7割賛成(10)
米・トルコ、対PKK情報共有強化などで合意(11)
トルコ軍300人がイラク北部に越境 PKK掃討(12)
北の核、6カ国協議合意(02)
印、中国に届く弾道ミサイル実験(04)
パキスタン軍、回教寺院へ突入(07)
ミャンマーのデモ、武力弾圧(09)
アルメニア人虐殺でトルコ非難
  決議、米下院外交委(10)
2008 トルコ軍、イラク北部越境攻撃続く(02)
越境トルコ軍 撤収開始 「目的を達成」(03)
左派候補が勝利、統合交渉へ弾み。
  キプロス共和国大統領選(02)
コソボ独立宣言 混乱のバルカン(02)
チベット騒乱拡大。 欧州各地で
  抗議デモ(03)

 

 

<補足>

 

◆アナトリアに去来した国々

○ヒッタイト王国

印欧系語族のヒッタイト人が、紀元前2000年ごろよりアナトリア(小アジア)に移動、やがてハットゥシャ(アンカラの東約150Km、現ボアズカレ)に、ヒッタイト王国(B.C.1650〜B.C.1200)を建設、アナトリア・シリア等を支配し繁栄しました。また、製鉄技術・銅の精錬方法も編み出しました。しかしながら、北方領域のガシュカ族の侵攻・都ハットゥシャ拡張工事での疲弊・バルカン地方から起こった民族大移動(海の民、フリギア人、B.C.1200ごろ)により終焉を迎えました。

ヒッタイト人の一部はアナトリア東南部・北シリアに移動し、紀元前11世紀ごろに勢力を盛り返し、紀元前8世紀まで、後期ヒッタイト王国として存続(アッシリア帝国に滅ぼされました)しました。この時代を物語る遺跡は、「ハットゥシャ遺跡」・アナトリア文明博物館アンカラ)等に残されています。

○リディア王国

ヒッタイト王国の後、アナトリアに生まれたフリギア人の王国は、紀元前7世紀末にリディア王国(B.C.609〜B.C.546)に攻められ滅亡、アナトリアはリディア王国の支配下に入りました。しかし、リディア王国も後に広大な中東世界を支配することになる、アケメネス朝ペルシャとの戦い(B.C.546年)に敗れて滅亡、アナトリアはペルシャ(イラン人)の支配下に入りました。フリギア人の遺跡は、ヒッタイトやそれ以前の都市遺跡と重なって発見されています。主な遺跡はサカリヤ河に面した、ゴルディオン(現在のヤッシュ・ホユック)があります。

○アケメネス朝ペルシャ

イラン高原より勢力を伸ばしたイラン人(ペルシャ人)は、紀元前6世紀に旧アッシリア帝国より分裂した4ヶ国を征服・統合して、東はインダス川から西はエジプトやエーゲ海・マケドニアまでの地域を支配する、アケメネス朝ペルシャ帝国(B.C.550〜B.C.330)を建設、以来広大な中東世界を、柔軟な統治法により200年にわたり支配しました。そして、不服従の西方のギリシャの諸都市国家を征服するための、ギリシャとの戦いは、この間こう着状態となっていました。

○アレクサンドロスの東方遠征とペルシャ帝国の継承

ペロポネソス半島北側にあるマケドニアは、ペルシャ帝国に臣従していたが、アレクサンドロスが王位につくと反旗を翻し、イッソスの戦いでペルシャ軍を破り、紀元前330年にペルシャ帝国を滅ぼしてしまいます。その後帝国全土を征服して、ペルシャ帝国をギリシャ人の帝国(B.C.334〜B.C.321)として継承します。

しかし、アレクサンドロス大王はバビロン(ティグリス・ユーフラテス両川の間の中流域にあった古代の大都市)で急死(B.C.323)、帝国は3つに分裂します。分裂した3ヶ国、セレウコス朝シリア(旧ペルシャ帝国)、プトレマイオス朝エジプト(B.C.304〜B.C.30)、アンティゴノス朝マケドニア(ギリシャ含む、B.C.306〜B.C.168))は、ギリシャ人の国家として西アジア・地中海世界を支配します。

○セレウコス朝シリア

アレクサンドロス大王の死後のアナトリアは、セレウコス朝シリア(B.C.312〜B.C.63)の支配下に入ります。この地の文明はギリシャ文化の影響を強く受け、ヘレニズム文化として開花しました。また、西方のギリシャと東方のインド・中国との交流のルートとして着々と地歩を築きました。しかし、セレウコス朝シリアは、紀元前63年に、ローマ軍のポンペイウスに敗れ滅亡 してしまいました。

○ペルガモン王国

ペルガモン王国(イズミールより車で約1.5時間、現ベルガマにあった王国)は、紀元前282年に、セレウコス朝シリアより、小アジアの支配権を得て独立(B.C.262)しました。その後繁栄の時代を迎え、第二のアテネと称されるほどになりましたが、紀元前133年に王国をローマ帝国に寄贈、アジアの属州となって、8世紀中ごろまで、自由都市としての地位を保ち存続しました。

 

 

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○ローマ帝国

紀元前4世紀後半から、イタリア半島の都市ローマが次第に勢力を拡大して、地中海対岸の国家カルタゴ(フェニキア人の国家、現チュニジア、B.C.146滅亡)を、およそ100年間の戦いの後に征服して、地中海の西方の覇者として台頭しました。この後東方を目指し、ギリシャ人国家のマケドニア王国、セレウコス朝シリアを滅ぼし、さらにエジプト王国を保護国に置き、強大なローマ帝国を建設(B.C.133〜A.D.395)しました。

支配地拡大に伴いローマ帝国の政治の中心は、西方のローマより東方に移り、コンスタンチノープルへ遷都(A.D.330)しました。その後ローマ帝国は、東方のギリシャ文化を継承するビザンツ帝国と、発祥の地ローマを継承する西ローマ帝国の東西に分裂 (395年)し、分割統治を行いますが、5世紀後半に北方のゲルマン人の侵入の中、西ローマ帝国は476年に滅亡します。

○ビザンツ帝国(東ローマ帝国)

ビザンツ帝国(395年〜1453年)は、西ローマ帝国の滅亡後も繁栄を続けましたが、イラン人王朝のササン朝ペルシャ(A.D.226〜A.D.651、メソポタミア・イラン高原・中央アジアを支配した帝国、アラブ人の侵入で滅亡)との攻防、その後に続いたアラブ人征服運動により成立した、イスラム巨大帝国との攻防により次第に衰退していきました。

アラブ人による巨大イスラム帝国は、イスラム教の普及拡大と王朝の領土拡張と共に、大きく3期に区分されます。正統カリフ時代(632年〜661年)には、ビザンツ帝国よりエジプトを奪取して、中東の中心部がイスラム帝国の支配下に入りました。次のウマイヤ朝時代(661年〜750年)には、ビザンツ帝国より北アフリカ、イベリア半島を奪い、インダス川流域まで支配下に治めました。そして、最後のアッバース朝時代(750年〜1258年)には、西トルキスタントとシルクロードを支配下におきました。この過程で、ビザンツ帝国は多くの領土を喪失してしまいました。

また、9世紀後半に、モンゴル高原のトルコ人が中央アジアに移住し、アラブ人のイスラム帝国によりその地に普及した、イスラム教に改宗しました。その後その中のセルジューク族が、セルジューク朝(1037年〜1194年)を開き、小アジアにも進出して、小アジアのイスラム化が進展していきました。

○セルジューク朝、ルーム・セルジューク朝

アラブ人のイスラム王朝であるアッバース朝は、9世紀に全盛期を迎えますが、10世紀に入るとエジプトやイランに独立の動きが強まり、中東地域は次第に分裂状態になりました。そのような中、トルコ系遊牧民のセルジューク族は、11世紀から12世紀にかけて勢力を拡大して、現在のイラン、イラク、トルクメニスタンを中心に、イスラム王朝のセルジューク朝(1037年〜1194年)を建設しました。

そして1055年にバグダードに入城して、シーア派のブワイフ朝(現イラン:932年〜1062年)を倒し、アッバース朝のカリフから「スルタン」の称号を得て、スンナ派政権を樹立しました。また、マザーズ・ギルドの戦いで、ビザンツ帝国を破り(1071年)、小アジアに進出、最盛期には中央アジア・アナトリアから地中海に至る、大帝国を築きましたが、その後の内紛により分裂、聖地エルサレムの占領を契機とした十字軍の派遣(1096年〜1272年)等、周辺環境が悪化する中で衰退していきました。

分裂した王国は、大セルジューク朝の地方政権として存続して、シリア(1092年〜1117年)、イラク・ホラサン(1092年〜1194年)、キルマン(1092年〜1187年)、ルーム(1077年〜1308年、アナトリアを支配)の各セルジューク朝が成立しました。大セルジューク朝は、セルジューク朝より独立したホラズム朝(1077年〜1231年)に滅ぼされ、1194年に滅亡しました。小アジアは、ルーム・セルジューク朝(首都はコンヤ)が統治して、その後も繁栄を続けました。この時代の遺跡に「カッパドキアの洞窟教会ご参考:世界遺産と海外旅行者 海外旅行、行き先候補は)」、「メブラーナ教創立(コンヤ) 」等があります。

イスラム世界は、トルコ人の活躍によって発展を遂げてきましたが、13世紀に入るとモンゴル人の侵入を受けて、やがて次々とその支配下に編入されました。イランのホラズム朝は、モンゴル帝国のチンギス・ハンに討たれ(1220年)、1231年に滅亡しました。約500年間続いたアッバース朝も、フラグ・ハンによる1258年のバグダード陥落により滅亡しました。ルーム・セルジューク朝はキョセ・ダグの戦いに敗北して、モンゴル帝国の属国になり(1243年)、そして1308年に滅亡しました。

ルーム・セルジューク朝末期の小アジアには、トルコ系諸侯が独立して、アミール諸侯国(1307年〜1299年)として各地に割拠しました。その一つであるオスマン族(アナトリア西北部)が急激に勢力を拡大して、ビザンツ帝国の衰退に乗じて、周辺のビザンツ帝国の諸侯の領土を支配下におき、台頭してきました。

○オスマン帝国

西トルキスタンのホラサン地方で半遊牧生活を送っていたオスマン・トルコ族は、モンゴル帝国の圧迫を受けて西進して、小アジアの西北部に入り、ルーム・セルジューク朝に仕えたが、その衰退に乗じて独立して、オスマン帝国(1299年〜1922年)を建国しました。小アジア西部の攻略(首都ブルサ:1326年)、対岸のバルカン半島進出(アドリアノープル遷都:1362年)と勢力を拡大して、コソヴォの戦い(1389年)で、セルビアを盟主としたバルカン諸民族の軍を撃破し、バルカンの支配権を確立しました。

また、ニコポリスの戦い(1396年)で、ハンガリー王を中心とするバルカン諸国・フランス・ドイツ・イギリスの、ヨーロッパ連合十字軍を撃破し、さらにコンスタンティノープル攻略に取りかかりました。この時、突如東方からティムール帝国が小アジアに攻め入り、アンカラの戦い(1402年)で大敗・皇帝が捕虜となり、オスマン帝国は一時王位が中断(1402年〜1413年、皇帝の空位時代)しました。しかしスルタン継承争いの後に、後継者によりオスマン帝国の復興が計られ、再びバルカン半島に領土を拡大し、ついにコンスタンティノープルを攻略し、1000年以上続いたビザンツ帝国(395年〜1453年)を滅ぼし、1453年にコンスタンティノープル(イスタンブル)に遷都しました。

その後、バルカン半島や黒海沿岸地方を征服し、新興のサファヴィー朝(1501年〜1736年、ティムール帝国滅亡後のイラン民族国家)から、小アジア東部やメソポタミアを奪い、1516年にはシリアを奪い、翌1517年にはマムルーク朝を滅ぼしてエジプトを併合しました。また、モハッチの戦い(1526年)でハンガリー王を敗死させ、1529年にはウィーンを包囲、1538年にはプレヴェザの海戦(プレヴェザはギリシア西岸の地)で、スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊を破って、地中海の制海権を握り、北アフリカではチュニスにも侵攻しました。こうしてオスマン帝国は、スレイマン大帝(1494年〜1566年)の時に最大の領土を領有し、アジア・アフリカ・ヨーロッパの3大陸にまたがる当時の世界最強の国家となり、ヨーロッパの政局にも大きな影響を及ぼしました。

しかし、オスマン帝国は、16世紀後半ごろから、ヨーロッパに対する経済的・軍事的優位を喪失して、17世紀以降のヨーロッパの経済成長、19世紀には民族主義運動、ロシア・ヨーロッパ諸国の干渉によって徐々に衰退していきました。主な出来事として、スペイン(ご参考:スペイン旅行)とのレパント海戦(1571年)敗北で、地中海の制海権喪失、1683年の第2次ウイーン包囲失敗、ギリシャ独立戦争(1821年〜1829年)、露土戦争(1877年〜1878年)、伊土戦争(1911年〜1912年)、バルカン戦争(1912年〜1913年)と敗退を重ね、その度に国勢とヨーロッパ側の領土を失っていきました。

やがて、イギリスとドイツが引き起こした第一次世界大戦(1914年〜1918年)に、ドイツ側にたち参戦して敗戦、ムドロス協定でロシア・イギリス・ギリシャ等連合国の分割占領の中、大半の領土を失い滅亡の危機に瀕しました。この時始まったムスタファ・ケマルの祖国解放戦争・トルコ革命によって、占領連合軍を打ち破り、スルタン制度を廃止してオスマン帝国は消滅、連合国とのローザンヌ条約締結によって、領土回復とトルコ共和国が樹立されました。

○トルコ共和国

ムドロス協定後の戦勝国の領土分割に対して、ムスタファ・ケマル指導の祖国解放戦争(1919年〜1923年)が始まり、各所の戦いに勝利して、連合国とセーブル条約を調印(1920/08)、領土保全とアナトリアに主権国家を築きました。その後も領土回復に努め、アナトリア東部のアルメニア人の独立運動を阻止、ロシアとギュムリュ平和協定調印(1920/12)、フランスとアンカラ条約締結(1921/10、仏軍アダヤ周辺より撤退)、ギリシャ軍を撃退しイズミールを開放(1922/09)、そして、カリフ制とスルタン制度を分離・スルタン制度の廃止の決定(1922/11)、連合国とのローザンヌ講和会議締結(1923/07)でトルコ国境が決定、トルコ共和国が成立しました。

独立により初代大統領になったケマル・アタチュルク(トルコの父の意味)は、新憲法発布、スルタン制度廃止、イスラム教の非国教化の大改革を実施、トルコの近代化・西欧化を実現しました。第2次世界大戦以降のトルコは、反ソ・親米路線の中、民族国家資本主義を継続・推進して、財政支出と外資導入努力の中で、社会基盤の整備・国営化、農村の近代化を推し進めていきました。時代の変遷の中でも常に繰り返される経済問題(高インフレ・失業者問題・経済低迷)で、学生運動・左右両派のテロ活動・イスラム復古と世俗主義者の暗殺・宗派対立・3度の軍部のクーデター・クルド人問題等々政局不安も繰り返されてきました。

振り返れば、1973年の石油危機で国家財政は破綻状態に、翌年のキプロス侵攻で米欧の反発を受け危機的な状況が続く中、1978年以降の政局の変動(イラン革命・ソ連のアフガン侵攻)で、米欧との関係改善、経済支援が再開されることで困難な状況を乗り超えました。そして、欧州経済圏との一体化の経済・外交政策の中、1996年に欧州関税同盟加入、1999年のEU加盟国候補承認を受けて、経済・金融・人権対策を徐々に推進しています。

現在のトルコは、2000年からの2度の金融危機をIMFの金融支援で乗り切り、IMF主導の構造改革(公共投資削減等緊縮財政政策、国営銀行の巨額な不良債権処理、国有企業の民営化)により、2003年以降立ち直り、慢性的なインフレ体質を改善、EU加盟努力による法制度の透明化等で、海外からの投資も拡大、輸出拡大等もあり高い経済成長を続けています。

 

◆アナトリアに関係した国々

○アッシリア帝国

紀元前9世紀に、イラク北部の商業民であるアッシリア人が台頭、紀元前7世紀には、イラク・エジプトを支配するアッシリア帝国(B.C.745〜B.C.609)を建国しました。その後シリア・イランと小アジア(アナトリア)の一部を加えた大帝国に成長するが、「過酷な課税」と「伝統・宗教を無視した集権支配」への反発から、諸民族が反乱を起こして、リディア王国 (小アジア)、新バビロニア王国(現シリア)、メディア王国(現イラン)、エジプト王国の4ヶ国に分裂し、アッシリア帝国は滅亡しました。

○アラブ民族の大征服運動によるイスラム帝国の出現

セレウコス朝シリアの滅亡後にイランに建国したパルティア(紀元前250年ごろ〜紀元後3世紀)、そしてパルティアを滅ぼし建国したササン朝ペルシャ(3世紀前半〜7世紀中ごろ)は、ローマ帝国及び後継のビザンツ帝国と、小アジア東部・アルメニア・東メソポタミアで長期の抗争を続けてきました。この為、両巨大帝国の疲弊も激しく、642年に侵入してきたアラブ遊牧民に、ササン朝ペルシャは、651年に滅ぼされてしまいました。

この頃アラビア砂漠から大農耕地帯に向けた、アラブ民族の民族移動がおこり、それと平行して、アラブ民族による大征服運動が進められたため、シリア・エジプトのイスラム化が急進展し、この後およそ6百数十年におよぶ、アラブ民族による大イスラム帝国の建設が始められました。この時代は大きく3つに区分され、中東の中心部を支配した「正統カリフ時代(632年〜661年)」、北アフリカ・イベリア半島・インダス川流域に支配を拡大した、「ウマイヤ朝時代(661年〜750年)」、西トルキスタンとシルクロードを支配した、「アッバース朝時代(750年〜1258年)」になります。

○アッバース朝

ウマイヤ朝の後の中東を支配した、アラブ人のイスラム王朝であるアッバース朝(750年 - 1258年)は、全盛期の第5代カリフの死後(809年)、エジプトやイランで独立の動きが強まり、中東地域は次第に分裂状態に陥っていきました。やがて、エジプトにはシーア派イスラム王朝の、ファーティマ朝(909年〜1171年)が成立して、チュニジア・エジプトを支配しました。イランには同じくシーア派イスラム王朝の、ブワイフ朝(932年 - 1062年)が成立して、イラン・イラクを支配しました。ブワイフ朝は、後に中央アジアにおきたセルジューク朝に、アッバース朝はモンゴル帝国により滅ぼされました。

○ホラズム朝とモンゴル帝国

ホラズム朝(1077年〜1231年)は、セルジューク朝のホラズム太守が建国した国であるが、セルジューク朝からイランを奪い、やがてイラン全土を領有しました。領土拡大途上で、モンゴル帝国のチンギス・ハンに討たれ(1220年)、ホラズム朝は事実上崩壊し、1231年に滅亡しました。アラブ人のイスラム世界は、トルコ人の活躍によって発展を遂げてきたが、13世紀に入るとモンゴル人の侵入を受け、やがてその支配下に置かれました。ルーム・セルジューク朝はキョセ・ダグの戦いに敗北して、モンゴル帝国の属国に(1243年)、そして滅亡(1307年)しました。フラグ・ハン(1218年〜1265年、チンギス・ハンの孫)に率いられたモンゴル軍は、1258年にバグダードを陥落させて、アッバース朝最後のカリフを殺し、約500年間続いてきたアッバース朝を滅ぼしました。 そして、イラン・イラクを征服して、イル・ハン国(1258年〜1353年)を樹立しました。

○ティムール帝国

ティムール朝(ティムール帝国、1370年〜1507年)は、14世紀中頃、中央アジアの英雄ティムールによって、サマルカンドを都として建国されました。ティムールは、東チャガタイ・ハン国を併合し、次いで西アジアに遠征して、イル・ハン国滅亡後の領土を併合(1393年)し、さらにキプチャク・ハン国(1395年)や、西北インド(トゥグルク朝:1398年)にも侵入しました。その後、マムルーク朝からシリアを奪い(1400年)、さらに大軍を率いて小アジアに進出し、アンカラの戦い(1402年)で、勃興期のオスマン帝国軍を撃破し、皇帝を捕虜にしてオスマン帝国に大打撃を与えた。こうした遠征によって最盛期には、東はトルキスタン(中央アジア)、西は小アジア、北は南ロシア、南はインド北部にまたがる大帝国を建設したが、皇位継承争い等で分裂して衰退し、1500年にウズベク族によってサマルカンドを占領され、9代約140年間続いたティムール朝は滅亡しました。

 

◆出典

○外務省「トルコ共和国」

○トルコ共和国大使館「年鑑 トルコ2006」

○日本貿易振興機構(ジェトロ):海外ビジネス情報

 

 

2008年2月にトルコ旅行に行ってきました。遺跡・自然等の写真がありますので、良かったらご覧になってください。 >> トルコ旅行(広大な自然と悠久の歴史)

 

 

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